SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

新生への道 9 人生と活動 ③

2013年10月27日 | 日記

   


   新生への道 9 人生と活動 ③

そのように、キリストの恵みにあずかった人々は、喜んでどんな犠牲も払い、キリストがいのちを与えられた他の人々も、天の賜物を受けることができるようにします。彼らはできる限りを尽くして、この世を少しでも住みよい世の中とします。真に悔い改めた者の心には、必ずこうした精神が見られるようになるのです。キリストのもとに来た人はすぐに、イエスがどれほどすばらしい友であるかを他の人に知らせたいと望むようになります。人を救い清める真理は、どうしても心の内に閉じ込めておくことはできないのです。私たちがキリストの義の衣をまとい、内住する聖霊の喜びで満たされているならば、黙っていることはできません。もし、主の恵みを味わい悟ることができたならば、何か言いたくなるものです。ピリポが救い主を見いだしたときのように、他の人々を主のみ前に誘わずにはいられなくなります。そして、彼らにキリストの美と、見えない世界の現実性について話したいと思うでしょう。またイエスがたどられた道を歩みたいと熱心に願い、周囲の人々に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)を仰がせたいと切望するようになるでしょう。

  主に会う備えをせよ ⑯

ここで言われている、キリストとつながるとは、祈りや冥想、御言葉の学び、証し、などを通して、私たちがキリストと交わり、キリストをたえず心に宿し、私たちを通して、キリストが現れて下さるように、自分をゆだねていく、ということです。そしてここでも、私たちの信仰生活は、頼りにならない自分の知恵や力によらず、神の知恵を求めながら歩んでいくのです。新生のための真の自己放棄をしても、私たちは、知らず知らずのうちに自己満足に陥り、自分に頼ってしまう根強い肉の傾向を持っています。ですから私たちは、自分の声に耳を傾けることがないように、朝毎に、そして時時刻々、神の御旨を第一とし、神に喜ばれる歩みができるよう祈らなければならないのです。

 「聖潔は忘我の境地ではない。それは意思を全く神に従わすことである。それは、神のみ口から出る一つ一つのことばで生きることであり、天の父なる神のみこころをなすことである」(『患難から栄光へ』上巻47頁)。 

 このようにして私たちは、主の喜ばれる道を歩み続けます。この時、真に自己放棄をした人は、自分のなす良いわざのすべては、自分から出たものでないことを知っています。もともと、自分の中に主をお喜ばせする何ものもないことを知って私たちは、自分を神様に明け渡したのですから、もし私が何か一つでも良いことをしたとすれば、それは私たち自身から出たものではなく、私たちの内に宿っておられるイエス様から出たのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。