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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 125 

2013年09月28日 | 日記

   

  福音の道しるべ 125

 「ここに、聖徒たちの忍耐がある。ここに神の戒めを守り、イエスの信仰を持ち続ける彼らがいる」(黙示録14:12―欽定訳)。私たちは、最後まで、しかも十字架上の第二の死に至るまで、天父の戒めに従ったキリストの信仰を持たなくてはならない。最終世代は、イエスの信仰そのものを通して、天と地の前で神の義を擁護し、キリストにふさわしい冠を、そのみかしらにかぶらせることになっている。

 十四万四千の一員となることを、私たちはどれほど真剣に求めるべきか。彼らは、小羊の行くところへは、どこにでもついて行く。彼らの口には偽りがない。彼らは、非の打ちどころのない者となっている。私たちはこれを、最大の希望とすべきではないだろうか?私たちが罪を犯し続けるならば、小羊は天の聖所で苦しみ続けなければならない。彼の苦しみを思いやり、罪をこよなく憎む心を育て、彼のご品性を擁護したいという熱意を発達させようではないか。これらの思いが私たちを駆りたてて、敬虔な生き方をさせるのである。

 私たちは、十四万四千についてすべてを知り、すべてを理解することはできない。エレン・ホワイト自身も、彼らについての完全な理解を持っていたかどうかは疑わしい。彼女はただ、「神の選ばれたこれらの人々が誰であるかは、近いうちに疑いもなく分かるであろう」と書いている(SBN588ページ)。そして私たちは、彼らが、全宇宙の前で果たすべき特別な使命を帯びた、特別な民の一団であることを知っている。

   新生への道 6 信仰と受容 ⑦

これは 実に優しく、人の心を動かさずにはおかない物語ですが、これだけでは、まだ天の父の限りないあわれみを十分にあらわしてはいません。主は預言者を通し、「わたしは、限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31:3)と言われました。罪人がまだ父の家から遠く離れた異国で財産を浪費しているとき、父の心はその子の身の上を案じているのです。そして、神へ帰りたいと言う気持ちを彼の心に起こさせるのはみな、聖霊のやさしい訴えの声であって、さまよい出た者へ熱心に話しかけ、哀願し、父なる神の愛の心に引きつけようとしておられるのです。

 聖書には、こうした約束がたくさんありますから、疑う余地はどこにもありません。哀れな罪人が帰りたいと思い、罪を捨てたいと願っているのに、主は彼が罪を悔いて主の足もとに来るのを拒むなどと考えられるでしょうか。決してそのようなことを考えてはなりません。天の父がそのような方であると考えることほど、魂を傷つけるものはありません。神は罪を憎まれますが罪人をお愛しになります。

 神がキリストをお与えになったことは、ご自分をお与えになったことでした。そして望む者はだれでも救われ、栄光のみ国で限りない祝福にあずかることができるようにしてくださったのです。神が私たちに対する愛をあらわすためにお用いになった次の言葉ほど、強く優しい言葉はありません。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子をあわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」(イザヤ49:15)



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