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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 98

2013年08月28日 | 日記

 

デビット・カン著『 福音の道しるべ』より

  98

 魂を悩ますことには、その日、断食することも含まれていた。この断食は、今日の私たちにとって何を意味するのだろう?それは、健康に関するメッセージを通して与えられる光を指している。ウェブスター辞典に、断食とは、「控えめに食べること、また特別な食物だけを食べること」と書かれている。断食は、必ずしも食を断つことではなく、厳格な食事という意味もある。食事は健康に影響すると同様、脳の機能にも影響する。要するに、食事は私たちの決断力に影響を及ぼすのである。最終世代に与えられている健康に関する光、特に食事の法則に従わない人たちは、品性完成の最終段階でつまずき倒れることだろう。健康のメッセージは、実体としての贖罪の日に、より鋭敏な知力と善悪の観念を与えてくれる、神からの大きな祝福なのである。

 贖罪の日の間、イスラエルは全く仕事をしなかった。この点は、今日の私たちに、どう当てはめられるのだろう?聖書によると、仕事を休むことの他に、別の種類の休みがある。この休みについては、ヘブル人への手紙4章の1節から11節が光を放っている。「それだから、神の安息に入るべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル4:1-2)。「したがって、わたしたちは、この安息に入るように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない」(ヘブル4:11)。神への全的服従を通して罪から完全に休止するという経験こそが、真の安息なのである。3節から10節では、その安息が、カナンに入ったイスラエル人の経験以上のものであることが説明されている。それは単に、第七日安息日を守ることのうちに見出される休息ではないことが強調されている。それには、悔い改めや告白や赦しを受けること以上の意味がある。それは、罪に対して勝利を得、二度と倒れない術(すべ)を会得する民を指している。絶えず罪や誘惑や自我と戦うことにより、神の安息に入る民は、絶えざる勝利を得る術を身に付けるのである。

 

   新生への道 : 悔い改め

ところがここで思い違いをして、せっかく、キリストが与えようとしておいでになる助けを受けない人が多いのです。つまり彼らは、まず悔い改めなければキリストに近づけない、悔い改めは罪のゆるしを受ける準備であると思っています。もちろん悔いくずおれた心だけが救い主の必要を感じるのですから、悔い改めが罪のゆるしに先だつのは当然です。それでは、罪人は悔い改めるまではイエスのもとに行かれないのでしょうか。悔い改めが罪人と救い主との間の障害物となってよいでしょうか。

 聖書は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けられないとは教えていません。罪人が真に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とイスラエル人に言っています。私たちは、キリストなくしては赦しが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心を呼びさまさなければ悔い改めることができないのです。



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