よしだルーム

吉田政勝の文学的な日々

高倉健さんと哲学書

2014-11-23 09:34:22 | 日記

高倉健さんの訃報に接して、ファンとしては悲しいが、同時に様々な人が「高倉健」さんについて語ってくれるのはうれしい。そこに、健さんの人生における秘話が現れるからだ。彼の魅力・神秘さを知り、ある哲学書を思い出した。それは・・・。


 わたし吉田政勝が、24歳のときに書店で「論理哲学論考」という本を買った。難解な本、という書評だった。著者はL・ウィトゲンシュタイン。(法政大学出版局)。訳者の坂井秀寿氏は前書きでこう記している。

ウィトゲンシュタインの「論考」の中心思想は「言語は事実の映像であり、言語は事実と論理的形式を共有する」というテーゼ。(世界は事実のよせあつめであって、物のよせあつめではない)。政治家が「しっかりやります」という言語は、彼が事実において行ってこそ論理的になる。その「しっかりやる」という時点では単なる音にすぎない。(論理は事実との鎖の輪ようなつながりをもつ。輪の外れた鎖は鎖とは呼べない)。

 私が日常において、言語と行いに矛盾なく暮らそう(価値と倫理)と努めるが、それは日常の規則性としばしば摩擦や軋みをうむ。だからこそ、矛盾を受け入れ妥協し、人は長いものに巻かれてゆく。前へ進むとするならば、古い慣習を少し壊さなくてはならないのかもしれない。1人の自分なら、習慣をどんどん変えられる。(だが、社会や職場はそうはいかない・・・)。

 高倉健さんは「孤独は自由と背中あわせ」と述べている。いったん映画の現場から離れると、彼は糸のない凧のごとく放浪の旅に出る。だが、彼は人々の優しさに無関心ではない。親切、同情、琴線にふれたことには熱意や興味をしめす。
 健さんは「ブラック・レイン」で共演したアンディ・ガルシアに「ken」という名入りの腕時計を贈った。もちろんガルシアは喜んで、お礼になにか贈りたいと応えたが、健さんは「いや、それではお礼の意味がない」と断った。ガルシアは「健は気品にあふれた優れた芸術家だ。その時計は今も大事に使っている・・」と述べる。

 ウィトゲンシュタインもまた、純粋無垢な献身に対して、離れがたい魅力を感じる人物だった。彼自身が「人のあたたかさと愛情」にもっとも飢えている人間であった。利害で人は離れたり、近づいたりするが、ウィトゲンシュタインは、利害を超えた本当の裸の人間のつきあいに心からあこがれた。人間的なあたたかさを「識見や財力」よりも高く評価するのである。その証に、ウィトゲンシュタインは親からの遺産を有能な芸術家の育成に寄付した。
 実は、高倉健さんも「利害を超えた人づきあいをした」そういう人であったと思うのである。


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