私は子供の時から社交性に欠けていて、孤独癖があり、学校には登校していたものの、クラブ活動にも参加せず、友達も全くいなかった。そんな私の子供時代を、60代も後半の今になってから振り返ってみたとき、こんな私に、何の可能性があったのだろうかと疑問がわいてくる。というのも、今、パラリンピックの選手達が、彼らなりにアスリートとしての身体能力を見せている。
私は、年齢がいってから、個人の心身の発達には、幼少期から青年期にかけての過ごし方が作用していることに改めて気づかされることが多かった。今更である。学校という場で交友関係が築けず、むしろ、異質者として軽いいじめの対象にもなっていたが、親にもそのことを言えず、むしろ変なプライドもあり、出来るだけ隠して過ごしていた。ある日の体育の授業では、誰も組んでくれる人がいなくて、教師から、「遅れて来たんだろう」と罵声を浴びせられ、言い訳しても聞いてくれなかった。そんな私でも、死ぬことは怖くて、あまり長生きは出来ないだろうなと思いつつも、就職もし、結婚もし、子供には恵まれなかったが、今までどうにか生きて来た。
パラアスリートは、確かに、身体の一部の機能に問題があるかもしれないが、周囲の環境や本人の強い意志によってアスリート生活を成立させているのだろう。私は、この歳になって、やっと、こだわりなく若い時代の自分には欠けたものが多かったと、自分で認める気になったが、今更どうにもなりはしない。
鎌倉時代の禅僧 蘭渓道隆は、「今、現に生きていることこそ全てだ。それ以外に何を求めるのだ。」 と言ったというが、さて、さて、生きてるだけで丸儲け以外に何があるのだろうか。今、生きているということを楽しめということなんだろうか。特に、コロナ禍になってから、そのことを考えることが多い。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます