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「悟性」を備えた共同体であることの幸せ②

2019年06月14日 | 政治・経済
(「学ぶ」という姿勢は江戸時代以前から)
日下:本当にそうですね。造船技師ベルダンの事例を外国人に教えると、「そこまで外国人の面子を守ってやるなんて、アホと違うか」という反応になる(笑)。しかし、私に言わせれば、そこまで心配りする精神があるからこそ、日本人はさまざまなことを習い覚えるのが速いと言える。速くて、しかも事の要諦がすぐに理解できる。だから、あとは自分の手でやろうということにもなる。

日清戦争での海上主力決戦になった黄海海戦では、たしかに三景艦の主砲はあまり役立たなかったけれど、副砲である速射砲と、イギリス製の新式巡洋艦との連動によって、北洋艦隊よりも高速で艦隊運動することができた。

こちらは瀬戸内海の村上水軍が考えた単縦陣(艦隊の各艦が縦一列に並ぶ陣形のこと)で、清国はドイツ人が考えた三角隊形でしたが、その優劣が世界に証明された。その後の艦隊決戦は、お互いに単縦陣で戦われるようになった。村上水軍式です。

定遠や鎮遠といった巨艦以外の清国軍艦に対して中口径砲を次々に命中させ、撃沈はできなくとも、その攻撃力のほとんどを奪うことに成功した。孤立した定遠、鎮遠は戦意を失って威海衛(いかいえい)軍港に退き、そこを夜襲した水雷艇部隊の魚雷によって止(とど)めを刺された。

北洋艦隊を率いた丁汝昌(ていじょしょう)は日本軍に降伏を申し出ると毒杯を仰いで自決、日清戦争の帰趨(きすう:ゆきつくところ)はここに決したわけですが、日本に何倍もする軍艦を持っていた清国はなぜ敗れたか。彼らは西欧からそれを購入したのみで、新たに建造することも、使いこなすことも、修理することもできなかった。

実際に戦闘時、清国の軍艦を操船していたのはイギリス人、ボイラーを焚(た)いて機関を動かしていたのはアメリカ人、モールス信号を打っていたのはドイツ人だったという。彼らの祖国はいずれも清国ではないから、とても命懸けで日本と戦うわけがない。

日本はなるべくお雇い外国人に頼らなくてもやれるように、日本人自らで何でもできるように努力していたのと対照的です。これは現代の日中関係にも通じますが、「改革」は自らの手で為(な)す、自助努力こそが大事だという態度の有無が日本と中国を分かつ指標であることがわかります。

こうした日本人の「学ぶ」という姿勢は江戸時代以前からあるもので、その前提には、真実を追求する精神と合理的な思考と行動、そして謙虚な心持ち、相手を思いやる心情がなければならない。韓国や中国へ行ってみると、彼らにはそれがないことがよくわかります。

「学ぶ」は「真似(まね)ぶ」なんですが、ただ真似て追いつくことだけを考えるのと、学んで自分のものにするのとでは大変な違いがある。

戦後この方、日本はずいぶんと韓国や中国に技術援助をしたが、彼らの根本にはわれわれと同じ「学ぶ」姿勢がないから、技術の習得によってお金儲けまではできるけれど、日本を追い越して前に行くことはできない。それは要するに精神の問題だからです。私の経験で言うと、これがペルシャとかトルコあたりの人々にはある。相手を尊敬したほうが何事も覚えが速いし、察知する能力も高まる。

高山:特派員としてイラン、イラクなど中東各国やアジア各国をめぐりましたが、たしかにイラン人などは本当に賢いなと感じさせるものがありましたね。

日下:人間の察知する能力についてヨーロッパが議論するようになるのは、ようやくカントの時代から、つまり18世紀半ばから19世紀にかけてです。

それまではカトリック教会が大きな力を持っていて、人々は創造主たる神の存在だけ察知すればいいのであって、それ以外のものを察知したら教会から弾圧を受けてしまう。

ざっくり言ってしまうと、理性という考えはギリシャ哲学から来ている。アラブはそれを引き継いだし、ローマももともとはギリシャの植民地だったから、カトリック教会もその考えを借用して、「神は万能の存在なのに、人間に信者と不信者の別ができるのはなぜか」という質問に対して「それは人間の側に原因があって、理性のある人だけが神の存在を見ることができる」と説いた。

そして、神が見えない人は理性が足りず、動物に近い存在だと教えた。そんなことを言われたら、みんな人間でいたいから「見えます、見えます」となる(笑)。

これがヨーロッパ精神の出発点だと言ってもよい。
しかしカントまで来ると、カントは教会に迎合して理性一本で神の存在を証明しようとしたが、うまくいかなかったので、神の存在を感知する能力として、理性だけでなく「悟性」というものがあることにした。

ドイツ語で「Verstand」を日本語に訳したのが「悟性」ですが、感性や理性と対比させるカント哲学の用語とされている。私流に解説すれば、カントは「察知する能力」のことを表したかったのでしょう。私と同年輩の学生はほとんどみんなカントを読んだ記憶がある。ドイツ語の原書に挑んだ者もいる。

私はといえば、これは小難しいドイツの哲学書で読む必要はないんじゃないかと思った。仏教で諭(さと)せばもっと簡単だと思えたし、さらに言えば、日本人が育ってきた村(ムラ)の常識じゃないか、と思った。理性を超えた直感、理解よりも感じることの大切さ、これに理屈をつけるとすれば「Verstand(悟性)」というものになる。

いまカントを必死になって勉強している若い学生には悪いけれど(笑)、日本のほうが進んでいるというのが当時の私の、そして今も変わらない率直な感想です。

高山:日本人というのは、そういう意味では、感覚というか感性がものすごく優れているから、自然に覚えてしまうんですね。

---owari---
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