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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

主は我らの義 15あなたを造り変える福音の力

2012年02月18日 | 日記


ひまわりさんの体験 その4
最近また一つ、憤慨したことがありました。
これは絶対おかしい、こんなことは到底受け入れられない、だから、私一人でも反対の立場を貫こうと思っていました。
ところがしばらくして、自分は絶対のものではないのだから、こうでなければという思いも、
いったんゼロにして、神様に思いを導いていただかなければ、という気持ちになり、そのように祈りました。
そうすると、小さな問題に目くじら立てる必要はなく、流れにまかせればいいことだという気持ちになりました。
これも小さな、信仰による義の体験かな、と思ったりしています。

     服従と賜物(デビット・カン)     

ローマ3:24 をお読みします。
「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。
義というのは、すべて神様からの賜物であります。次にローマ5:17をお読みします。
「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、
まして、あふれるばかりの恵みと賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、
いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか」。 義の賜物についてここに書かれていますけれども、
先に進みます。イザヤ61:10 「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救いの衣を着せ、
義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」
旧約聖書のこの箇所においても、義の衣をまとわせてくださる、それが賜物と書かれていますね。
しかし、問題があります。律法に対する服従によって義とされるのだとするならば、義が賜物であるという概念をどうしたらよいでしょうか。
義認をを受けるためには神様の律法に従わなくてはいけません。しかし、聖書によると義というのは賜物であるというわけですね。
テトス3:5~7を見ますと、「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、
聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救い主イエス・キリストをとおして、
わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、
永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐものとなるためである」








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