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じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

ナムチェ~ディボチェ

2014-12-04 14:00:18 | ネパール旅日記 2014
2014年11月8日 土曜日 ナムチェからディボチェへ 

行程表の予定ではタンボチェに泊まる事になっているのだがラムさんの提案でディボチェへ行く事になった。
その理由は、タンボチェはトレッカーが多く宿が取り難いから、との事だった。

トレッキング中の宿はガイドが決める。
そして、ガイドはそれぞれ決まった宿が有ってその村ではそこ以外には泊まらない。
余程混んでいて部屋が無い時でもガイドと一緒なら断わられる事は無い。
もっともその場合は食堂で寝たりキッチンで寝たりと条件は悪くなるが。
なのでタンボチェで泊まらない本当の理由はラムさんの馴染みの宿はタンボチェでは無くそこから少し下ったディボチェに在るからなのだと思う。


朝 一斉に宿を出たトレッカーで賑わう街道

ナムチェの標高が3440mで目的地のディボチェは3820m。
引き算では380mしか登らない事になるのだが、どっこい、エベレスト街道はそんなに優しく無い。
プンケティンガと言う谷川沿いの集落の標高は3250mでナムチェより190m低い。
要するに登り返しが有るのだ。
そしてプンケティンガ程顕著な登り返しでは無い、地図の等高線にも現れ難い微妙なアップダウンが幾つも有り、累積標高差では800mを優に超えている。

寝る前に翌日のルートを地図上で読むのが日課なのだが、下手に地図読みが上手だと翌日のアップダウンや急登などが予測出来てしまい歩く前から気持ちが重くなるので良く無いかも知れない。


ヤクが来ると人は立ち止まってやり過ごす

標高4000mを境にして上の寒い方には長毛のヤクが居て下の暖かい方には短毛のゾッキョが飼われている。
ヤクは毛足が長く粗食と寒さには滅法強いが暑さに弱く下の方に降りて来ると息が上がってへばっているのを見掛ける。
逆にゾッキョは寒さに弱く食料も飼い葉を必要とするので集落の多い標高の低いところで飼われている。
ちなみにヤクは野生から家畜化されたものだそうで、今でもムスタンの方には野生のヤクが居るのだとか。
一方のゾッキョはメスのヤクとオスの牛(水牛?)の掛け合わせだそうで暑さに弱いヤクの欠点を補うべく生み出されたとか。
荷役しているのは総て雄だそうで、メスは乳を採るのだそうです。
ゾッキョのオスは哀しいかな、生殖能力は無く一代限りの運命です。


タンボチェは広い丘の上だった

ラムさんが一昨日、トレッカーの半分はタンボチェのゴンパ(僧院)までだと言ったが、それは道々歩いていて頷けた。
ここまでは道が広くて歩き易く、ガイドに手を引かれる程の高齢者も登って来ていた。
そして万が一の場合のレスキューも容易だし、場合に因っては馬で来て帰る事も可能なのだ。
もっとも馬のタクシーはこれから上、5100mのゴラクシェプまで、エベレスト街道の何処の集落でも調達可能なのだが。


この界隈では一番大きなタンボチェのお寺
一度消失して再建されたものでそれ程古くは無い
そして、大僧正(リンボチェ)は滅多に居ない、らしい



食欲減退時の切り札とシャワー代わりのシート

1時30分 ディボェチェ 着

宿には早く着いた方なのだが既に満員だった。
ディンボチェの宿が満員との事でここまで足を伸ばした人が多いと言う・・・ラムさん、良い読みである。

国籍不明の白人の若者グループが手の切れるような冷水をタンクから手桶ですくって浴びていた。
パンツ一丁の姿で互いに水を掛け合い、一桶毎に嬌声を上げ楽しそうであった。

同じ井戸端で靴下の洗濯をする私の出で立ちは、毛糸の帽子を被り分厚いダウンジャケットに身を包み、股引も履いていた。

あの若さが羨ましい・・・寒さに強い北欧の人たちか? 

