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天地わたる手帖

ほがらかに、おおらかに

戦争は話題にしてもいけないのか

2019-05-18 08:36:22 | 社会
丸山穂高衆院議員


いま、丸山穂高衆院議員(35)への議員辞職勧告決議案で政治が賑わっている。
北方領土へのビザなし交流訪問団に参加した際丸山議員が、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと元島民を問い詰めたとして、日本維新の会を除名された丸山議員に対し、立憲民主など野党6党派が17日、議員辞職勧告決議案を衆院に共同提出している。

しかしそこまでやるのは行き過ぎではないか。
国際政治において戦争は紛争解決のひとつの手段、方法であることは間違いないのである。彼が戦争をして北方領土を奪い返そうと言ったのでなく、住民に質問したのにすぎない。これは住民との会話の一環であったではなかろうか。
まあ普通の政治家は危ないと判断してしないまずしない発言ではあるが、問題を喚起する一手段としてあり得る。これをきっかけに彼が何を目論んだかは知らないが。

いずれにせよ、国際関係論のなかに戦争は依然として大きな要素として存在し続けている。
口先で戦争反対を百万遍唱えていても戦争を回避できるわけではない。むしろそういうお題目を唱えて、現状分析を怜悧に観察、分析しないほうが戦争に陥るリスクが高いことは歴史が証明してきている。
仮にも国会議員が発言してはならぬタブーをつくるべきではない。
あらゆることが発言されてよく、あらゆる発言が議論の俎上に乗ることが民主主義のおおもとではないのか。
ぼくは一人の意見を寄ってたかって封じ込める勢力にむしろ危険を感じてならない。
いいことだからと全員で推し進めようとする圧力、いいことだから反対者はいないはずである、という意識が議員辞職勧告決議案に通じているのなら、それを危険に思う。それは衆愚政治へ繋がるのではないか。
ぼくらはいいことをしているというのを見せるために使うのは危険であろう。立憲民主など野党6党派が議員辞職勧告決議でまとまったのは逆の意味の保身であろう。


ヒトラーの著書『わが闘争』

話は変るが、ヒトラーの著書『わが闘争』はドイツで長い間、発禁になっていた。
それが70年ぶり再発売、注文殺到で増刷、というニュースを「HUFFPOST 」が2016年01月20日に配信している。
ホロコーストの原動力となった問題の書であるが、発禁は民主主義を標榜するドイツらしくないと思った。
これは発禁にするほうがおかしいと思う。
ドイツ教職員組合のヨゼフ・クラウス理事長は、『わが闘争』は出版すべきで、学校で教えらえるべきでもあるという。言葉を選びながらも、「もっと危険なのは、この事について口を閉ざしたり、出版を完全に禁止することです」と彼は言う。
ぼくもこの考えに同感する。

太平洋戦争が終結したとき、進駐軍の命令で教科書の不都合な記述に墨を塗って抹消したことがある。「墨塗り教科書」である。
不都合の記述とは、戦意高揚を歌った文章である。
ぼくは一度書かれて印刷されたものは消すべきではないと考える。そのとき書いた人、読んだ人にとって何らかの意味があったはずである。
そういう歴史や事実さえ抹消してしまえというのはすごく危険ではないか。
あったことをなかったことにする、あり得ること(戦争)から目を背けることがいちばんよくないのではないかと切に思う。


墨塗り教科書

亀の甲羅のひびの行方

2019-05-14 05:36:41 | 社会

アオウミガメとその甲羅の一部(1センチ四方ほどのへこみを焼く)

きのう老人ホームで句会をしたとき、大嘗祭のことに話が行った。亀の甲羅を焼くことを想像して一人が「臭い」「気持ちが悪い」という

サンケイニューズはきのうそのことを以下のように伝えた。
「亀卜は非公開。宮内庁によると、東京都小笠原村で捕獲され、長さ約24センチ、幅約15センチ、厚さ約1ミリに加工したアオウミガメの甲羅を桜の木をくべた火にかざす占いを実施した。ひびの割れ方から都道府県を決めたとされるが、宮内庁はどのような亀裂によって判断したか、詳しい方法を明らかにしていない。」

