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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

罪か逃れる道 ソン・ケムン 第3回

2017年12月07日 | 日記

しかし、このような教えは全く聖書的なものではありません。 罪を本人の選択とは無関係に人間の存在そのものだとしたり、遺伝的に受けついだ、堕落した本性そのものだという立場は、聖書には全くないのです。

前回私たちの人間性、本性について学びました。

本性が罪だとすると、「たとえ私たちが罪を選択しない時でも、私たちは罪を犯している」という話になります。罪は必然的なものであり、継続的な状態だと理解することは、本当の罪、つまり神様への不従順、神様の戒めを犯すことに対する、私たちの信仰的感覚を鈍らせます。「堕落した本性を持っているから、私たちは罪と戦えないのだ」という自己合理化のドアが開かれることになります。 言い換えれば、私たちは罪を犯すことを、正常な生活の一部として容認してしまうのです。

罪についての聖書的な定義があります。 罪は選択だということです。

ヤコブの手紙4:17をみると、「人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である」とあります。

ヨハネの第一の手紙3:4をみると、「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」と教えられています。


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