少し下痢気味であった。
本日の行程中に二度程、急を要してトイレを探した。
私は山道でのキジ撃ちは得意な方なのだが如何せんエベレスト街道は人の往来が多過ぎて場所とタイミングが掴めなかった。
仕方なくラムさんに「トイレ」と言うと「大ですか小ですか」と問われ、大だと言うと適当な処で上を指差し登って行けと言う。
それで登ってみると確かに何処からも見えず、そして、前任者が居た事を伺わせる痕跡がある。
いや、参った。
ラムさん、緊急避難的トイレの場所まで把握してガイドをしているのか? プロであるなと感心し、全幅の信頼を寄せても良いかと思い始めた。

下痢の理由に心当たりが有った。
水分の取り過ぎだろうと思う。
本日は、朝に紅茶二杯500ml 歩きながら自前の薄いポカリ500ml 昼食時にレモンティー三杯750ml 休息時に水500ml を飲んだのだった。

私は普段山に登ってもあまり水を飲まない方なのだが、高山病対策には一日3ℓの水を飲めと書いてある指南書も有って意識して飲んだのだ。
さらに、昨年のピサンピークでは殆ど水を飲まずに登って見事に高山病を貰った経緯も有って今回は意識して飲んだのだった。

元々自分のお腹は水物に弱いのでこんなに浴びるように飲んだからおかしくなるのも当たり前かと思い、明日からは飲みたく無いのに無理して飲むのは止めて、飲みたいのだけれども我慢するのは止めようと決めた。

水の飲み過ぎは胃を弱くする。
食欲が落ちて、昼にツナサンドしか食べていないのに腹が減っていなかった。

晩飯時、フリーズドライの親子丼と味噌汁とふりかけで勢いを付け無理して食べた。

晩飯の時に日本人のご夫婦と同席になり、ベテランのトレッカーらしくあれこれと御意見を伺った。
少し頭痛を感じていたのだが、高山病の初期症状だろうと言われダイヤモックスを服用する事を勧められた。
その事をラムさんに話して、ダイヤモックス、持ってるでしょ?と問うと、サラリと持っていないと言う。
嘘ぉ、ダイヤモックスはツアー費用に含んでそっちが用意する事になっているのに、と言うと、聞いていないと、悪びれる様子も無く笑顔で答えるラムさんだった。

いやいや、ここは既に富士山より高い処で、明日には4000mを超えて行くと言うのに、高山病の決め手のダイヤモックスを持っていない・・・有ると思って安心していたものが無いとなると一気に心細くなるのが人情だった。

この時、微かな希望を先程の日本人ご夫婦に向け、再度食堂に行ってダイヤモックスが無い事を話してみた。
しかし、反応は予想したものとは違って、日本でダイヤモックスを手に入れる方法などの説明に走り、余分に有るから少し別けてあげましょうかなどと言う事にはならなかった。

この話しには伏線も有って、カトマンズに着いてすぐ、ツアー会社の人にダイヤモックスを買いたいので、と、伝えたのに、ガイドに持たせるから大丈夫、買わなくて良いと言われたのだった。

昨年、ピサンピークで高山病にかかった時に、やはりガイドのドルジが持っているべきの薬を持っていなかった経験から、自前で買おうと言ったのだったが・・・これがネパーネなのだ。
どれほど綿密な打ち合わせをしても、当時者間では通じていても、一度伝言で第三者に伝わった時には何の意味も成さない。
これがネパールであり、ネパール人の気質なのだと、今更ながらに思い知った。

それでもラムさんは高山病だとは思っていない様子で、風が冷たいと頭の中に風が入って痛くなりますから毛糸の帽子を被ったまま寝て下さい、などとアドバイスをくれた。

18時30分 就寝

11月8日 血中酸素濃度データー

ナムチェ  (2600m)90% 心拍数69 (AM6:00 安静時)
ディボチェ (3820m)83% 心拍数100 (PM2:00 到着後)
ディボチェ (3820m)79% 心拍数80 (PM5:30 安静時)


つづく


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ナムチェ バザール

2014-12-03 15:27:18 | ネパール旅日記 2014
ナムチェには市が立つ。
元々は土曜日が市の日だったのだが、近頃は金曜と土曜、続けて市は立つらしい。

河口慧海の本などを読むと山の集落の市はチベットとの交易の場として栄えたようであったが、今の市はカトマンズから運んだ日用品や近郷近在の農産物の販売所になっている。

観光客の大半はカトマンズから飛行機で30~40分飛んでルクラまで来て、翌日半日程歩いてナムチェに着く。
だからあまり遠い場所との感覚は持た無いが、バスと徒歩でカトマンズからやって来ると、バスを降りてからナムチェまで、現地の人の足でも4~5日掛かる。
観光客用の店が建ち並ぶナムチェだが、街の人や近郷近在の人の為の店は少なく物も乏しい。
だから市は必要なのだと思う。

 
野菜が主食の山の民 野菜は豊富だった


何でも売る 売れそうでも そうでなくても


流石に肉屋は露天では無い(水牛の肉らしい)


生姜だけを売る人


卵と唐辛子を売る人


ドルジに似ているのでシェルパ族かと思ったら違った


皺の深さが土地の暮らしを物語る?


