2014年 11月5日 火曜日 カトマンズからルクラへ TARA Air
いよいよ本日からトレッキング、歩行開始である。
昨日夕方、酔っぱらって部屋で寝ているとツアー会社の人が迎えに来て、ホテルの近くのオフィスに案内された。
そこでクライミング諸経費の支払いをし、ガイドのラムさんを紹介された。
ツアー会社のオーナーとラムさんは日本語が堪能だった。
オーナーの奥さんは日本人で、日本への短期留学の経験もあった。
ガイドのラムさんは剣岳の早月小屋でアルバイトをした経験が有り、都合五回も来日していた。
私は二人の上手な日本語に少し期待した。
しかし蓋を開けてみれば、トレッキングとクライミング中に相当重大な行き違いが生じた。
それも、昨年の経験からある程度予想していた事の上を行く事態の勃発があった。
昨年はとても怪しい英語を話すガイドのドルジに翻弄されたが、今年は、流暢な日本語を話す二人二を相手にして、結果は似たようなものだった。
ネパール人とのすれ違いや行き違いは言葉の問題では無く、根本的な感覚の違いだと思うので壁は超えられない、不可能だと諦めた。
ラムさんが私の部屋に来てクライミング用具の確認をし、足りない物があればレンタルすると言った。
しかし、昨年の経験から最小限度にまとめられた私のクライミング用具に隙は無く、足りない物も余計な物も無かった。
そして、行動食などの食料を全部見せてくれと言うので持っていたフリーズドライや個人的な非常食を全部見せた。
これが後々お互いの中で大きな食い違いを生む事になったのだと、今は推測するが、その時は知る由もなく言われたままにしていた。
ラムさんは7時半に迎えに来ると言っていたので7時に開くらしいレストランに6時45分に行き無理矢理トーストと目玉焼きとコーヒーの朝食を注文した。
ラムさんは7時15分に現れ、もう一度トイレ、と言う私を置いて荷物を持ってタクシーで待っていた。
空港までの道は予想に反して空いていて8時に空港に着いた。
ラムさんの後に着いてドメスティックの空港内に入るともの凄い人でごった返していた。
殆どの国の空港で私は、大概瞬時に搭乗手続きの流れが読めるのだったが、カトマンズのドメスティック空港のそれは解らなかった。
チェックインが進んで少し空いたカウンター周り
自分が乗る航空会社のカウンターでチェックインするのだろうと言うのは判っても、カウンター前にも何処にもフライトスケージュールも便名の案内も無いのだ。
そして、幾つかのカウンターには係の人さえ見えず、トレッキングの荷物らしき物だけが山のように積まれていたりするのだった。
これは・・・ガイドが居なかったらナニがナンだか解らないなと思った。
空いている椅子を見つけるとここで待っていろと言われたが、それから1時間程もラムさんは戻って来なくて、そろそろフライトの時刻なのに状況が解らなかった。
9時半近くになりラムさんがやって来て、さあ急ぎましょうと急かした。
日本語が話せるのではあるが、説明はあまり得意では無いのか、状況説明と言うのは殆ど無い。
意思の疎通は言葉の内容では無く、態度と気持ちが肝心なんだがなぁ、と、思うのだったが、これがネパール感覚と言う事かと呑込んだ。
荷物は一人15キロまで 10キロ超過で1000円
ルクラ行きの飛行機は双発だが14人乗りの小さな飛行機だった。
標高2800mの高地にあるルクラには平地が無く、山の斜面を切り開いて作った空港ではこれが精一杯だったのだ。
しかも、山の天気は変わり易く、午後の便は大概欠航し、慢性的にキャンセル待ちが溢れ、チケットの予定通りに飛べる事は希らしい。
だからツアー会社からの案内にも、ルクラでの飛行機待ちに備え、最低3日は予備費を設けて来いと書かれていた。
私たちのフライトは9時の予定だったが搭乗券を貰い乗れる事が確定したのは10時を過ぎていた。
私はラムさんの後に着いてカウンター周りで荷物の番をしていたので段取りが良く判らなかったが、どれだけ時間がずれても当日の予約番号順に処理されているらしく、自分の搭乗時刻が過ぎているからとカウンターに押し掛けて談判しても意味は無いのかと思った。
