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SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第8回

2018年01月09日 | 日記

ある人の話をします。

トルストイはロシアの大文豪ですが、とても信仰的なクリスチャンでした。トルストイは山上の垂訓の言葉を文字通り従おうとしました。イエス様がお金持ちの青年に彼の全ての財産を売り払って従いなさいという言葉を読んで、トルストイは自分の全ての財産を売って貧しい者たちにあげ、自分の作品に対する著作権料を放棄して、使用人を自由にしてやりました。持っていた広大な土地を処分し、貧しい者に与えて、農夫たちと同じ靴を履き、農夫たちが着る服を着ました。また、最後の長編小説である<復活>の収益金のすべてをロシア皇帝から迫害されていた宗教団体が移住する費用として与えました。山上の垂訓から学んだトルストイの非暴力哲学は、彼が死亡した後も、ガンジーやマーチン・ルーサー・キングのような非暴力を主張する後世の人たちに影響を及ぼしました。

本当に立派ではありませんか。トルストイはそれほど完全に生きようと努力しました。そのように努力しましたが、心の平和は得られませんでした。死ぬ間際に書いた彼の日記と手紙は自分の失敗に対する悲観的な内容に満ちています。彼が聖書通りに生きようとした時、理想と現実との違いは彼を悪霊のように苦しめました。トルストイは自分が自分をだましているということを、知りすぎるほど知っていました。自分の本心がどんなものかを知っていたので、トルストイは決して良心の呵責から自由になることはできず、不幸でした。

彼はこのような文章を残しました。「キリストの言葉通り生きているかどうかは、私たちが完全さに到達するための過程で、自分自身の弱さを我々が知っているかどうかにかかっている。自分がどれほど完全なのか確認することができない。ただ、知ることができるのはその完全さからどれだけ離れているかだ」。

これは正しい言葉のように思えますね? しかし、この言葉は「あなたはキリストから100m離れている。あなたは50mでちょっとましだね。何だよあなたは1kmも離れているじゃない。もっと頑張ってやり続けなさい」。そんな意味になります。そうするとどうなりますか? 自分の足りなさを見れば見るほどさらに足りなさを感じて自信を失い、結局諦めてしまいます。でなければ逆に「私がどうやってイエス様のようになれるんだ!?」と怒ってしまうことになります。

トルストイは自殺しようとする衝動に勝つことができないと思って、家にある紐はすべて隠し、持っていた銃を捨てなければならなりませんでした。結局、トルストイは家族も、財産も、自分のアイデンティティもいずれも失ったまま放浪生活をしていましたが、ある田舎の駅で死んでしまいました。本当に残念な運命でした。


 赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第7回

2018年01月08日 | 日記

皆さんは、空中ブランコに乗るサーカスを見たことがありますか。私が幼いころ、TVで新年になると、今もやっているのか分からないのですが、そのころ見た記憶では、空中ブランコから次のブランコへ飛び移ったり、互いに手を握り合う演技をするのを見ました。彼らがそうすることができるのは、落ちても受け止めてくれる網が下にあるので安心して曲芸をすることができるのです。

 私たちはまだ完璧ではありません。しかし、聖霊の中で生きていくと、私たちは早く立ち直ることができます。私たちが滑り落ちても、私たちの下には網があります。キリストの血は、私たちのすべての失敗に対する赦しを提供しました。しかし、もし落ちたときに網の上で寝てしまったら、私たちは、サーカス団に残っていられないでしょう。私たちは役立たずの曲芸師にしかなれません。

しかし、もし私たちが真に清められた生活を送りたいなら、空中ブランコで見事な演技をしたいなら、私たちの下には網があるということを知る必要があります。曲芸師たちは網があることを知っているので、安心できます。もし網がなければ彼らは緊張して恐れることになります。私たちも緊張して恐れたとき、さらに落ちやすくなります。何の話なのか理解できましたか? 落ちるのを恐れている人は、自分が落ち続けているのだということを発見します。清く生きようと一生懸命努力する人は、そうするほど、清く生きることが難しいことを発見することになります。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第6回

2018年01月07日 | 日記

皆さんは失敗しましたか?キリストを愛し、その方の御心通りに生きたいと福音を伝える仕事をしていますが、神様の働きに熱心なのに、罪を犯しましたか?誘惑に倒れましたか? それなら、神様の前に出て再び赦されればいいのです。とても簡単です。真理はとても簡単です! とても単純です! 私がこのように言うと、ある方は「あ、ちょっと待ってください。それでは罪を犯しては赦され、罪を犯しては赦される、そんなものではないですか。それ新神学ではないですか? ニコライ宗の教え、自由主義神学ではないですか。そんなに標準を落としてもいいのですか?」と誤解するかもしれません。そう考えるのは自由です、しかし私は主のもとに行って赦されます。多くの人が倒れた時「あぁ、真の赦しの力は再創造なのに、私は本当に生まれ変わった者ではなかったんだ」。そんな風に考えて苦しくなって倒れてばかりいる方がいいのですか?