ほぼ市の全景 賑やかと言ってもこれだけの物です


ドライチーズ (乾燥してカチカチのチーズ)


バター 無塩で塩気は無い


チベットの人達か? 歌を歌いながら練り歩く

市でみかんを買った。
思ったよりも高くて驚いた、が、観光客価格だろうか?

ナムチェの街を歩きながら人にカメラを向けると嫌な顔をされる事が多かった。
6~7歳と思われる女の子にカメラを向けた時には強烈にNOと言われた。
そして、バザーで見掛けた人の中にも写真を嫌がる人が少なからず居た。

観光客価格のみかんと写真を嫌がる街の人達には共通点が有ると思った。

私は初めて訪れたナムチェで、見る物総てが珍しく写真にも撮りたいのだが、撮られる方は毎日毎日新たにやって来る観光客にカメラを向けられるのだ・・・たぶん私が住人なら辟易して怒り出すだろうと思った。

昨年歩いたゴレパニまでの山道で子供達がミカンを売っていた。
それは3個で20ルピー程だったが、ここでは1個40RPだった。
いや、解らない。
それがナムチェの相場だったのかも知れないが、エベレスト街道では何もかもが昨年のアンナプルナサーキットよりもかなり高く感じられていた。

それでも売れるのだろうし、観光客は引きも切らずにやって来る。
そして、買ってくれとは一言も言わずにただ道端に並べているだけの物を観光客が勝手に買って行く。
みかんばかりでは無い。
水でもトイレットペーパーでもコーラでも、だ。

ヒマラヤは魅力的だ。
数有るトレッキングルートの中でもエベレスト街道は輝いている。

クライミングを抜きにして、カラパタールに登るトレッキングでも2週間程度は歩かなくてはなら無い。
その間は街の暮らしの便利や快適とは隔絶された日々を味わうのに、不便や辛さや苦痛を承知の上で世界中から大勢の人がやって来るのは不思議だとつくづく思う。

不思議な人の中に自分も入るのだが、相当嫌な思いをするにも拘らず、しかも、昨年の経験でそれに懲りる事も無くまたヒマラヤを歩きに来てしまっている事の理由は自分でも解らない。

私の感覚と常識からは相当に理不尽な事の多い毎日なのだが、後になるとそれらが皆懐かしい思い出に脚色されてしまうヒマラヤの旅。

一個50円のみかんの話しも、忘れる事無くしっかりと思い出された。

そうだ、彼からは旅の良い思い出をオマケに貰っていたのだなと、なんでもかんでも許せてしまうと、またヒマラヤに行きたくなるのかも知れない、と思う。




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ナムチェ 散策

2014-12-03 13:11:39 | ネパール旅日記 2014
 11月7日 金曜日 ナムチェからエベレストビューホテルへ

本日はナムチェに連泊です。
目的は、第一段階の高度順応です。
標高3400mのナムチェから3860mのエベレストビューホテルまで登って降りて来る、軽いハイキングです。


ホテルにはヘリタクシーでも来られます

エベレストビューホテルは今から40年程も前に日本人が立てた本格的なホテルで今でもエベレスト街道方面では抜群の知名度と格式を保っている・・・らしい。
「らしい」と控えめな表現なってしまうのは、行って外観を見、ロビーを通り、エベレストを眺める絶景のテラスで、一杯300RPのブラックティーを飲んでは来ましたが、ただそれだけなので他の事は解らないのが正直なところなのです。
しかし、ナムチェの宿で40RPのブラックティーが300RPと言うのは、エベレストビューの拝観料を含んでも中々のものだと思うのですが。


ホテルの高価なお茶代に渋い顔の謎の東洋人

ナムチェからエベレストビューホテルまでは比較的なだらかな丘陵地を登りました。
汗を書く事も無く、息切れする事も無く、未だ緑の残る牧歌的とも言える景色に和みながらのハイキングでした。


