いや、昨日の植木屋仕事のゴミを捨てて来たら200キロで3000円だったと言う、唯それだけの事なんですけれども、まっ、思ったより安くて嬉しかった、なんちゃって。
9月初めから植木屋仕事の依頼を受けていないので今シーズンの請負仕事はほぼ終わりであります。
あとは頼まれ仕事と半日未満の小さな現場が少し残っているくらいであります。
故に、11月は遊ぶぞぉ・・・と、決めているんですが、突発的な仕事が入らないように切に願っているところであります。
いや、一昨日バイクで軽く山形市内に出かけたわけですが、博物館や美術館で思わぬ発見や名作に出会い驚き、近場も侮れないと見直した次第であります。
山形城 本丸一文字門
山形藩の初代藩主となった義光は、商業を大いに振興し、商人の往来する羽州街道は南の上町から入り、五日町、八日町、十日町、横町、七日町、旅篭町、六日町、四日町通り、北方の宮町へ。また、職人町として材木町、銀町、蝋燭町、塗師町、檜物町、桶町、鍛冶町を置き、商業都市としての発展に寄与しました。山形市のHPから無断引用
山形城址公園では大手門などが見られるわけですが、復元とはいえ中々の物でありまして、荘厳であると自分は思った次第であります。
いや、はっきり言って仙台城址は山形城址に完敗だと思います。
そーか、やっぱし理由はお堀だな、なんちゃって。
しかし、言いたいことはそんな事では無いのであります。
上記に引用した町名は他の城下町でもよく見られるものなんですが、仙台辺りだと区画整理によって藩政時代の道が拡張されるにつれ、旧町名が統合されたり変更されたりして消えていくわけであります。
で、自分の記憶は昭和の景気の良かった時代のものでして、山形市七日町なんてのは大した繁華街であったと記憶していますが、小綺麗になったものの城下町の面影は無いなぁ・・・なんてことを思った次第でありますが、まっ、いいでしょう。
私の生家 ではありません
いや、博物館で見た山形の農家の囲炉裏端であります。
あれです、自分家も明治の建物でしたが、正しくこれとそっくりでして、囲炉裏の自在鉤の上の方の藁束には竹串に刺した川魚が燻されており、時に妙に生臭かった記憶があります。
と、言うことで、一昨日の山形市へのチョイ旅に味をしめた自分は、余生を史跡や博物館巡りで暇を潰そうと閃いた次第であります。
なんと申しましょうか、もう少し若い頃にはまるで興味の湧かなかった史跡でしたが、訪れてみると何処のそれも素晴らしく、私の脳みそに語りかけてくるのであります。
が、今の所興味が持てるのはギリギリ弥生時代まででして、権力争いがお盛んになる平安の頃からはダメな感じであります。
これ、理由ははっきりしていまして、弥生時代の頃までだと固有名詞の人物云々はほぼ無いわけであります。
で、聖徳太子や蘇我氏って言われましても親戚でも友達でも無いし、権力者は大衆の敵だと思う自分としては歴史的偉業や業績にも反発してしまうわけであります。
なんと申しましょうか、縄文時代は人類の歴史でして個人がどーしたこーしたと言う小さな次元では無く、そこが魅力的なのであります。
ところで、縄文中期の土偶や土器を見ていて思うんですが、弥生時代の方が稚拙と言いますか、デザインも焼き方も数段優っているように見えるのは私だけでありましょうか?
もっと言うと古墳時代の埴輪なんてのはほとんど粘土遊びの域に思え、縄文人の緻密さを受け継いでいるとは思えないわけであります。
と、なると・・・やっぱし渡来人が大量に湧いて出て、純縄文人は滅ぼされたのか、なんてことを思うんですが、まっ、いいでしょう。
おおっと、お風呂が沸きましたので、んじゃ。
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