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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

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2014年06月08日 | 日記

  

 恋に落ちた神様 12

ところが、それでも人間は分ってくれません。その時神様は、どうなさったでしょうか?その手紙が、その言葉が人間となられました。人間になってしまわれました。ヨハネの福音書1章14節を見ると、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」と書いてあります。私たちと愛を分かち合いたくて、言葉だけではあまりにも分かってもらえないので、愛をもっと近く感じられるように、肉体となって来られたのです。これこそが、神様がこの地上に来られた理由です。完全な愛というのは、相手と同じ立場にならなければできません。リスはリスと結婚します。スズメはスズメと。ミミズはミミズと一緒になります。それぞれみんな。どんな小さなものでも、同じ者同士で愛し合います。みなさん、象と蟻が結婚したという話を聞いたことがありますか?見たことも聞いたこともありませんね。同じ者同士でなければ、愛し合うことは出来ません。

  神の火 13

   死にいたる罪

ヨハネ第1の手紙5章をご覧ください。ここにある興味深いことが書いてあります。ヨハネ第1の手紙5章16節です。お読みします。

「もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない」(1ヨハネ5:16)。

ここで皆さんと、単純な聖書研究をしたいと思います。今聖書は、2種類の罪があると言っています。一つは死に至る罪、もう一つは死に至らない罪、どういう意味でしょうか?犯しても大丈夫な罪があると言うことでしょうか。もう一方で、この罪を犯したなら、もうそこに救いはないということでしょうか。たいていの場合、私たちが真に生まれ変わりの経験をしたクリスチャンであるなら、そのあと犯す罪というのは、偶発的といいますか、私たちの弱さから出てくるものなんですね。必ずしもその罪を犯そうと計画したり、意図的にその方向に向かうようなことはしないのです。罪を犯してはいけないと知りながらも、弱さのゆえに、間違って犯してしまうことがあるわけです。そして、罪を犯した時にはそのことを心から悔いて改めるわけですね。それは必ずしも、罪がばれて面目を失って、人々から悪く言われる、そういった辱めを受けて悔い改めるのではなく、罪というものは、神様を悲しませるものであるという理由で、私たちは悔い改めをするわけです。


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