鈴木銃太郎は、一八五六(安政三)年、江戸日本橋で鈴木親長の長男として生まれた。
親長は信濃国上田藩主松平伊賀守忠固の家臣で、藩の学問の指導役である会読頭取などを
就任していた。鈴木一家は長野から上京し、駒込東片町に住んで養蚕業を営んだが、
親戚同然につきあっていた商人にだまされ、その上に利益に比べ税金の多さに嫌気がさし
て1年で廃業した。10月に、東京に戻り伝道に従事し、麹町にキリスト教の講義所を
開いた。生活は窮乏し、伝家の刀剣を売らなければならなかった。暮れに火事にあい
家財のすべてを失った。鈴木家は明治7年に横浜に転居した。銃太郎が18歳の時、
キリスト教を信仰していた父の影響で彼も洗礼を受けていた。親長は明治15年まで
共立女学校で和漢学の教員として働いた。銃太郎の妹がカネで、やがて彼女は晩成社の
開拓団に加わることになる。彼女は横浜の共立女学校に入学し、そこで洗礼を受けた。
明治19年代は、熱狂的な信仰復興運動が盛り上がった。とりわけプロテスタンチズムは
農村地域まで広がった。札幌農学校出身者の場合、ウィリアム・クラーク指導教官が
学生と共に八ケ月間寝起きし、内村鑑三、新渡戸稲三ら新教先駆者を生み出した。
銃太郎やカネが入信した時代は、西欧文化の輸入と精神の近代化にキリスト教の神の
愛と救いを説く風潮は生き方の規範となりカネの背中を押したと想像できる。
銃太郎は明治10年10月7日に東京一致神学校(ワッデル塾とタムソン塾が統合)で渡辺勝
と出会う(前年1月31日に築地ワッデル塾で依田勉三と渡辺勝が出会う)。銃太郎はその後、伝道師として千住、埼玉方面の布教活動に従った。だが、銃太郎に不祥事の嫌疑をかけられ聖職を解かれた。
明治15年1月末、銃太郎は横浜で訪ねてきた勝に「北海道開拓を」誘われる。その夏、勉三と銃太郎は十勝を視察し、開拓地をオベリベリ(下帯広)に決めた。勉三は晩成社の小作人集めと準備で伊豆へ帰り、残された銃太郎は越冬した。そして、翌年の5月に帯広での苦難の開拓生活が始まった。
西士狩開墾は明治19年だが、住居は帯広で通いであったので正式な「入植」は明治22年。
記念碑や行政の記録史に誤謬がある。郷土史編纂には専門家たちが相互批評する仕組みが必要。あて職の文化人の名前を連ねても充分ではない。
銃太郎、晩成社研究者として、幸運であった。
懇親会でビンゴゲームが行われ、6等になったが、
取材者ゆえの遠慮があり、向かいの男性に進呈した。
今、明治15年の小説を書いている。
銃太郎没後90年。西士狩り開墾130年の節目を意識する。
秋になって、何かの結果を出したい。今は、書くことに専念。今年は私には幸運な年かもしれない。実りの秋。