高村薫氏が「五輪記」と題した評論を地方紙に載せている。曰く、「今回の東京オリンピックが臨場感、一体感が無かったこと。コロナ禍が無かったとしても、オリンピックが数あるスポーツイベントの一つでしかなくなっていること。日本人が今回のオリンピックに持っていたのは、経済効果への期待とお祭り気分であって、その程度だから感染の蔓延などの事由で社会の受け止め方はいくらでも変わり得ること。現に、膨大な開催費用やIOC委員の金満体質、スポンサー企業に牛耳られた商業主義、という不都合な真実があらわになったオリンピックは、もはや神聖不可侵などではない。一方で、この巨大なスポーツイベントに対する市民の意識も、一過性の熱狂が中心となっており、そこにアスリート達の多様な価値観が交錯している。また、東京2020は、多くの不実に満ちた大会となった。招致の為に多額の賄賂が交わされたという不実、コンパクトな大会を謳いながら、その公約を真摯に完遂する意志を持たなかった不実、コロナ禍にあえぐ国民の切実な不安を顧みなかった政治の不実。かくして、我々日本人は、時代に即してオリンピックの在り方を見直す千載一遇の機会をドブに捨てたのである。」
全く、氏のこの記載は、至言といっても間違いではないと思う。さしずめ、このようなことを記すと、安倍元首相辺りは、反日思想家とラベル貼りをするかもしれない。しかし、彼にしても保守を自認するなら、菅首相が陛下のお気持ちを察することなく開会式に臨み、陛下がお言葉を述べられているときにも開催国の首相でありながら起立を怠った件に対して一言もないのは、何の故なんだろうか。真の保守人であれば、コロナ禍に苦しむ国民の気持ちに寄り添い、陛下の国民への思いやりの御心に尊崇の思いを致すのが当然ではなかろうか。ところが、菅首相を始め自民・公明与党は、自らの政治的利益のみを考え、コロナ感染爆発の懸念を軽んじ、オリンピック開催を強行した。これは、国の威信を守ったのではなく、国民の安全・安心を切って捨てたに等しいと思う。突然出されて訂正した、中等症以下の感染者の自宅待機方針も、自らの不作為を隠し、現状を追認するだけの施策に過ぎない。中国ですら、武漢ウイルスの発生に際しては、プレハブの大規模病舎を短期間で建設し、全国から医療関係者を大量動員し、結果として第一波の感染拡大を短期で封じ込めたのではなかったのか。中国に出来て日本に出来ないというのは、利権関係者に配慮ばかりして、何の行動も取れないと能力もないと、受け取られても仕方がない。ワクチンにしても、ワクチンの接種率が、ようやく国民の30%以上になったというが、私の住んでいる市では、60歳以下の接種すら開始されていない。ワクチンの接種がこの程度なのに、感染症の類型を変更するとか、規制を緩和するとかの議論はまだ早い。それよりも、アストラゼネカでも良いので、今まで以上の速度でワクチン接種を進めるべきだ。
付け加えるなら、商業主義に捉われたマスコミも情けない。オリンピック開会の前までは、コロナ感染の危険性を必要以上に煽ったものの、いざ、開会すると、朝から晩までオリンピック一色の報道を繰り返すだけで、その反省がない。デルタ株の危険性と、オリンピック期間中の感染爆発の可能性を報じながら、いざ開会するや、お祭り騒ぎに便乗してマスコミとしての批判精神を喪失したかのようであった。こんなテレビや新聞には呆れ果てる以外にはない。マスコミこそは、政治家以上に反国民的な商業主義集団であることが改めて明確になったように思う。