峠から コン デ と ナムチェの街を見下ろす
これで殆ど街の全景で、私としては村だと思いますが「街」です
ナムチェはルクラに次いでエベレスト街道で二番目に大きな街です




たぶん前衛がヌプツェからローツェで後にエベレスト


手前のタボチェからエベレストとローツェとヤク

私としてはまだまだ遠くて小さなエベレストよりも眼前に迫るアマダブラムの迫力に目を奪われていた。
アマダブラムは標高6856mとそれ程の高峰では無いが、頂上を空に突き出したような鋭角的な姿と、登っては標高の割りに雪氷が発達した登攀的要素から人気の山だった。
組織を持たないアマチュアクライマーが自前の力でアタック出来る最高峰の山だと私は思っていますが、自分には手が出ない技量の山なので推測です。


アマダブラム 10年前、いや5年前なら登れたさ、と、思ってみる


俺が見るヒマラヤの花って こればかりだな、と


絵のような景色の中に絵描きさんが居た

私としてはエベレストビューホテルよりもこちらの景色の方が好みだなと言うところにホテルが在って、そこに滞在して絵を描いている人が居た。
大きめのビデオカメラや中盤のスチルカメラが据えられていたので本職の画家で名の有る人なのかも知れないと思いつつキャンバスを覗いたが、目の前に広がる景色とは随分印象の違う絵で良く判らなかった。

そうだなぁ~・・・こう言う場所に三脚を立ててじっくりと撮るのが写真だろうなぁ、と、思う反面、それをやってしまって何も撮れなかったら後が無くなるから、持ち歩いているのがオモチャのカメラなのでろくな写真が撮れないと言う免罪符は外せないな、とも思ったり。
しかし、いずれ足腰が弱ったら、こう言う場所で定点の写真を撮る日が来るのだろうな、この場所は覚えておこう、などと、暢気にナムチェへの道を下った。

ナムチェの宿には11時に戻った。
天気が良く陽が当たって暖かかった。
ラムさんがナムチェから先は寒くなるからシャワーは諦めろと言っていたのを思い出し、この天気なら洗濯も出来ると踏んで350RPを支払ってシャワーを浴び下着の洗濯をした。

昼食を食べていると、今日はバザーの日だからと教えられ出掛ける事に・・・。

11月7日 血中酸素濃度データー
ナムチェ (3400m) 90% 心拍数90 (散策から戻ってすぐ AM11:30)




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パクディン~ナムチェバザール

2014-12-02 14:14:51 | ネパール旅日記 2014

11月6日 水曜日 トレッキング2日目 パクディン~ナムチェバザールへ

昨夜の強い雨を他所に、起きてみれば本日も快晴であった。
五時前には目が覚めていたのだがベニヤ一枚で仕切られた隣に遠慮をして寝袋の中でごろごろしていた。
お隣は、ボンジュールのお嬢様が二人、未だ起きる気配は無く静かだった。

パクディンの村の標高は2610mで、目指すナムチェバザールが3440mと、地図上の単純な引き算では標高差は830mと左程でもない。
しかし、エベレスト街道は曲者なのだ。
標高差にして100m前後の地図には現れ難い高低差でアップ・ダウンを繰り返すのだ。
ちなみに、手持ちの地図の等高線は80m間隔との事で中々ワイルドに大雑把であった。

余談だが、フランス人が香水好きと言うのは真実だと思った。
この様な山奥のロッジに居ても、老若男女何れの方も某かの匂いを漂わせているのだ。
この団体に囲まれてから、山に入ったら殆ど顔も洗わずヒゲは伸ばし放題の私の片身は一気に狭くなってしまった。

  8時00 パクディン出発


振り返って パクディンの村を見る

パクディンは川沿いの谷間のせいか標高の割には寒かった。
しかし、未だ水は凍っていず、寒いと感じたのは身体が慣れていないからかも知れない。


大きなチェックポイント 行き帰りチェックがある

昨年歩いたアンナプルナでも人は多いと思ったがエベレスト街道の人の多さはそんな物では無かった。
ラムさん曰く、10月のトロン・ラの遭難事故の影響で峠が閉鎖されているので特に集中しているのだろうとの事だった。
ラムさんどころか宿の人達でさえ今年の11月の混み様は初めての事だと語っていた。