カウンター前がごった返すのは何の説明もアナウンスも無く時間だけが過ぎ、一向に乗れる気配のない事に焦りを感じるツーリストが殺到するからでは無いかと思った。
ラムさんが一番前の左側を取れとアドバイス
右側はのどかな丘陵風景で左にヒマラヤの山並みが見える
30分程飛んでルクラには11時に着いた。
飛行機は飛べる時にはフル回転でカトマンズとルクラを往復するらしく、乗客と荷物が下ろされると直ぐにカトマンズ行きの乗客を乗せて飛び立って行く。
航空母艦のカタパルトのようだと称される滑走路
荷物を受け取り空港そばのロッジに入り昼食をとりつつポーターの到着を待った。
ポーターはラムさんと同じ村の人で、ルクラから歩いて3日程のところから来るとの事だった。
エベレスト街道の玄関口 ルクラ
ラムさんの荷物がやけに小さいと思ったら着替え以外の物はここのロッジに預けてあり、大きなザックにパッキングをしていた。
私は食事の後、出発まで未だ間があると言うのでルクラの街を散策に出た。
すると、なんとなく日本人っぽい女性に「日本人ですか?」と声を掛けられた。
いや、観光客やトレッカー的な服装なでは無く、どことなくチベット風の匂いの漂う衣装だったので驚いたのだった。
彼女はルクラのネパール人男性の処へ嫁いで土産物屋をやっているのだと言い、これから先のトレッキングの様子などを教えてくれた。
うむ、流石に一部の日本人女性に隠れた人気を持つネパールのエベレスト街道であるなと、驚きつつも納得した。
ポーターのカンニさんが到着し、荷物はトレッキングスタイルにパッキングされ、午後1時丁度に出発した。
本日の宿は標高2600mのパクディンと言う集落で、行程表に因れば歩行時間は3時間とあった。
しかし、地図の具合と標高差から見て下り基調の楽な道であると私は読んだが・・・。
ヒマラヤ名物「マニ」は左側を、オーマニペネホンと唱えて通る
昨年歩いたアンナプルナサーキットはジープロードが開かれ時折車やバイクが走って凄まじい土埃に辟易した。
しかし、エベレスト街道の道はタイヤのある物は走って来られない。
そして、ヒマラヤと言えども陽当たりさえ良ければ標高4000mより下は緑が多く日本の高山よりも優しい風景である。
だが、乾き切った土の道は、ゾッキョ(牛)や馬や人が歩いただけで相当な土埃が上がり、エンジン音の煩さは無いものの、時折マスク無しでは歩けない事に変わりはなかった。
吊り橋をゾッキョが渡り切るまで人は休憩
13時10分、パクディン着。
下り基調の楽な道と読んだのは強ち間違いでは無かったが小刻みなアップダウンが繰り返され息は上がった。
しかし、初日で興奮していたのか、標高の事も省みず日本の山と同じか、それ以上のペースで歩いてしまった。
登りに向かってはゆっくり行く事が肝心だった。
ゆっくりと標高を上げるのが高山病対策と高度順応に適した歩き方だと言う。
昨年の伝手は踏むまいぞ、と堅く心に決めていた。
高度順応をきっちりと果たし、万全の状態で登る6000mを味わいたいと願ってヒマラヤに来た。
そうで無いと自分の力で登った山と言えなくなってしまうのだ。
ガイドに登らせてもらった山は自分の山では無い。
そして、今度の山で自分の能力の本当のところを確認し、この後を決めたいと思っていた。
追記
夕食時、宿のダイニングの様子に驚いた。
恐らく、自分以外の客は総てフランス人なのだ。
トイレで顔を合わせたら「ボンジュール」であった。
金髪娘とヒマラヤの山小屋のトイレの前でボンジュール!!!
私はとっさに「ナマステー」と返したが、できればもう少し雰囲気の良いところでご挨拶申し上げたかった。
深夜に強い雨音で目が覚める。
7時30分就寝
11月5日 血中酸素濃度データー
カトマンズ (1400m)98% 心拍56 (寝起き時)
パクディン (2600m)91% 心拍100 (一休みして2時頃)
つづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます