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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第22回

2017年11月12日 | 日記

どのように新しい契約が承認されましたか?それは古い契約と同じ方法で、血を流したことによって成し遂げられました。しかし雄牛の血が流される代わりに、罪のない神様のみ子の血が流されました。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン」(へブル13:20、21)。

 シナイ山でイスラエルの民が行った、人間の貧弱な約束とはどれほど対照的なものでしょうか?「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」という人間の言葉の代わりに、神様の新しい契約の約束は「すべての良きものを備えて下さるように・・・栄光が、世々限りなく神にあるように」とあるように、すべて神様の恵みと力によるものです。それは人間の努力で契約を守ることではありません。ではこの力はどのように適用されるのでしょうか?雄牛の血によってではなく「永遠の契約の血」によって実現します。イエス様が十字架で成し遂げられた犠牲と功績のゆえに、成就するのです。

 まとめとして、古い契約と新しい契約の相違点を比較してみましょう。古い契約は、獣の血で承認され、神様の律法を守ります、と公言した民の約束を基礎にしていました(出エジプト24:5~8;へブル9:19~20)。新しい契約は、私たちの心にご自分の律法を記すという、神様の一方的な約束に基づいており、キリストの十字架の血によって承認されました。「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」(へブル8:10)。

 


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第21回

2017年11月11日 | 日記

ここでこの契約は、十戒自体を言うのではなく、「主がこれらのすべての言葉に基いて」作られた双方の契約であることがもう一度確認できます。十戒は神様が守りなさいと命令された道徳律であって、神様とイスラエルの民の間で交わされる双方の間の契約(約束)ではありませんでした。「あなたの父と母とを敬え」という戒めがどのように契約(約束)となりますか?古い契約とは、〈十戒を必ず守ると公言するイスラエルの民の誓い〉と、〈神様の祝福の約束〉がお互いに交わされた事でした。民はその戒めに服従を誓い、神様はその答えとして、彼らに祝福を与えると約束されたのでした。

 

しかしその条約の締結の過程で、決定的な過ちが一つありました。それは約束する民の側にあった態度です。彼らは神様のあらゆる要求事項を承認しました。しかしその時、神様の力と助けの必要を求めようとしませんでした。「私たちはできます」と、彼らは公言しました。彼らが取った態度は自分たちの力を過信する悪い例でした。彼らの言葉は自信であふれていました。「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。

ところで、彼らはその約束を守ることができたでしょうか?彼らは大言壮語したのですが、モーセが十戒の石の板を持って山から降りて来る前に、悲しいことに彼らは自分たちの言葉を破ってしまいました。こうして聖書を見ると、貧弱な約束が、古い契約のどこにあったのかを少しは理解されたのではないでしょうか?問題は、契約の内容である十戒自体にあったのではなく、契約を実行することを誓ったイスラエルの態度にあったことを、しっかりと覚えて下さい。

 

それでは、どうして新しい契約がもっと良いのでしょうか?その理由は、神様がその約束を創案して下さり、民はもっぱらそのお方のみ力(助け)を受けて服従出来ることが保障されたからです。「わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。彼らは、それぞれ、その同胞また、それぞれ、その兄弟に主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない」(へブル8:10~12)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第20回

2017年11月10日 | 日記

3、では古い契約は何だったのか?

 

十戒が古い契約ではない事が分かりましたが、私たちは今や、何が古い契約であったかを聖書から探してみましょう。そのために私たちは、聖書の出エジプト記へ遡って行くべきです。シナイ山で結ばれた契約には、異常な点が一つあった事を知らない人が多くいます。神様がご自分の律法を与える前に、モーセを山の上に呼び、ご自分と民の間で結ぶ契約を提案されました。“さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」”(出エジプト19:3~6)。

 

神様がモーセを通して、どのようにご自分の提案を民に伝えるようにされたのか注意してみてください。ここには、真の契約の要素がすべてあります。双方のための条件と約束が提示されています。そしてもし、イスラエルの民が神様のこの提案を受け入れるなら、契約は結ばれることになります。神様が提示されたことに対して、彼らはどのように反応したでしょうか?

「それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、民はみな共に答えて言った、『われわれは主が言われたことを、みな行います』。モーセは民の言葉を主に告げた」(出エジプト19:7,8)。

民の答えが神様に奉げられると、すぐに古い契約の基礎が置かれました。しかしその契約が公式に施行される前に、まずその条約を封印して認証する儀式が挙行されました。「そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、『わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います』。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、『見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である』」(出エジプト24:4~8)。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第19回

2017年11月09日 | 日記

2、古い契約は十戒ではなかった!