そうなるくらいなら、イエス様のもとへまた行って赦されて、立ち上がったほうがはるかにましではないでしょうか。

 赦されることを難しいと思ってはいけません。「赦されたらこのようになると言われたから、私は赦された者ではないんだ」。そう思わないでください。そのように考える前に、赦してくださる神様を先に考えてください。いつも勝たなければならないと思う人の問題は、赦されてない人生を生きていることです。神様に赦された経験がないので、勝利者の人生を生きるが難しいのです。赦されていないから、いつも罪責感で苦しんでいるのです。そして信仰に喜びがなく、ただ到達しなければいけない標準だけがあるのです。

今私は「あぁ、ただ信じればいいのだ」、そのような福音を信じている人たちに話しているのではありません。永遠の福音を知っている人たち、純潔で聖なる民への招きを知って清く生きようとしている、まさに皆さんに話しているのです。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第5回

2018年01月06日 | 日記

そんなタイプの人もあれば、ある人たちは「あぁ、私は義人として生きようとしたが、サタンが私の足もとをすくったので倒された。私の責任10%、サタンの責任90%だ」。そう言いながら適当にサタンに責任を転嫁して、自分の良心を慰めたりします。罪を犯すのは「自分であって」サタンではありません。

ある時私に相談の電話がきました。電話を受けるや否やこの方が「牧師さんはいつも垂直上昇だけしているのですね?」こう話しました。急にギクッとしました。「私はなぜこんなによく倒れて失敗するのか分かりません」。このような相談をする方がいました。皆さんはどうですか? 

 ここにいらっしゃる皆さんは生まれ変わりの経験の後に、一度の失敗もなく垂直上昇だけをしてきましたか? いつも高空飛行ばかりしていますか? たえず勝利して一度も負けたことはなく、勝利者の人生を生きていますか?

もちろん、勝利者だけが、天に行くはずです。もちろん、艱難の時に立つことができる人は、思いにおいても罪を犯さなくなった人たちです。「赦しの力は人を変化させて再創造し、神様の聖なる者にする。それが真の赦しの経験である」。その通りです。これこそ私たちが伝えなければならない永遠の福音です。正解です。

ところで私たちの問題はそのような事実ではなく、「神様がどれほど私を愛してくださり、私をどのように赦されるのか!」という問題です。罪人を受けいれてくださる神様を誤解して滅亡する危険が大きいという事実です。

 

赦される側の立場ではなく、赦してくださる方の立場を皆さんは考えたことがありますか。さっき私が言った赦しの定義は、全て赦される側を中心にした定義でした。「赦された者はこのように変化する。あんなふうに再創造される」。それは全て赦された人のことでした。それと反対に、赦してくださる方の立場を考えてみましたか。つまり、私たちは神様がどのように私たちを赦して受けいれてくださるのか、その事実を考えたいと思います。言い換えれば、神様がどんな方かを知らなければならないということです。永遠の命はどこからか来ると言われましたか? 「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハネ17:3)。では、私たちは今日神様について調べてみましょう。


赦し忘れてくださる神様 ソン・ケムン 第4回

2018年01月05日 | 日記

赦しとは何ですか? 赦しの定義を正確にした後で話を続けます。赦しは創造の力そのものです! 真の赦しを受けるなら、悪人が義人になるのです! このように言うこともできます。神様から赦されると、私たちの生涯が変わる! 曲がった針金をしゃんと伸ばすように、赦しにはそのような力があるのです! そのような定義を下せるのです。一般的なキリスト教会では「罪を犯したのですね。それでは神様から赦しをいただきましょう」。こうして赦しを乱用するために罪を犯しては赦されることの繰り返しから脱することができなくなってしまうのです。私たちは、赦された者は罪から離れることができると信じて、それを人生に適用します。そこで私たちはこう言います。「赦しは力だ。赦された人の結論は再創造だ。イエス様がマグダラのマリヤを赦された後、二度と罪を犯してはいけないと言われた!」。

赦しは過去の罪を洗って清めるだけではなく、二度と罪を犯さなくする力をくださるのが神様の赦しです。それが正しい赦しです。赦しはただ見逃してくださる以上のことです。皆さんがこのような真理を分からないでいるなら救われることは難しくなります。そうですね?私たちはこの事実を見逃すことはできません。 ここにおられる皆さんの中で、私が今述べた赦しの定義を初めて聞いた方がいらっしゃいますか。いないと思います。

ところがこのような高貴な真理が、ややもすると硬直した結果を生み出すことを、私はしばしば見てきました。「私は赦された者なのだから、もう義なる者にならなければならず、清くならなくてはいけないし、 勝利の上にもなお勝利を得る者にならなければならないし、勝利は私のものなのに…」。ところが失敗する時があります。自分が望んでいなかった罪を犯すことがあります。自分でも気づかないいうちに利己心や傲慢、嫉妬が起きてきます「え?これは何だ、これは私が嫌悪する罪なのに、これは私が嫌いな罪なのに、赦しは再創造、赦しは力だと言われたが、私は勝利の上になお勝利を得る者になるはずなのに、勝利しなきゃいけないのに、なぜ、私は失敗したのか? 私の悔い改めと新生の経験は勘違いだったのか? 自己欺瞞だったのか?」そう思って慌てるのです。そのために絶望し、そこから抜け出せないのです。