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SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

これが真の福音です ソン・ケムン 第2回

2017年11月17日 | 日記

反キリストの教え

身元を確認するためには運転免許証、健康保険証などが必要です。私たちはこれまで何回かにわたって反キリストが誰なのか、聖書を通してその正体を知るようになりました。聖書は反キリストが誰なのかを知るための非常に重要なもう一つの情報を提供します。

□ヨハネ第一の手紙4章2、3節を見ます。

「あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている」。

□ヨハネの第二の手紙7節を見てみましょう。

「なぜなら、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである」。

このようにヨハネは二度も、イエス様が肉体をとって来られたことを否定する者が反キリストだと述べました。たとえば、ある人や団体が反キリストかどうかを知るためには、彼らの教理的な「身分証」を綿密に調査してみてください。「キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす」という内容が見つかるならその答えは確実です。それは反キリストです。

ヨハネは、反キリストはキリストが人間の肉体を持って来られたことを否定するということに注目しています。 反キリストがキリストを歴史上の人物ではないとか、神様の子という事実を否定するというのではありません。 反キリストが否定するのは、イエス様が実際に、人間の本性を取られたという事実です。分かりますか? 反キリストは、イエス様が神様の子であることを否定するのではなく、人間の肉体的な本性を持って来られたことを否定するというのです。

すべてのクリスチャンはイエス様が肉体を取って来られたことを認めなければなりません。もちろん認めるでしょうね。しかし、その告白は「イエス様がおとめから生まれて十字架に釘付けされ3日目に復活した」という事実を知ること以上でなければなりません。驚くべきことに、このような告白をしながらも、私たちは「惑わす者 、反キリスト」になることができるのです。 聖書によるとその告白はもっと特別なことです。

 


これが真の福音です ソン・ケムン 第1回

2017年11月16日 | 日記

キリストの受肉こそ福音の中核

イエス様の弟子たちが、オリブ山で「世の終わりにはどんな前兆がありますか」と尋ねた時、イエス様は「人に惑わさないように気をつけなさい」と言われました。イエス様の返事にはっきり示されているのは、人を惑わす誤った教えがたくさん出てくるということです。

今日、ほとんどのクリスチャンがよく考えもしないで受け入れ、キリスト教界に大きな誤解をもたらしている神学的な問題が一つあります。それは「イエス様がこの地に来られた時、どんな姿で来られたか」という問題です。この問題は皆さんにはあまり重要に思われないかもしれません。しかし、この質問こそ、福音の中核をなしている非常に重要な、いや、もしかしたら、最も重要な問題です。

福音とは、神様が人となってこの地に来られたという受肉の真理そのものなのです。 ところが終末時代の今、イエス様の受肉について深刻な誤解がキリスト教会に入ってきました。皆さんが知っているイエス様は、聖書が語るイエス様ではなく、反キリストが偽りの神学で作り上げたイエス様である可能性が高いのです。なぜなら今日ほとんどのキリスト教会は、反キリストが作ったイエス様を信じているからです。 これは本当に衝撃的な事実です。 皆さんが信仰を告白して、切実に捜し求めているイエス様が、聖書が語るイエス様ではないのですから!

しかしこれは、単純にイエス様がどんな人間の姿で来られたかを知ることだけではなく、クリスチャン生活の中で、神様の戒めを守り罪に勝利する人生を生きるために、必ず理解されなければならない非常に重要な、いくら強調してもしすぎることのない問題です。

今日この研究が終わった後、皆さんは反キリストが何をしたのかを明確に分かるようになります。また、イエス様をさらに深く愛するようになるでしょう。 イエス様の犠牲とその愛の尊さを深く感じるだけではなく、本当のクリスチャン生活とはどういうものか、 罪に引きずられ苦しんでいるのではなく、喜びと感謝、活力あふれるクリスチャン生活をどうしたら送れるようになるのか悟るようになるのです。み言葉の通りに真理が皆さんを自由させるようになることでしょう。

ああ、私はこの福音を早く皆さんに伝えたいとやきもきしています。 私が一番話すのが好きなテーマがまさにこれです。では始めます。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 最終回

2017年11月15日 | 日記

6、何の変更もない新しい契約

 

新しい契約はキリストの血潮で承認されたので、キリストが十字架に付けられて死なれる時までは効力を発揮することが出来ませんでした。この重大な事実を決して見逃してはいけません。私たちの永遠の命と死は、まさしくこの真理をどれほどよく理解するかにかかっています。パウロは「いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない」(へブル9:16、17)と記しました。ここで『遺言』という言葉は「契約」を指しています。人の遺言は、その人の死が確認された後で始めて、その遺言の条項が実行されることになります。同じくクリスチャンの契約も、カルバリの十字架以後に始めて効力が発生しました。

 

他の聖句からも、この問題を正確に理解する事が出来ます。「兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない」(ガラテヤ3:15)。ここでパウロが語っているのは、人が死んだ後では、遺言の内容は変えられないという事です。契約内容は遺言者が死んだら、そのまま永遠に続くのです。同じように、キリストが死なれた後も、人類を救うためにそのお方が提供された方法と手段は、何一つとして変えることはできません。

