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「悟性」を備えた共同体であることの幸せ③

2019年06月15日 | 政治・経済
(日本人特有の「うまみ」という感性)
高山:先ほど日下さんが「真似ぶ」とおっしゃったように、理性的に「学ぶ」という感覚よりも、面白いと感じて気がついたら取り組んでいたという感じです。

たしかに幕末から明治開国期に、産業革命以後の西欧近代の力を見せつけられましたから、虚仮威(こけおど)しに引っかかったような感じになったけれど、同時に日本人の感性をそこで捨て去って西欧的理性を第一にしなければならないとは思わなかった。

たとえ論理的でなくとも、日本人はその感性によって優れたものを生み出してきた。まず直感なり感性なりで生み出し、そのあとで理屈づけをする。それでいいというのが日本人の融通無碍(ゆうずうむげ)なところですね。それを悪口として言い換えると、「いい加減」になる。

でも、料理一つとっても、味つけは「いい加減」でなくてはいけない。これは塩何グラム、砂糖何グラムという論理的な作業からは生まれない「うまみ」につながる。「うまみ」は複雑な要素の組み合わせです。日本人はなんと、この「うまみ」の素まで探し出した。

日下:面白いですね。まさに「味の素」のことだ。
明治41年(1908)年に化学者の池田菊苗(きくなえ)が昆布の旨味の正体として発見したグルタミン酸ソーダを工業化して粉末の旨味調味料にしたのが「味の素」ですが、化学的に解析する前に、「うまみ」という感性、発想がなければ探し出せなかったかもしれない。

高山:甘(あま)い、酸(す)い、苦(にが)い、辛(から)い、塩辛い、という「五味」だけじゃなくて、「うまい」というものがある、と。これがわかるのは、世界で日本人が一番だと思います。

日下:たしかに、日本人は普通に「この水は美味(うま)い」とか「こんな不味(まず)い水は飲めない」と言う。井戸水であれ湧き水であれ、水を「美味い」「不味い」と表現できるのは世界で日本人ぐらいです。

水にも「うまみ」の有無を感じ取れるというのは、別に理性の働きによってではない。こうやって日本人は、感性や実感によって物事を正確、細密に把握する能力を自然に身につけたと言える。難しい哲学書の中にではなく、日本人の暮らしの中にそれがある。

日本人の強みは「直感力の勝利」なのです。これは、どれだけ勉強すれば身につくというようなものではない。

たとえば田舎に生まれ育った子供は、特別に学問などしなくても自然に直感力が磨かれ、悟性も発達する。西洋の学問は技術の習得には都合がいいけれど、発明や発見に必要なもともとの発想、直感は日本人のほうが豊かなのだという無意識の自信がある。

明治時代まではそうでした。子供時代の学問はそこいらの寺子屋で十分、いわば日本の指導者の多くが“田舎育ちの秀才”で、彼らが問われたのは人の上に立つ者としての覚悟でした。

戦前まではそうした暗黙の価値観があった。ところが、戦後、とくに新制教育になってからは、覚悟が全然ない、田舎育ちでない秀才が増え、「国(公)」よりも「私」という、近代の理屈に長(た)けた人間が幅を利(き)かせるようになって日本は浅はかになった――というのが私の実感です。

戦前の日本には、直感や悟性に支えられた“立派な武士道の世界”や“見事な職人の世界”がありました。そこで社会的階層、たとえば大学教授と大工の棟梁(とうりょう)の間に人間的な優劣はつけなかった。大工の棟梁は「私」の仕事をするけれど、仕事の結果は見事に「公」に資するものとなる。

そうした無意識の、当たり前の感覚がいま失われつつあるのは、理屈づけのできるもの、理性的に理解できるものばかりをありがたがって、感性、悟性を軽んじているからです。

---owari---
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