ジョルサリで食べた「ダルバート」総て野菜と豆の食事

ラムさんは、ナムチェバザールまでのトレッキングと、仮にその先まで行ってもパンボチェのお寺までのトレッカーが多いのでそこから人は減るだろうと言った。
しかし、そう言いつつ、その先は人も減るが宿の数も減るので混んでいる感覚は変わらないかも知れないとも言った。
その推測は的確で、この先の宿の部屋取り合戦は結構熾烈なものとなるのだった。


二重の吊り橋は 上り下りで別けているのでは無い

ヒマラヤで谷を渡る橋は総て吊り橋で例外は見た事が無い。
小さな沢やかなり上流の川になると固定の橋も見られるが谷を渡る橋は相当な高度に吊られた吊り橋である。
吊り橋は新しい橋程高いところに吊られている気がした。
旧い吊り橋は川のそばまで降りてまた登り返しているものが多いが、新しい吊り橋は谷の向うとこちら側をほぼ同じ高さで繋いでいて効率が良い。

吊り橋を牛も馬も人も渡るのだが優先順位第1位は牛では無いかと思う。
標高4000mを境にそれより下なら暑さに強いゾッキョで、上ならば寒さに強いヤクが荷役をしていて、それらが委細構わずに渡って来るのだ。
最悪の場合は橋の上ですれ違う事になるのだが目つきの良く無い牛に出会すと肝が冷える。


ラムさんの秘密のビューポイントからエベレストを望む

少しドキッとした吊り橋を越して暫く行くとラムさんが道を外れて登って行った。
後に着いて行き彼が指差す方向を見ると、何処かに見覚えのある山があった。
おお、あれは、あれこそはエベレストではないかと少し感激した。
しかし、感激したのも束の間、自分の中で何かが違う、あれじゃ無いと言う声が上がった。
流石に世界最高峰のエベレストで、前衛の山々が立ちはだかるにも拘らず、ずいっと頭を出しているのは見事なのだが、如何せんまだまだ遠くにあるその姿は小さく、迫力に欠けるのだ。
ラムさんの好意ではあったが、私は見たく無いエベレストを見てしまった気がしてしまった。
私の憧れるエベレストはあんなに小さくは無いのだ。
私の知っているエベレストは圧倒的迫力で聳え立ち、そして登れるのでは無いかと微かに思う私の心を一蹴するはずなのだ。

エベレストもあの姿は見られたく無いだろうと思う私は、あれは見なかった事にして忘れた。

13時45分 ナムチェ着


ナムチェの街 大きな建物は殆ど全部ロッジ


ナムチェの街の入り口の洗濯場と 井戸端会議

ナムチェまでは意外ときつかった。
パクディンから昼食を食べたジョルサリまでは多少の登り返しはあっても殆ど平行移動であった。
しかし、ジョルサリからナムチェまでは地図読みの標高差で凡そ800mを登った。
日本の山のような樹林帯の歩き易い道なのだが、思いの外息が上がったのは標高が3000mを超えたからだった。

ナムチェの宿も混んでいて一人で泊まる私には特別室が宛てがわれた。
その部屋は普段は布団部屋かと思しき部屋で窓は無く、何故か明り取りの天窓が開いていた。

夕食時、ダイニングに行ってみるとほぼ満員で、一つだけ空いていたテーブルを一人で占領する訳にも行かず二人のスイス人の脇に相席させてもらった。

疲れからか、標高のせいか、私は食欲が落ちていた。
フライドライスを注文してあったが食が進まず、早くも緊急用の食料の「ふりかけ」に手を出していた。
そして、マルコメの生味噌タイプの味噌汁の力も借り、なんとか夕食を食べ切れた。


コング デ に日が沈んで一気に寒くなる

この宿では携帯のチャージが300ルピー、Wi-Hiの接続が1日500ルピーとの事だった。
日本円に換算するには1.2倍掛けるのだが、私は面倒なので筒かで計算していた。
ラムさんはロッジのオーナーと懇意でスマホを無料で繋いでいたが相当重い様子ですいすいとは使えていなかった。

私はカトマンズでデーター通信用のシムを買い電波さえ届けばネットに繋げられるようにして来たつもりだったが、カトマンズではサクサク動いたデーター通信がルクラから先では繋がらなくなった。
アンテナ棒は3本しっかり立っているのだが通信は出来なかった。
恐らく、負荷の掛かる通信は閉め出される仕組みになっているのだと思う。
1ヶ月間使い切りの500MBのシムを買ったのだが、使い切る前に日本に戻りそうな気配だった。

