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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義 4 あなたを造り変える福音の力

2012年02月06日 | 日記

   ひまわりさんの体験  その2
 おととい私が経験したことで気付かされたのは、今までは、何か問題が起こった時、それを我慢したり忍耐できるように努力してきて、そうすることがキリスト教だと思っていました。
しかし、キリスト教はそのようなものではなく、キリストの品性を自分のものにして下さるように、意志を向けることに努力することだったのです。
別の言い方をすると、自分が成長して変わるというのではなく、キリストの品性をいただきそれが自分の中に根付いていくことなんだということが少しわかりました。
それが信仰による義の出発なのだと思います。
このことを、デビット・カン先生が分かりやすく説いておられます。

    主は我らの義 4
 私には孫がおりまして、生まれて16か月ぐらいです。本当にかわいい男の子なんです。
まだ私が若かった時、2人の娘を育てました。子育てをしていたわけですが、私は仕事と勉強に忙しくしていました。
そのために、子供たちと一緒に過ごす時間をとれなかったのです。しかし、孫が生まれてからは、状況が変わってきました。
『私が言わんとすることがわかりますか?』
 『お孫さんがいらっしゃる方、おられますか? 
おお、たくさんいらっしゃいますね』。孫と交わる時、何かが起こります。
孫が何かを私に与えてくれて、私自身も心を彼に与えます。そうすることによって一つになります。
孫が泣く時、何を求めているか、私は理解することができます。
だんだん言葉を学び始めているところです。まだ言葉をちゃんと出すことはできません。音は出しますけれども・・・。
そして泣きます。それだけでわかります。私たちは一つになっているからです。その交わりでは、美しい言葉で語る必要はないんです。
時には孫を抱っこします。抱っこしていたら孫が私の背中をトントン叩いてくれます。それは私を信頼してくれているということなんです。
時には孫の母親が、私から孫をとって抱きかかえようとします。すると「おじちゃんと離れたくない。おじいちゃんと一緒にいたい!」と泣くわけです。
そういったことがお祈りなのです。ですから聖書には、絶えず祈りなさいとありますよね。
私たちが罪のうちにとどまっているとき、神様との関係が壊れてしまいます。
お祈りができなくなります。それは私たちの神様に対する態度なのです。聖書に書かれている真理の言葉は、単なる情報ではありません。
生きた力なのです。主が私たちの義なのです。これが女の残りの子らの経験となるべきであります。




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