SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

新生への道 9 人生と活動 ④

2013年10月28日 | 日記

  

   新生への道 9 人生と活動 ④

他人を祝福しようとする努力は、かえって自分自身の祝福となって戻ってきます。神が私たちをあがない、計画の一部に携らせてくださるのはこのためです。神は、人に神の性質を持つ特権をお与えになりましたが、これは他の人に祝福を分け与えるためです。このことは神が人類にお与えになる最高の栄誉であり、最大の喜びです。こうして愛の働きの共労者となる者は、創造主の最も近くにいることになるのです。

 神は、福音宣伝の働きだけでなく、すべての愛の奉仕を、天使にお任せになることもできました。また、別の方法によって目的を達成なさることもできました。しかし、神は限りない愛をもって、私たちを、神ご自身、キリスト、天使と共に働くものとして選び、自分を忘れて働くことからくる祝福、喜び、霊的向上に私たちをあずからせてくださったのです。

 私たちは、キリストと苦しみを共にすることによって、キリストと一つになります。他人の幸福のためにする自己犠牲の行為はどれもみな、与える者の心をますます情け深くして、「主は富んでおられたのに、あなたがたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」(Ⅱコリント8:9)と記されている世のあがない主に、いっそう近く結びつけます。こうして、私たちを創造された神の目的を果たすときにはじめて、生きていることが私たちの祝福となるのです。

    主に会う備えをせよ ⑰

最初に紹介した引用文、「キリストはご自分の教会の中にご自身をあらわそうとしておられる」という言葉でもわかりますが、あらわれて下さるのはキリストご自身であって、私たちの何か、ではありません。私たちはただ、自分を通してキリストがあらわれて下さる器のようなものにすぎません。ですから私たちの誇りはいっさいなく、私たちが、たとえ「自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても」(コリント第一の手紙13章5節)、ただ私たちが言うことは「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカによる福音書17章10節)という言葉だけです。

 「人間は服従なしでは救われないが、そのわざは彼自身のものであってはならない。キリストが彼のうちにあって、そのみこころを行わせてくださるのでなければならない」(『セレクテッド・メッセージズ』第一巻364頁)。

 このように、信仰のスタートは自分を明け渡すことであり、その後の歩みもまた、どれだけ自分を明け渡して、神に働いていただけるかにかかっています。新生し、神の子として受け入れられた人は、さらに、地上にあって神様のご品性を反映するために、朝ごとに聖霊のバプテスマ(意志を神にささげること)を受けて出かけるのです。

 もちろん、このような歩みの中にも、私たちが気づかずに持ってしまう自己満足の心を砕くために、時として神様は私たちが失敗したりすることをお許しになります。でも、そのような時にも、私たちは次の言葉によって新しい力をいただくことができます。

 「これを忘れないでほしい。もしあやまちを犯した場合には、そのあやまちを認めて、それを再びくり返さないように戒めとするならば、勝利を収めたことになる。こうして敗北を勝利にかえ、敵に乗ぜられることなく、あがない主にほまれを帰することになるのである」(『実物教訓』307頁)。

     


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。