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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

日曜休業令の切迫2

2013年02月06日 | 日記


    ひまわりさんより(2月6日)

「イエス様を愛する」というのはどういうことなのか、体験的によくわかりませんでした。「愛するイエス様」などと言っている人を見ると、どうしてイエス様を愛するなんて言えるのだろうと思っていました。新しい職場になって、急な予定変更や、忙しさが続くと、どうしても心の中に、呟きの思いが出てきてしまいます。そのたびに、「イエス様の動機と希望を私の心に根付かせてください」、と祈ります。そうすると心が穏やかになります。以前は、半日ぐらいして、穏やかになってきていましたが、今はだんだんそれが早くなってきています。でも、そういうことをくり返していると、もう、イエス様と離れたくないという気持ちが強くなってきます。一瞬でもイエス様から離れられないという心、これがイエス様を愛するということなのだろうかと思ったりしています。

    十字架のイエス様 2

イエス様が十字架にかかっておられたとき、すべてのものが真っ暗に思われました。弟子たちも、ヨハネ以外は全員散ってしまって、いなくなっていました。そして、イエス様の主だった弟子が裏切って、3度も知らないと否定しました。すべてのものが、暗く思われました。お先真っ暗の状態でした。イエス様ご自身が、4000年にわたって、メシヤの預言を与えてこられたわけですね。神の民に、聖所の儀式のことを教えられ、それをするように定められました。神の民が、聖所にいけにえの動物を連れてきて、それを屠る時に来たるべきメシヤのことを、彼らは理解できるようになっていたのです。
この十字架でイエス様が亡くなられた時に、イエス様の任務は、そのお働きは、失敗したように見えました。当時の教会の指導者たちも、彼を受け入れませんでしたし、弟子たちも意気消沈して逃げ去ってしまったわけです。そして、すべてが真っ暗闇に思われた時に、イエス様は、父なる神様のご臨在を感じることができませんでした。イエス様は、全人類の罪を、ご自身の罪として負われたわけです。そのことが、ペテロ第1の手紙2:24には「十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた」と書かれています。どうして、ご自身の体で私たちの罪を負うことができたのでしょうか。これはただの象徴としてではなく、現実のこととして起こったのです。十字架のイエス様の苦悩を、私たちが本当に理解することができるならば、彼を愛するようになります。私たちが持っているもの、私たち自身をイエス様に喜んで捧げることができるようになります。自分のために何かを取っておくということは、もはや思わなくなるでしょう。私たちは喜んで神様にすべてを捧げ、献身することができるようになるでしょう。





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