7時30分 周りは煩いが取り敢えず寝袋に入る。

11月6日 血中酸素濃度データー
パクディン (2600m)89% 心拍数69 (寝起き AM5:00)
ナムチェ (3400m) 84% 心拍数94 (到着後 PM2:00)


つづく





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カトマンズからルクラへ

2014-12-02 10:10:17 | ネパール旅日記 2014

2014年 11月5日 火曜日 カトマンズからルクラへ TARA Air

いよいよ本日からトレッキング、歩行開始である。

昨日夕方、酔っぱらって部屋で寝ているとツアー会社の人が迎えに来て、ホテルの近くのオフィスに案内された。
そこでクライミング諸経費の支払いをし、ガイドのラムさんを紹介された。

ツアー会社のオーナーとラムさんは日本語が堪能だった。
オーナーの奥さんは日本人で、日本への短期留学の経験もあった。
ガイドのラムさんは剣岳の早月小屋でアルバイトをした経験が有り、都合五回も来日していた。

私は二人の上手な日本語に少し期待した。
しかし蓋を開けてみれば、トレッキングとクライミング中に相当重大な行き違いが生じた。
それも、昨年の経験からある程度予想していた事の上を行く事態の勃発があった。

昨年はとても怪しい英語を話すガイドのドルジに翻弄されたが、今年は、流暢な日本語を話す二人二を相手にして、結果は似たようなものだった。
ネパール人とのすれ違いや行き違いは言葉の問題では無く、根本的な感覚の違いだと思うので壁は超えられない、不可能だと諦めた。

ラムさんが私の部屋に来てクライミング用具の確認をし、足りない物があればレンタルすると言った。
しかし、昨年の経験から最小限度にまとめられた私のクライミング用具に隙は無く、足りない物も余計な物も無かった。
そして、行動食などの食料を全部見せてくれと言うので持っていたフリーズドライや個人的な非常食を全部見せた。
これが後々お互いの中で大きな食い違いを生む事になったのだと、今は推測するが、その時は知る由もなく言われたままにしていた。


ラムさんは7時半に迎えに来ると言っていたので7時に開くらしいレストランに6時45分に行き無理矢理トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食を注文した。
ラムさんは7時15分に現れ、もう一度トイレ、と言う私を置いて荷物を持ってタクシーで待っていた。

空港までの道は予想に反して空いていて8時に空港に着いた。
ラムさんの後に着いてドメスティックの空港内に入るともの凄い人でごった返していた。
殆どの国の空港で私は、大概瞬時に搭乗手続きの流れが読めるのだったが、カトマンズのドメスティック空港のそれは解らなかった。


チェックインが進んで少し空いたカウンター周り

自分が乗る航空会社のカウンターでチェックインするのだろうと言うのは判っても、カウンター前にも何処にもフライトスケージュールも便名の案内も無いのだ。
そして、幾つかのカウンターには係の人さえ見えず、トレッキングの荷物らしき物だけが山のように積まれていたりするのだった。

これは・・・ガイドが居なかったらナニがナンだか解らないなと思った。

空いている椅子を見つけるとここで待っていろと言われたが、それから1時間程もラムさんは戻って来なくて、そろそろフライトの時刻なのに状況が解らなかった。

9時半近くになりラムさんがやって来て、さあ急ぎましょうと急かした。
日本語が話せるのではあるが、説明はあまり得意では無いのか、状況説明と言うのは殆ど無い。
意思の疎通は言葉の内容では無く、態度と気持ちが肝心なんだがなぁ、と、思うのだったが、これがネパール感覚と言う事かと呑込んだ。


荷物は一人15キロまで 10キロ超過で1000円

ルクラ行きの飛行機は双発だが14人乗りの小さな飛行機だった。
標高2800mの高地にあるルクラには平地が無く、山の斜面を切り開いて作った空港ではこれが精一杯だったのだ。
しかも、山の天気は変わり易く、午後の便は大概欠航し、慢性的にキャンセル待ちが溢れ、チケットの予定通りに飛べる事は希らしい。
だからツアー会社からの案内にも、ルクラでの飛行機待ちに備え、最低3日は予備費を設けて来いと書かれていた。