う~ん、何も伝えていないのと一緒。
いったい誰が甲羅のひびの意味を読み取るのか。それを読む能力は天賦のものなのか。歴史上有名なのが安倍晴明、平安時代の陰陽師で小説、映画にたびたび登場する。晴明などの陰陽師を管轄していたのは、太政官の中の八省の一つである中務省(なかつかさしょう)とのこと。
現代では宮内庁の役人がひびの意味を読むのだろうか。
ひびのあり方から吉凶を占うのならともかく、米を採る場所を決めるとなるとえらく複雑、どうするのか。雲をつかむような話で、天皇は担当者の報告を受けて首肯するだけのようである。

株や先物取引の価格を読むアナリストは情報の渦の中で結論を出す。これは一見理路整然としているような印象を与える。
これに比べて亀卜は原始的でいいかげんのさいたるものという印象である。
けれど優秀な株価のアナリストにしても黙って座ればぴたりと当たるというわけにはいかない。
プロ野球の順位予想、競馬の順位予想もそうとう狂う。
諸行無常の世の中で亀卜はサイコロを振るのに似て人の心理に添うのかもしれない。
亀の甲羅全部を焼くのでないからそう臭くはないことはわかった。わからいのは、どういう道筋で栃木県と京都府になったのかということ。
栃木県、京都府といってもそれぞれ広い。どこの田んぼにするのか、それは都道府県の首長が決めていいのか、あいまいでおもしろい。
緻密な論理を組み立てて途方もなく遠い宇宙空間のリュウグウへ船を飛ばす国民が一方で亀の甲羅を焼いて伺いを立てる……この落差は楽しむべきだろう。

共産党はさざれ石を砕かないのか

2019-05-02 13:26:10 | 社会
大國魂神社のさざれ石の塊

令和元年の昨日、テレビで新天皇の即位の儀式を見ていて天皇制というシステムがいかに日本に根付いているかを目の当たりにした。
各政党が新天皇に祝辞を述べるのは当然として、日本共産党はそうしないのではないかと思いきや、共産党志位和夫委員長まで、
「新天皇の即位に祝意を表します。象徴天皇として、新天皇が日本国憲法の精神を尊重し擁護することを期待します。」というのには耳を疑った。これだけがぼくの意表をついた。
日本共産党は天皇制という仕組みにずっと反対ではなかったか。

同党の天皇制に関しての綱領をみると

『天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
党は、一人の個人あるいは一つの家族が「国民統合」の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだとの立場に立つ。しかし、これは憲法上の制度であり、その存廃は、将来、情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものである。』

とある。

オブラートで包んだあいまいな表現であるが、やはり天皇が存在することに反対している。
ならば祝意を述べるのではなく、その囚われの身分を非民主的であると主張するのが筋であろう。
自分で財布すら持たず国家の意向に従って決められた職務を全うする。今日は筍飯を食おう、冷たいホッピーを飲もうという自由もないであろう。職務の途中、脱兎のごとく逃走したいと思ったことはないのか。仮に逃げたとしてもどこに隠れる場所もない身の上であるが……。
息子は「天皇は究極の人身御供。天皇とホームレスを選べといえばホームレスを選ぶ」と言う。それにぼくも共感する。
共産党がぼくらと同じ考えかどうかは知らぬが、人間の中に税金だけで生活する特別な身分の人間があってはならぬ、というのは一つの見識である。ぼくは直ちにそれに賛同しないが。

共産党は天皇好きの圧倒的多数の国民に媚びて本来の主張をごまかした。票を減らすことを危惧してそれができないなら安倍さんやトランプさんとなんら変わりない。大衆への迎合を批判できないだろう。

しかし共産党のオブラート作戦もわからないではない。
さざれ石の巌となったものはここだけでなく各地にある。それが「古今和歌集」に詠まれ、さらに国家「君が代」に転じた歴史の重みは驚くしかない。

