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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

救いは取り消されることがあるのか 第14回

2014年11月02日 | 日記

  

 救いは取り消されることがあるのか 第14回

3、「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)。

「認むべきである」という言葉は、「信じること、または成し遂げられたこととして考えること」を意味します。つまり、自分自身を罪について「死んだ者」として見なされなければならないと言う意味です。死んだ者は怒りません。死んだ者は利己的なむさぼりを持ちません。

かりに皆さんが、罪に対して勝利を得たいと思うのであれば、皆さん自身を罪に対して死んだ者と見なさなければなりません!現在皆さんが抱えておられる、勝利できない問題は何でしょうか。皆さんは喫煙の習慣や、執拗につきまとう罪を克服したいと本当に望みますか?今キリストは語られます。「私はあなたに勝利を与えよう」。皆さんがこの約束を信じる限り、神様は勝利を与えて下さるのです。そしてこれから皆さんは、罪に対しては死んだ者として行動してください。勝利のための力を求める祈りをしてください。皆さんが勝利を求めた瞬間、勝利の力は天の補給所から皆さんの生活の中に、即座に下ることになるのです。たとえそれを感じることができなくても、それは間違いなく皆さんの生活の中に表れるようになります。皆さんがそれを信仰で受け入れる限り、いつもそこにあるでしょう。

ある人々は、この勝利を劇的に経験し、今まで好きだった罪を嫌悪するようになり、罪はその味を失ってしまいます。喫煙中毒だった人が、喫煙の要求から完全に解放されることがあります。けれども、このような方法は、神様が一般的にとられる方法ではありません。多くの人の場合、勝利の経験は与えられますが、心には罪の欲求と欲望が残っていて、機会をとらえて人を誘惑してきます。しかし、誘惑の瞬間ごとに、それを克服できる力が天から私たちの心に伝わってきて、力強く私たちを支配するようになります。

私たちの肉体と感覚が、私たちに罪を行うように激烈に要求したとしても、私たちの良心の中で語られる聖霊の静かな訴えが耳に響いて、私たちは自分自身をすでにキリストにあって死んだ者と見なして、聖霊のみ声に屈服するようになります。このような経験を通して、私たちの信仰は天に向かってぐんぐん成長していきます。

      お約束を果たされた神様 第14回   

弟子たちは、小さい時からイザヤ書の預言は聞かされてきていました。しかし彼らは、表面的にしか理解していませんでした。もし彼らが、本当に聖書を分かっていたならば、イエス様が捕えられ、悪しき者と共に死なれた時、彼らの信仰はもっと確実なものになったことでしょう。このイザヤの預言が成就した、この方こそメシヤだったと、むしろ彼らの信仰の確証となるべきでした。しかし彼らは、聖書の意味を正しく理解せず、信じる心も鈍いために、イエス様をメシヤと認めることが出来なくなってしまいました。

イエス様が復活なさった後、信仰と希望を失っていた弟子たちに、「なぜあなたはこんなに愚かで心がにぶいのか。パンを5千人に与えた時には、それを食べ、病気の人を癒した時には見物して、死人をよみがえらせた時にも、あなた方はそれを見たではないか。どうして信じられないのか」、とは言われませんでした。彼らの信仰が根本的に間違っていたことを気づかせるために、メシヤ預言から始めて、聖書全体にわたって、旧約聖書の預言が、ご自分のうちに成就していることを解きあかされました。そして、聖書の預言の成就という、この動かない土台の上に信仰を築き上げるように、彼らを教えられたのでした。

ですから皆さんの信仰も、聖書を土台として、聖書の約束が、全てイエス様の中に成就しているということの上に、築かれていってほしいと思います。これこそが信仰の基礎にならなければなりません。


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