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共有する〈意味〉世界

 日本語は、世界の主要な言語の中でも使用する「音」が少なく、同じ「音」に様々な〈意味〉が重ねられている言葉(同音異語)の多い言語として知られています。ではなぜそうした言語が生まれてきたのでしょうか。
 もともと〈意味〉は環境世界の中にあります。環境世界を構成する生き物たちが、周囲との相互作用によって生じた一連の出来事の総体が、彼らの心の中にイメージとしてかたちづくられます。それは一連の出来事の〈意味〉を示しているイメージといっていいのですが、その心の中で生まれたイメージの説明は、その環境の中でしかできません。したがって〈意味〉は環境世界の中にある、といえるのです。その環境を共有することによって、その環境の〈意味〉を〈理解〉し、それに〈かたち〉を与えた「言葉」によって人々は、相互のコミュニケーションを図ってきました。同一の環境の、同一の時空間内にいれば、つまり同じタイムウィンドウを共有する時空間にいれば、そこで発せられる“言葉”(=口から発せられる「音」)に対応する〈意味〉は、おのずから同一の〈理解〉を人々に与えることができたのです。違う環境-異なるタイムウィンドウを構成する時空間に場所を移した際も、たとえ発せられた“言葉”(=“音”)は前と同じ「音」であっても、あらたな環境に適した〈意味〉で人々は〈理解〉することができたのです。
 人々が同一の環境の中で暮らす限りにおいて、そうした口を使って発する“言葉”=“音”の数を必要以上にふやす必要性は生じませんでした。そして日本列島の太古の森に住んでいた私たち日本人の祖先は、彼らの集団が、同一の環境を共有できなくなるほど大きくなることはなかったのです。
 彼らの集団が大きくなっていき、同一の環境の中に納まりきれなくなると、彼らの集団は枝分かれし、それぞれがあらたな環境へと分散していきました。そのような分散化を容易に可能にするほど、まわりの環境は豊かだったのです。このように彼らの集団は、皆が常に同一の環境を共有できる大きさを保ち続けていました。そしてこのような状況が日本列島全体に広がっていったのです。
 私たち日本人の先祖たちは、彼らが話す“言葉”が、同じ「音」でも違う〈意味〉を持つということを、ひとつひとつはっきり区別し、認識していました。ある〈意味〉が存在する環境世界に彼らが遭遇した時、その時発せられる言葉の「音」の〈意味〉の違いを彼らははっきりと〈理解〉していたのです。たとえその「音」が、別の〈意味〉が存在する環境世界で発せられた「音」と同じであったとしても。


ひとつのタイムウィンドウを構成する時空間の中にいるとき、人々は最小の“言葉”によって〈意味〉と〈理解〉を共有することができます。

 

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