コロナ感染が全国に拡大し、オーバーシュート状態となってから、ようやく政府が何やら対策らしきものに着手するという。余りにも遅すぎるし、コロナを全国規模に蔓延させてから対策をするって何なんだろうか。菅首相のワクチン一本足打法もデルタ株には効き目が薄いようだし、第一、未だにワクチンの予約すら出来ない人が大勢いる。パラリンピックは確かに教育的効果があるかもしれないが、そうかといって、このオーバーシュート状態の中で児童・生徒を観戦させるというのは、いささか、事態を甘く考えすぎていないだろうか。インドは、政府の公表死者数だけでも40万人、実数はその10倍もあるそうだが、そのようになってから感染者が減少に転じても遅いのではなかろうか。もちろん、コロナ被害だけで日本が無くなる訳でもないが、政府が、国民に対する姿勢に疑念を抱かれて、それでも民主主義国家と言えるのだろうか。首相が全力で応援した横浜市長選では小此木氏が敗れたが、今後もコロナ対策で失政を重ねるなら、全国の良識ある国民も、自民・公明与党に対して黙ってはいないだろう。菅首相の元には、都合の悪い情報は報告されていないようだが、そんな政府ってあるのか。旧日本軍以来の伝統を政府・自民党は受け継いでいるのだろうか。
私は子供の時から社交性に欠けていて、孤独癖があり、学校には登校していたものの、クラブ活動にも参加せず、友達も全くいなかった。そんな私の子供時代を、60代も後半の今になってから振り返ってみたとき、こんな私に、何の可能性があったのだろうかと疑問がわいてくる。というのも、今、パラリンピックの選手達が、彼らなりにアスリートとしての身体能力を見せている。
私は、年齢がいってから、個人の心身の発達には、幼少期から青年期にかけての過ごし方が作用していることに改めて気づかされることが多かった。今更である。学校という場で交友関係が築けず、むしろ、異質者として軽いいじめの対象にもなっていたが、親にもそのことを言えず、むしろ変なプライドもあり、出来るだけ隠して過ごしていた。ある日の体育の授業では、誰も組んでくれる人がいなくて、教師から、「遅れて来たんだろう」と罵声を浴びせられ、言い訳しても聞いてくれなかった。そんな私でも、死ぬことは怖くて、あまり長生きは出来ないだろうなと思いつつも、就職もし、結婚もし、子供には恵まれなかったが、今までどうにか生きて来た。
パラアスリートは、確かに、身体の一部の機能に問題があるかもしれないが、周囲の環境や本人の強い意志によってアスリート生活を成立させているのだろう。私は、この歳になって、やっと、こだわりなく若い時代の自分には欠けたものが多かったと、自分で認める気になったが、今更どうにもなりはしない。
鎌倉時代の禅僧 蘭渓道隆は、「今、現に生きていることこそ全てだ。それ以外に何を求めるのだ。」 と言ったというが、さて、さて、生きてるだけで丸儲け以外に何があるのだろうか。今、生きているということを楽しめということなんだろうか。特に、コロナ禍になってから、そのことを考えることが多い。