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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 36 

2013年06月26日 | 日記

        

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C.罪祭

 罪人は、赦しを受けるために罪祭をささげた。従って、それは最も重要な供え物であった。罪祭は、子羊の血が罪を清めることを罪人に悟らせる、実物教訓であった。血は命であるから、そこには重要性がある。私たちは罪を犯したので、私たちの血は汚れている。ゆえにそれは、罪を清めることができない。罪を犯したことのないキリストの血には、罪を清める力がある。律法を手ずから書かれた罪なきお方の血が、私たちの身代わりとして流された。それは、私たちが再び新たな命を生きるようになるためであった。「インマヌエルの血管から湧き出る血の泉があり、その泉に身を投じる罪人は、あらゆる罪の汚れから清められる」(英語讃美歌より)。

 祭司、またはイスラエルの全国民が罪を犯すと、犠牲の中でも最も高価な雄牛が連れてこられた。神の御目からは、祭司が罪を犯すというのは、全国民が罪を犯したくらいに由々しい事態であった。個々の罪の重大さは、犯した人の霊的責任に比例して増していった。通常、教会の指導者が背教すると、民がそれに倣う。人を教える立場にある者たちの責任は、いかに重いことか! もしも彼らが、信仰による義の誤った概念を説いたならば、教会全体が失われかねない。もしも指導者が、真摯な罪祭の経験をしていなければ、どうやって民を指導することができるだろう? 雄牛の罪祭は、霊的指導者には重大な責任が伴うことを示している。

 民の支配者が罪を犯した場合は、二番目に高価ないけにえである、雄の子ヤギをささげることになっていた。一般人が罪を犯した場合は、メスの子ヤギか、その人が貧しければ一対〔雄と雌〕のハトをささげることになっていた。これによると、たとえ同じ罪であっても、犯した人の社会的立場に応じて、その処分が異なっていたことが分かる。つまり、個々人の罪の重大さは、その人の社会的地位〔責任〕が高ければ高いほど、増していったということである。


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