「古今和歌集」私撰秀歌 巻第七 賀歌(がのうた)343
わが君は千代にやちよにさざれいしのいはほとなりてこけのむすまで(よみ人しらず)



共産党員といえど日本人、この重みに圧倒されるのはわかる。それにしてももう少し気骨を持って天皇即位に対処できなかったか。
さざれ石が固まって一つになりたがるのが日本人の心性であろうか。それにはずっと警戒し続ける必要はあるだろう。



明日から始まる例大祭に向けて屋台などの準備をする大國魂神社

同性婚問題は話し合いで決着を

2019-04-15 16:34:03 | 社会


「時事通信」が本日10:55、「同性婚訴訟、国側争う姿勢=4地裁一斉提訴-東京地裁」なる記事を配信した。

同性婚が認められないのは、婚姻の自由を保障した憲法に違反するなどとして、同性カップル6組が国を相手取り、1人100万円の損害賠償を求めた訴訟の第1回口頭弁論が15日、東京地裁(田中寛明裁判長)で開かれた。
国側は請求棄却を求め争う姿勢を示した。
同訴訟では札幌、名古屋、大阪の各地裁にも別の同性カップル7組が一斉提訴。口頭弁論は東京地裁が初めてで、札幌地裁でも同日午後に開かれた。
子どもがいる女性同士で同性婚を望む都内の40代の原告が意見陳述。3年前に乳がんが見つかったことに触れ「死を身近に感じても、パートナーに相続権はなく、私の子どもに対する権利や義務もない。そのような状況では、死んでも死に切れない」と切実な思いを訴えた。

 
国は請求棄却を求め争うという。国が争う理由の最たるものは、LGBTをめぐって杉田水脈衆院議員が昨年7月、月刊誌にLGBTのカップルは「生産性がない」と言ったことに尽きるのではないか。
批判を浴びたが彼女の言った内容は間違っていない。
また平沢勝栄衆院議員が3日に山梨県内で開かれた集会で、LGBT(性的少数者)について「この人たちばかりになったら国はつぶれてしまう」と述べていたというがこれも現状では正しい。

同性婚を求める側が1人100万円の損害賠償を求めたのが賢明な作戦でないと思う。
優秀な弁護団がいるのであれば、国と条件闘争をすればいい、春闘のように。
LGBTのカップルは出産しないのだから「生産性がない」という意見はのまないといけない。LGBTカップル反対派が国に貢献しないという理由で彼らの結婚を認めないのは理解できるし、結婚した一般家庭の人たちもそう感じているだろう。
それを克服するには、LGBTカップルは養親になりますとまず言えばいい。今、普通の結婚をして子供をなした後、折檻して殺すケースがやけに目立つ。そういうカップルは国に貢献していない。
そういう逆境の子供を引き受けてLGBTカップルは立派な養親になればいい。お父さん二人でもお母さん二人でも家は成り立つ。ユニークな家庭と文化が生まれる可能性があり、それをぼくは見守りたい。
LGBTカップルは損害賠償を求めるのではなく国と妥協できる条件を提示して話し合いをすべきである。
養親にならずに結婚と同等の権利を国から保障してもらおうというのは虫がよすぎる。それでは一般家庭を敵に回してしまうだろう。

とりあえず養親になる覚悟があることを前提に、ほかのもろもろの結婚の条件を国と話し合えばいい。いたずらに裁判をしてぶつかるのは時間と労力のむだ使い。
LGBTのカップルと国、そして一般の結婚家庭との間に妥協できる線がありそうだから、条件闘争をして欲しい。
国のほうからプランを出してもいい。東大出の優秀な官僚がそろっているのだから。LGBTカップルの弁護団にしても東大出の切れ者がいる。東大出にこだわるわけでないが頭脳明晰な国家中枢の職員と弁護団がたんに100万円のことで争うのは馬鹿げている。
国にとっての結婚の意味と国民にとっての結婚の意味とを明らかにして論議すれば、かなり見えてきて妥協点が見つかると思う。
それは一般結婚家庭もあるていどのめるものになるのではないか。その線を探るべきだろう。

