自民党の秋元議員が外為法違反容疑で東京地検から事務所の家宅捜査を受けた。カジノを積極的に推進する秋元議員側に中国のカジノ経営会社から現金が渡されたのではないかと、疑われての捜査だ。本人は何も不正はしてないと否定している。カジノなんて日本にはいらない。ギャンブルで町起こし、国起こしとは、方向性が違うのではないか。日本は高い経済成長も望めないし、地盤沈下するばかりだ。そこで何か起爆剤になる事業を考えたのだろうが、ギャンブルで国を活性化させるのは、多くの疑問がわく。ギャンブル依存症の問題がある。今だって多くのギャンブル依存者がいるのだ。生活を破産させて人生をダメにしているのだ。さらに、依存者を増やすようなやり方には、断固反対だ。日本にお金はさほど落ちないのではないか。ほとんどが外国のカジノ会社に吸い上げられてしまうのではないか。経済の活性化にはならない。他の道で経済の活性化を考えるべきだ。例えば、プロ野球のチームを新たに増やすなんていうのはどうか。セパそれぞれ6球団から12球団にするのだ。地方の地盤を生かせる。2軍の試合もエンターテインメントにするのだ。スポーツのほうが健全だ。十分に経済効果を期待できる。日本にとって野球は一番客を呼べるスポーツだ。まだまだ、発展する可能性はある。改めてカジノは日本にはいらない。ギャンブル経営は国を亡ぼすだけだ。
日本では未だにわけのわからない不条理がまかり通っているようだ。伊藤詩織さんがレイプ被害を受けたと、訴えた東京地裁裁判で勝訴した。裁判所はレイプの事実を認めた。伊藤さんにとって、裁判で事件の詳細を語る事は、事件を思い出し、悪夢がよみ返えるのではないか。よく言うセカンドレイプだ。聡明で勇気のある女性だから裁判に訴える事ができたのだ。レイプ事件は多くの場合、泣き寝入りだ。恥ずかしいし、訴えても、証拠の保全、認定が難しいからだ。この事件はおまけがついた。レイプという女性にとって許しがたい行為だけでなく、権力側からの介入が疑われるのだ。刑事事件にはならなかった。捜査した高輪署は、成田空港で準強姦罪で逮捕寸前の強姦容疑の有名ジャーナリスト、山口を逮捕できなかった。なぜなら、警視庁からの一本の電話で逮捕が取り消されたのだ。警察までが安部に忖度、犯罪をもみ消すのだ。山口は安部総理をよいしょと持ち上げるので有名なジャーナリストだ。権力側の介入があったのではないか。検察も不起訴処分だ。レイプした極悪野郎は刑事事件にもならず、堂々と社会生活を送り、レイプされた伊藤さんを逆に名誉棄損で裁判に訴えてる。民主主義国家でこんな不条理が許されるのか。権力者のお気に入りは、悪い事をやっても、見逃されるのだ。日本はいい国です。だから、みんな安部にすり寄ってゴマをするのです。こんな卑劣なレイプ事件があったのに、日本では大規模な抗議デモは起きない。世界では、社会的に注目される性犯罪には、大規模デモが起きる。日本人の政治問題や社会問題に対しての意識が低すぎる。日本人の頭の中は、食い物と芸能と美容ぐらいしかないようだ。不条理に対して戦う気はないようだ。山口は高裁に控訴した。合意があったと、主張しています。こんな言い訳、通じるのか。幸い、超党派で国会議員が安部側の介入があったのか、追及するようです。山口と安部を徹底的に追及すべきだ。女性にとってレイプは、誰でも起きうる事だ。真剣に考えなければならない。明日は我が身だ。日本における正義とは何なんだ。強姦という最低の犯罪さえ、権力者の介入、干渉で法を捻じ曲げ無罪にしようとするのだ。この事件は国家権力による犯罪だ。真の法と正義の裁きを山口には受けさせるべきだ。法を捻じ曲げた権力と警察、検察も法の裁きを受けるべきだ。
元農林事務次官の父親による子供への殺人事件で、東京地裁は、父親に対して懲役6年の判決を下した。この事件についてはかなり世間は同情的だ。44歳にもなる子供の父親に対しての暴力に父親は耐えきれなかった。父親は誰にも相談せずに犯行に及んだ。なぜ、相談しないのか、かっこうが悪かったのか、世間体を気にしたのかもしれない。事務次官という経歴が人への相談を拒ませた理由かもしれない。エリート人生を歩んだ人間とはいえ、家庭内のもめ事には、その能力を発揮できなかったようだ。暴力的な人間との同居には、細心の注意を要する。事件が起きるまで息子は一人暮らしをしていたのだ。働いていたのではないから父親からの仕送りで生活していたのだろう。ひとりで生活できるのだから同居する事はなかったのだ。ひきこもりの無職人間なんて日本には100万人はいる。珍しい事ではない。エリート街道をまっすぐ歩いてきた父親にとっては、なにもせず一日ゲームで過ごす息子の生活ぶりを理解できなかったのかもしれない。父親は経済的には恵まれた生活をしていたのだ。同居せず経済的支援をしていれば良かったのだ。仕事をしろだとか、あれやかれや干渉しなければ良かったのだ。日本中に似たような家庭が多くあるのだ。日本人は草食化して、羊のようにおとなしい人間だけになったように思われてるが、実は暴力的事件が頻発している。