律法のすべての要求事項は、イエス様の罪のない生涯の完全な模範によって満たされ、それがみ霊を通して信じるクリスチャンの心の中に与えられ、さらにご自分の律法を心に書き記すことによって、喜んで律法に従う新しい契約が成就するのです。

 新しい契約の条件下では、ただ一人の魂さえも、堕落した本性の強い衝動を自分だけの力で戦うように放置されることはありません。「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)。神様の不変のご品性に基づいた永遠の契約は、先天的あるいは後天的なすべての欠陥を克服するために、超人的な能力を提供して下さるのです。罪や誘惑に直面する度に、そのお方のみ力を求めるすべてのクリスチャンは、聖霊を通して驚くべき力を体験することになるでしょう。そうして聖霊のみ力を受け入れるすべての人は、心が変えられて柔和、謙遜になり、固執するものがなくなり、復讐心や利己心、高慢心を捨て、イエス様の生き方を反映するようになります。

聖書がこの栄光ある新しい契約、「更にすぐれた契約」を強調しているのは余りにも当然なことではないでしょうか?

 では最後にお聞きします。皆さんは、この「更にすぐれた契約」を経験しておられますか?

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      sostvjapan@outlook.com

 


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第24回

2017年11月14日 | 日記

心に記された新しい契約の律法が、シナイ山で石の板に書き記された律法と全く同じであることを体験することは、私たちにとってとても重要なことです。律法の偉大な霊的原則は、まさしく神様の品性を反映しており、神様の政府の基礎となっているものです。この二つの律法の間に存在する違いは律法自体にあるのではなく、律法の役割にあるのです。石の板に書き記された律法は、私たちを罪に定めて死に至らせるだけです。「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。変えられていない肉の思いは決して神様に従うことが出来ず、神様を喜ばせることが出来ません。

 

しかし、同じ律法が、キリストの悔い改めさせる恵みによって変えられた心に受け入れられる時、律法は私たちを拘束して縛るものではなくて喜びになります。愛の使徒ヨハネは、「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない」(Ⅰヨハネ5:3)と言いました。聖霊に満たされた信仰者たちには、律法が重荷になることは決してありません。彼らにとって、神様のみ言葉に従うことはごく自然なことであり、嬉しくて楽しいことになります。詩篇の記者は、「わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)と、書きました。これが神様のおきてが思いに入り、心に記されたクリスチャンの告白です。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第23回

2017年11月13日 | 日記

4、古い契約と新しい契約

 

区分

古い契約

新しい契約

律法を記録した場所

二つの石の板に書かれる

肉(心)に記される

約束の根拠

イスラエル民の約束

神様の約束

契約の承認方法

動物の血

イエス・キリストの血

 

5、真の悔い改めに基づいた「新しい契約」の概念

 

新しい契約と古い契約の違いを知ることによって、私たちは新しい契約の中心部に導かれます。従順は表面的な決心や行為ではなく、神様の律法が心に記されることによって可能になるのです。では、律法が心に記されるというのはどのような事でしょうか?それは、真に新しく生まれる経験を通して、心が変わることを言います。新しく生まれ変わる経験とは、イエス様が私たちの心に入って下さることによって、私たちの考えと動機と霊が変わることです。「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」(ピリピ2:5)。

 キリストは、私たちが戒めに従うクリスチャン生活を送るにあたって、ご自身の力を必要に応じて分け与えて下さいます。キリストを通して「神の性質」にあずかる者となることで、軟弱な人間がイエス・キリストの生涯を生きるようになり、そのお方の勝利が生まれ変わったクリスチャンの生活に表れて、自分の肉体的な情欲や利己心を十字架に釘付けることが出来るようにされます。

 パウロはその変化を次のような言葉で描写しました。「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、み子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ローマ8:3、4_欽定訳)。イエス様は罪ある肉身をお取りになりましたが、肉身に従って生涯を過ごされたのではなく、み霊に従って生涯を過ごし義の完成者となられました。ここで、「義」という言葉は原語で「ディカイオマ」ですが、これは律法の「正当な要求」を意味します。つまり、肉体をお取りになったイエス様の罪のない生涯のゆえに、律法の正当な要求が、私たちの中でも成し遂げられるという約束の言葉です。

 イエス様は、私たちと同じ種類の肉体を取ったまま罪を克服されましたが、それは罪に対するご自身の勝利を私たちに分けてくださるためでした。イエス様が私たちの心の中に住まれることに同意するなら、そのお方は実際に、罪と分離されたご自分の聖なる生涯を、私たちの肉体の中に成し遂げて下さるのです。これこそがまさしく、ご自分に信頼を置いて従うすべての信仰者たちのための、新しい契約の成就です。そしてこれは、誰であっても、聖い律法の要求を満たすことのできる絶対的で唯一の方法なのです。「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである」(コロサイ1:27)。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。このような、パウロ自身の体験の証しは私たちを感動させるのに十分です。