 聖書には廃された古い契約のことが書かれています。では、十戒がその廃された契約でしょうか?私たちは、廃された契約の中には、十戒が含まれていないという事実を証明してくれる3つの点を学ぶ必要があります。その次に、古い契約が何であったのかを、聖句を対照しながら注意して調べてみましょう。

 ① まず初めに、私たちは古い契約の中には、何かの貧弱な面があった事実を見る事が出来ます。ヘブル人への手紙8章の聖句にあったように、新しい契約は「さらにまさった契約」として立てられました。さてそれでは、十戒の中でどれか貧弱な約束を見つけることができるでしょうか?そのようなことは出来ません!むしろへブル人への手紙の著者であるパウロは、それらがとても良いものであることをエペソ人への手紙で語っています。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。『あなたの父と母とを敬え』。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、『そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう』」(エペソ6:1~3)。「古い契約に欠けがあった」ことを記録したへブル書の著者が、道徳律である十戒を、必要でないため廃されたと説明しないで、むしろ「幸福になる約束のついた正しい戒め」として推奨しているのです。これをみれば、十戒そのものにはどんな欠陥もない事が証明されます。

 

② 古い契約に対する誤った理解の二番目は、「古い契約には欠陥があった」という言葉についての誤解です。聖書は「もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう」(へブル8:7)と言っていますが、質問を一つします。神様がご自身の指でお書きになった十戒に、どんな欠陥や過ちがあるでしょうか。探し出した人がいますか?詩篇記者の言葉を覚えていますか?「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする」(詩篇19:7)。パウロが書き記したことは「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである」(ローマ7:12)ということです。

十戒に対するこのような聖句の中に、何か軟弱で不完全さを意味することが見えるでしょうか?ある法が完全であるなら、その法にはどんな欠陥もあり得ません。とするなら、今や欠陥のある古い契約とは、十戒そのものではないことが、明らかになってきます。

 

③ 最後に、私たちは古い契約が何であるかを明確にする、最も端的な説明を聖書から読むことが出来ます。それは古い契約が廃止されたということです!「神は、『新しい』と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく」(へブル8:13)。

私たちはこの問題を終結させる重要な質問を考えてみましょう。偉大な道徳律である十戒そのものが『消えて』いきましたか?決してそうではないという事実をパウロは証明しています。「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」(ローマ3:31)。

 

これは、聖書自体が矛盾したことを書いているのでしょうか?消えて行きながら、同時に確立されるものがありますか?同じ著者が、同じ律法に対して相反する言葉を記したのでしょうか?ここで一つ明白な事は、パウロが古い契約のことを、「律法」とは言わなかった点です。

ローマ人への手紙3章31節の聖句で、「律法」の代わりに「十戒」という言葉を入れて読んでみてください。「すると、信仰のゆえにわたしたちは〈十戒〉を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって〈十戒〉を確立するのである」。これはパウロが言った言葉で、律法である十戒が消えてしまったとは言っていません。そこで私たちは、ヘブル書にある、消えてしまった古い契約とは、十戒を指しているのではない事を明白に知る事ができるのです。


十戒は廃されたのか?デイビット・カン 第18回

2017年11月08日 | 日記

神様はある時にはモーセやアブラハム、あるいはダビデのように個人と契約を結び、時にはイスラエルの国家とも契約を結ばれました。そのあらゆる契約の中で最も重要な契約は、この世界が存在する前の古い時代からすでに立てられていました。それは、父なる神様と子なる神様との契約であり、罪の問題を究極的に解決するためのものでした。地球を創造する以前から、すでにキリストはご自分を「世のはじめから、ほふられた小羊」(黙示録13:8英訳)として差し出しておられました。そのお方は、もしアダムとエバが罪を犯したなら、人間を救うためのあがないのいけにえとなり、信じる者を救うという永遠の契約を神様との間で合意しておられたのです。

この契約の条件は、決して変えられたり、他のもので代替えされることはありませんでした。時代が移って行く中で、神様と人との間には数々の契約が立てられましたが、信仰を通して救われるというこの単純なメッセージは、すべての時代のあらゆる人々にとって、今も有効なものとして存在しています。

多くのクリスチャンたちが、契約ということについて誤解しています。次のような言葉は契約についての私たちの理解を助けてくれるでしょう。へブル人への手紙は「古い契約(最初の契約)」と、その古い契約に比べて重要な相違点を持つ「新しい契約」について語っています。聖書がどのようにこの二つの契約を描写しているのか注意して調べてみましょう。

 

「ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。ところが、神は彼らを責めて言われた、『主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約にとどまることをしないので、わたしも彼らをかえりみなかったからであると、主が言われる。わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。彼らは、それぞれ、その同胞に、また、それぞれ、その兄弟に、主を知れ、と言って教えることはなくなる。なぜなら、大なる者から小なる者に至るまで、彼らはことごとく、わたしを知るようになるからである。わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことはしない』。神は、『新しい』と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。」(へブル8:6~13)。

 

この聖句は古い契約がどのようなものであるかを、私たちによく説明しています。古い契約は、もっとすばらしい約束を伴った、新しい契約が来たので捨てられました。今や私たちは、神様の律法が心と思いに書き記される新しい契約の時代に生きているのです。しかし、この新しい契約がどのようなものであるか知る前に、消えて行った古い契約について、もう少し知っておく必要があります。