私たちのフライトは9時の予定だったが搭乗券を貰い乗れる事が確定したのは10時を過ぎていた。
私はラムさんの後に着いてカウンター周りで荷物の番をしていたので段取りが良く判らなかったが、どれだけ時間がずれても当日の予約番号順に処理されているらしく、自分の搭乗時刻が過ぎているからとカウンターに押し掛けて談判しても意味は無いのかと思った。
カウンター前がごった返すのは何の説明もアナウンスも無く時間だけが過ぎ、一向に乗れる気配のない事に焦りを感じるツーリストが殺到するからでは無いかと思った。


ラムさんが一番前の左側を取れとアドバイス


右側はのどかな丘陵風景で左にヒマラヤの山並みが見える

30分程飛んでルクラには11時に着いた。
飛行機は飛べる時にはフル回転でカトマンズとルクラを往復するらしく、乗客と荷物が下ろされると直ぐにカトマンズ行きの乗客を乗せて飛び立って行く。


航空母艦のカタパルトのようだと称される滑走路

荷物を受け取り空港そばのロッジに入り昼食をとりつつポーターの到着を待った。
ポーターはラムさんと同じ村の人で、ルクラから歩いて3日程のところから来るとの事だった。


エベレスト街道の玄関口 ルクラ

ラムさんの荷物がやけに小さいと思ったら着替え以外の物はここのロッジに預けてあり、大きなザックにパッキングをしていた。
私は食事の後、出発まで未だ間があると言うのでルクラの街を散策に出た。
すると、なんとなく日本人っぽい女性に「日本人ですか?」と声を掛けられた。
いや、観光客やトレッカー的な服装なでは無く、どことなくチベット風の匂いの漂う衣装だったので驚いたのだった。
彼女はルクラのネパール人男性の処へ嫁いで土産物屋をやっているのだと言い、これから先のトレッキングの様子などを教えてくれた。

うむ、流石に一部の日本人女性に隠れた人気を持つネパールのエベレスト街道であるなと、驚きつつも納得した。

ポーターのカンニさんが到着し、荷物はトレッキングスタイルにパッキングされ、午後1時丁度に出発した。
本日の宿は標高2600mのパクディンと言う集落で、行程表に因れば歩行時間は3時間とあった。
しかし、地図の具合と標高差から見て下り基調の楽な道であると私は読んだが・・・。


ヒマラヤ名物「マニ」は左側を、オーマニペネホンと唱えて通る

昨年歩いたアンナプルナサーキットはジープロードが開かれ時折車やバイクが走って凄まじい土埃に辟易した。
しかし、エベレスト街道の道はタイヤのある物は走って来られない。
そして、ヒマラヤと言えども陽当たりさえ良ければ標高4000mより下は緑が多く日本の高山よりも優しい風景である。
だが、乾き切った土の道は、ゾッキョ(牛)や馬や人が歩いただけで相当な土埃が上がり、エンジン音の煩さは無いものの、時折マスク無しでは歩けない事に変わりはなかった。


吊り橋をゾッキョが渡り切るまで人は休憩

13時10分、パクディン着。

下り基調の楽な道と読んだのは強ち間違いでは無かったが小刻みなアップダウンが繰り返され息は上がった。
しかし、初日で興奮していたのか、標高の事も省みず日本の山と同じか、それ以上のペースで歩いてしまった。
登りに向かってはゆっくり行く事が肝心だった。
ゆっくりと標高を上げるのが高山病対策と高度順応に適した歩き方だと言う。

昨年の伝手は踏むまいぞ、と堅く心に決めていた。
高度順応をきっちりと果たし、万全の状態で登る6000mを味わいたいと願ってヒマラヤに来た。
そうで無いと自分の力で登った山と言えなくなってしまうのだ。
ガイドに登らせてもらった山は自分の山では無い。
そして、今度の山で自分の能力の本当のところを確認し、この後を決めたいと思っていた。

 追記

夕食時、宿のダイニングの様子に驚いた。
恐らく、自分以外の客は総てフランス人なのだ。
トイレで顔を合わせたら「ボンジュール」であった。
金髪娘とヒマラヤの山小屋のトイレの前でボンジュール!!!
私はとっさに「ナマステー」と返したが、できればもう少し雰囲気の良いところでご挨拶申し上げたかった。

深夜に強い雨音で目が覚める。

7時30分就寝
11月5日 血中酸素濃度データー
カトマンズ (1400m)98% 心拍56 (寝起き時)
パクディン (2600m)91% 心拍100 (一休みして2時頃)


つづく



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