愛する人を亡くされた方のために 第3回
回復への道
第一の段階
この時、私の心の中に一つの小さい声が聞こえてきました。「自然の法則は神様の御心である。死は神様がその愛する子供を呼ぶ時に用いられる一つの方法である」。私の愛する者を生かすことが神様の御心であったなら、神様はご自身が定められた自然法則に従って妻を生かされたことでしょう。クリスチャンはこのような事実によって神様に感謝します。不信仰者は癒しと回復を医薬の効果、医者の技術力の高さと評価しますが、神様を知る者は神様の善なる意図にすべてをゆだね信頼します。
第二の段階
次に悪魔は、私にこのような考えをもたらしました。「結局、神様の御心のままにすべてが成し遂げられるのであれば、祈りは何のためにするのか?」と。これは難しい質問です。神様は私たちの祈りを聞いて、それに従って雨を降らせたり雪を降らせたりされるのではないのですから、なぜ祈らなければならないでしょうか?中世期のクリスチャンたちが、ししの穴と迫害から免れさせて下さるように祈ったのに、神様は彼らに耐え難い患難をお許しになり、命を取られました。そうであるなら、祈ることにどんな意味があるでしょうか?いっそのこと、最初から祈ることを放棄して、ただ神様の御心と命令が成し遂げられていくのを、ただじっと待つことが賢明なのではないでしょうか?いったい祈る必要がどこにあるのでしょうか?
妻を亡くした後、私は何カ月もの間祈れませんでした。以前は、お祈りしないで箸を取ることなどあり得なかった私が、お祈りしないで寝床に入ることはなかった私が、妻を亡くした後では、神様なしで過ごす人になり、恨みの心で食膳に向かい、涙で寝床に就く身になってしまいました。その当時、苦痛の中で私が神様に捧げた訴えは、このようなものでした。「ああ!神様、私のこの言葉をお赦しください。あなたは、あなたの子供を傷つけられました。私の魂の痛みのために、あなたの前に近づくことができません。私があなたに祈らないからといって、捨てることはなさらないでしょう?いいえ、楽しい心で祈っていた時よりも、全く祈りができない今、あなたは以前にも増して私に愛と慰めを下さるでしょう。私があなたに祈ることが出来た時には、あなたの特別な恵みと慰めを必要としませんでした。私が祈ることができない今こそ、あなたの憐れみを最も切実に必要とする時です。愛する妻を亡くして、宇宙の漂流者となった今こそ、私が極度の失望に陥って神様を捨てようとしている今こそ、あなたは無限の愛を私に示し、私の後ろを追ってきて、私があなたを離れて行かないようにして下さいますね!」。
のちの雨を受けるための4つの条件 第4回
後の雨を受ける第1の条件
では、どのような人が、この後の雨を受けるのでしょうか?まず、最初の条件を見てみたいと思います。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイ7:21)。
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。
非常に有名な聖句ですね。天国に入るのは、天のお父様の説教をする人ではなく、教える人ではなく、み言葉を行う人だけが入ると教えています。
「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ7:23)。
不法というのは、戒めを行わないということだけでなく、愛によって行っていないことも含むのです。本物の信仰を見分けるには、その生涯に聖霊の実があるかどうかで識別することができます。
「弟子たちは、教理について雄弁に語ることも、キリストご自身のみことばをくりかえすこともできたかもしれなかった。しかし、もしキリストのような柔和と愛とをもっていなかったら、彼らは、キリストを告白していることにならなかった」。(各時代の希望上92p)