LGBTカップルは気持ちが悪い、という感情的、生理的嫌悪感を横におくことができれば。


被写体:片町文化センターの玄関の欅


追伸
LGBT側と国が協議したものを法制化へ持っていく。それは今の結婚制度とは異なる「LGBT結婚」というような別枠になる。同じ制度に乗せるのは無理。課税も権利も別の枠でLGBTの方々を国が認知するのがいいだろう。





入学す四角四面の言葉浴び

2019-04-09 01:30:18 | 社会


きのう孫が国分寺市立第7小学校へ入学した。当校の第54回目の入学式とか。ばばの命令で出席した。
女性の藤原校長はスーツが似合った。語り方も一年生向きでやわらかくてよかった。
1)学校はいろんなことを自分でできるようにするところ、
2)大勢の友達ができる。472名が待っている、
3)体も心も大きくなるところ、という三つを彼女は語った。これは常識的なことだが、彼女は遠見にスタイルもいいし簡潔に短い時間で終えたのでよかった。

ところが次に挨拶に立った教育委員会の中島さんという女性は四角四面。
校長とほぼ同じ内容のことをわざわざ書面を見て話す、いや読むではないか。スピーチは読むものか。その中に「自分らしく」などという文言が混じっていてなお唖然とした。こんな画一的な世界へ引き入れて自分らしくも個性もあったものじゃない。息子に娘を転向させろ、といいたくなるほど四角四面である。

3年前よりましになったのはライヒンの挨拶の数が減ったこと。しかし挨拶はしないものの16名のライヒンが次々立って「おめでとう」をいい、それに対して一年生に「ありがとうございます」を唱和させるなど、いったい誰のための入学式なのか。
一年生が楽しまなきゃ彼らのハレの日にならないのでは。彼らが楽しむ日にしようという発想をする大人が一人もいないこの国の教育はこれでいいのか。
教育は「cultivate」、土塊をほぐすこと、ばらばらにして土に空気を入れることじゃないのか。新鮮な空気に触れた土ゆえ種は芽を出すのである。大人はむしろ土を固めている。

なぜ日本人は人前でおもしろい話をしようとしないのか。相手はおもしろいことを待っている一年生である。
楽しい挨拶で思い出す映画は『釣りバカ日誌19』(2008)である。
スーさんを三國連太郎、ハマちゃんを西田敏行がやった。「ハマちゃんのスピーチは面白い。他の人はどうせつまらないスピーチしかしないからハマちゃんで真打ち登場って感じだね」と同僚たちに持ちあげられてその気になったハマちゃん。
しかしハマちゃんの前に挨拶に立った全部本間課長役、佐藤浩市がハマちゃんが話そうといていたネタを全部披露して笑いを取ってしまう。
茫然自失となったハマちゃん。いつもの雄弁ぶりはどこへやら、青い顔でしどろもどろでずっと声も出なかった……。

この映画を見て今日来たライヒンも学校の先生もみな笑うだろう。楽しいことが素晴らしいことだと共感するだろう。しかし、自分が挨拶する番になるとなぜ裃を見てカチカチに硬くなってしまうのか。ぼくは理解に苦しむ。
今日の入学式に見るような四角四面な姿勢はここだけでなくあらゆるところに見られる。その結果、日本人はマイクの前で自分自身を十全に発揮できなくなっている。右を見て左を見て、出しゃばらないのが理想的な生き方と自分を縛ってしまう傾向にある。

それは「ひこばえ句会」でも見られる。こういった学校教育の影響がありはしないか。
4月7日の当ブログで「ひこばえ句会」の宣伝をした。
「一人一人が発言して創る ひこばえ句会」と謳ったのだがそれはぼくの願いであり理想の姿である。現状で十分なされているとは思っていないから敢えて掲げている。
みなさん、まだまだ、四角四面の学校教育の弊害を引きずっている。
一年生のときからカチカチに硬くしてしまう学校のもろもろの弊害を考えていかねばならぬと痛感したのである。真に自分を解放するために。