主は我らの義 3 真理はあなたを変える力
よく、「信仰による義」と言う言葉が使われますね。それはどういう意味でしょうか。信仰によって、私たちが義なる者になるということですね。何に対する信仰ですか? 「十字架のイエス様の死に対する信仰」、と言う人たちもいるでしょう。それはどういう意味でしょうか? 信仰によって私たちが義とされる、義なる者となるというのはどういう意味なのでしょうか。できるだけ単純に説明したいと思います。子供でも理解できる方法をとりたいと思います。
私たちは義人ではないのです。義なる要素を私たちは持っていません。私たちは自分の中で、どんな小さな義も作り出すことはできません。それは不可能なのです。義を作り出す能力を私たちは持っておりません。
義とはなんでしょう。神様は義なるお方ですね。イエス・キリストご自身も義なるお方です。信仰によって私たちは、神様の義を受け入れるのです。そして、イエス・キリストご自身が義なるお方でありますから、イエス・キリストが提供される義を私たちが受け入れ、心のうちに取り入れた義のうちに生きるのです。そうするときに、私たちの人生において、イエス・キリストが力を発揮することがおできになるのです。
いろんな大事な言葉が聖書の中に見られますけれども、それらは単なる概念、知識ではないのです。み言葉というのは、生きた力であります。『お祈り』という時に、それはただ単に手を組んで何か神様に語るということでしょうか。それは単なる概念にすぎません。
バビロンの教育者たちは、人類にそのような概念を教えてきました。しかし、真理というのは単なる情報ではありません。真理は力なのです。では、お祈りとはなんでしょうか? お祈りとは、私たちと神様の関係そのものなのです。私たちが神様とつながっている時、何かが起こります。何かを受けるのです。私たちは変えられます。自分自身を神様にささげます。