家庭内暴力であり、あおり運転であり、子供への虐待であり、パワハラ、セクハラ、いじめ、暴力の蔓延国家なのだ。私的暴力は蔓延しているが、暴動などの公的、政治的暴力は、ほとんど起きてない。今の日本人の精神風土を象徴している。暴力の質が女性的であり、卑劣なのだ。文句あれば外に出て堂々とやれと、言うような男らしい人間が今の日本にはいないのだ。腐ったような暴力事件ばかりが頻発してるのだ。明日は我が身なのだ。暴力被害者になる可能性は誰でもあるのだ。いや、加害者になる可能性もあるのだ。人間は元々暴力的存在だ。人間の本質はキリスト教的に言えば悪と罪だ。誰でも暴力の芽を内在している。法や道徳、宗教が暴力を抑制しているのだ。もし、それらがなければ人間界は血の嵐が吹き荒れるだろう。そして、人間ははるか昔に絶滅していただろう。家庭内暴力で悩んでる人はまず相談したほうがいい。専門家のアドバイスを受ける事だ。解決の一歩だ。
今日は12月16日だ。ようやく近所の街路樹のイチョウの葉が50%ぐらい落ちた。しかし、花壇のマリーゴールドはまだ咲いてる。寒くなったとは言え、東京は暖かい。二酸化炭素による温暖化が確実に進行してるようだ。日本の二酸化炭素削減政策は、お粗末だ。COP25でも日本の小泉環境大臣はメディアに叩かれ続けた。化石賞の不名誉な賞をいただいた。安部政権の環境政策は、世界の流れとかなり違う。日本しか通用しない俺流をつらぬいてるようだ。確実に地球の二酸化炭素濃度は上がり続けてる。今、しっかりとした削減政策を取らないと、手遅れになる。ガンは確実に進行しているのだ。人間の欲望が地球の生態を痛めつけるのだ。2100年頃に海面が今より1mも上昇するなら、温度が3度も上昇するなら、どんな事が起きるのだ。台風は今より巨大化し、ノアの洪水のような大雨も降るだろう。砂漠化も進行するだろう。想像できないような自然現象が起きるかもしれない。人間が生きてゆくには、絶対的に水と食料は必要だ。その絶対的に必要なものが得られなくなるかもしれない。生存競争は非常に厳しいものになるかもしれない。そうなれば、争いは多発するようになるだろう。今も戦争は絶えない。絶望的な未来が待ち受けてる。今の政治の流れを変えなければならない。二酸化炭素だけでなく、環境政策は政治課題の主流にならなければならない。自分の国だけ栄えれば、他国はどうでもいいでは済まされない。空気も水も地球を循環しているのだ。地球規模の環境政策が必要なのだ。きちんとした政策を打たなければ、人類絶滅の運命が待ち受けてる。すべてはつながってるのだ。アメリカにトランプが権力者として存在し、環境政策に消極であり、日本の安部も環境政策には消極的だ。トランプも安部も支持率は高いのだ。選挙で選ばれたのだから、何をやっても許されるとでも思ってるのだろうか。権力は腐敗し、傲慢になってゆくのだ。市民がしっかり監視しないと、権力者は自分の利益のために政治を行うようになる。日本の政治活性の低さは病的だ。香港のような100万人デモ、暴動なんて日本では起きない。政治に対しての無関心さは、悲劇的だ。多くの日本人は政治より食い物、芸能、美容にしか関心がないようだ。安部の暴走を許してしまうのは、国民の政治的無関心さにある。権力に依存するような人間が日本には多いのだ。今の腐ったような日本の政治環境、社会環境は異常であり、生産的ではない。日本を変えられるのは、日本人ではなく自然災害であろう。自然の容赦ない破壊によってしか日本は変わらない。がれき中で餓えて初めて日本人は目覚める。すべては虚構の夢だったのだと、わかるだろう。今、日本を虎視眈々と自然災害が日本を狙ってる。地震かもしれない、津波かもしれない、季節はずれの大雨かもしれない、火山噴火かもしれない。おどしてるのではない。自然災害は、日本にとって日常なのだ。気をつけよう。今の日本にとって自然災害だけが真理だ。政治も、社会も、ITも、文化もすべて虚構だ。今、日本人は虚構の夢の中で眠ってる。起きなさい!いつまで眠ってるのだ。
国家を超えて、民族を超えて、宗教を越えて、イデオロギーを超えて、歴史を超えて、人間の上にも人間、人間の下にも人間、人間の中にも人間、 これは何だ。私の理想の人間の姿だ。人間、皆平等なのだ。最近の違いを強調するアイデンティティ至上主義では、争いが絶えない。民族間の争い、宗教間での争い、政治イデオロギーの違いでの争い、人間の歴史は争いの歴史なのだ。争いでどれだけの人間の血が流れてきたのか、滝のような血が流れてきたのだ。人間は永遠に殺しあいをするように運命づけられてる。絶滅するまで争いを続けるだろう。不毛な争いをやめなければならない。違いを強調するより、同じ人間、人間としては違いはない。その事を再確認しなければならない。運命ずけられた負の歴史を超えなければならない。改めて、国家を超えて、民族を超えて、宗教を超えて、イデオロギーを超えて、歴史を超えて、人間の上にも人間、人間の下にも人間、人間の中にも人間、 人間は皆、平等で自由なのだ。憎しみを超えて、愛し合わなければならない。