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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

家庭とは「家」と「庭」?ぬくもりのいえ

2021-10-30 17:43:14 | 日記

右ひざが痛む。ああ、とうとうサッカーマンたちと同じになってしまった。あの米原の15000歩が悪かったようだ。でも、今日も歩かなくてはならなかった。お天気はいい。きれいな紅葉は11月中旬すぎだろう。小さな秋があった。

道端に可愛いピンクの花が咲いている。ああ、母が狭い庭に育てていた花だ。急に母が恋しくなる。なんでもっとそばにいなかったのだろうか。

だいぶ昔、だれかの言葉で「家庭というのは「家」に「庭」がないとダメなんですよ」があった。その頃はマンション住まいだったので、「庭」がないと家庭じゃないの?と思った。都会で庭のあるうちも少ない。家庭か?私の生活は「家庭」があるというのだろうか?「家庭」は捨ててしまったよなぁ。新しい家を建てると、家具やカーテンやらを考える。そして、庭はどんな庭にしようかと少しずつ暮らしを楽しみながら作っていく。そして、子供たちが増えて、今度はまた新しい家具やらが入る。車はどうしようか?そうやって子育てをしてやがて子供たちが旅立って行く。それが家庭なのかな。子供が無くても庭造りを楽しんだり、毎年旅行に行ったり、動物を飼ったりして家庭を作っていく。

そう思ったときに、希望がなかった。でも、二人が一緒にいるってどういうこと?という問いに「二人で一緒に将来について考えていくことでしょ」と言った。(菅波先生だ)そして、気が付いた。「庭」って、家族や仲間の広がりなんだと。「庭」がなくても「庭」という空間は作れる。そう、私が「おかえりなさい」といえる「ぬくもりのいえ」に「にわ」を作ればいいんだ。そして、「いってらっしゃい」と送り出せる「いえ」にすればいいのだと。

いよいよ「ぬくもりのいえ」を作り始めます。

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人生の下り道

2021-10-29 17:29:08 | 日記

今日も晴天で1日が始まりました。「お帰り菅波」でしたね。船出もかっこよかった。いいドラマでした。うっとり。

町でちょっと奇なるもの発見、深い意味はありません。選挙も追い込み、期日前投票に行く途中自民党のポスターが岸田氏と河野氏の2枚並べてある。うまく言えないがなんか変。先ほど見たネットの写真で提灯の中でマスクなしの会食。大きなつるした提灯の口の辺りを透明のビニールにしたもの。つまり、大きな提灯の2つの中に2人それぞれ入るのです。おいしいお酒かな。

さて、冗談はさておき、昨日は青岸寺の参拝の後、裏山に米原市内と琵琶湖が見える展望台がある。歩いて10分なので登ることにした。道はばが狭く路肩が崩れているのでやや怖い。それよりも山肌の岩石が細かく崩れているので、ずるずると滑りそうだ。でも、上りは「まだ、おばあさんでも大丈夫!」と制覇。かなり古びた展望台だった。昔、麓の小学生が昼休みに登ったというので、「学校展望台」とか。昔の子は元気だったのか!米原の町と琵琶湖を見ながら下る余裕はなかった。下りはかなり慎重にしないとずり落ちる。10分にしてはしんどい。

あれは五木寛だっただろうか。人生の下りも楽しいと言ったのは。「生涯心理学」を学んだ時に、人生の残りの半分は今までできなかったことをして生きるとあった。下りはそういう楽しみがあるのだろうか。上りは頂上を目指しして苦戦しながらも登っていく。でも、下りは確かに難しい。「降りる」ということは難しいことだ。でも、見えなかった世界がよく見えることもある。それが面白い。

下りというよりは、比較的平たんな道をぶらぶら降りる感じだ。休みながらのんびりと。いい下り坂になった。

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私はここにずっといます

2021-10-28 16:10:11 | 日記

きれいに晴れた日、迷わず米原の青岸寺へ出かけた。最近亡くなられた方のために、ご冥福を静かに祈りたかった。長浜の寺はどうも今一つお寺の雰囲気にかけている。(お寺が荒れているというのか)

冬ソナが流行ったときに親友のYさんは、バスタオルを手にTVを見たという。わたしはそういうことはなかったが、そんな話を思い出した。ここ1週間ぐらいの朝ドラを見ていて、じんわりと泣けるのがいいなぁと思った。(号泣している人もいるようだが)心の深いところにそっと手をかざしてくれるようなじんわりがいい。そして、あたたかい心で前に少し歩みだせるドラマだ。

なぜこの地に来たのかという問いに私は「琵琶湖に沈む真っ赤な太陽に魅せられて」とか仕事の面では「ちょうど西にも東にも真ん中にあたる米原に近いから各方面に出かけやすい」とか答えていた。でも、今日ははっきり違うといえる。そうじゃないのだ。あの人の大好きなこの町に住みたかったのだ。そう、ドラマを見て言えるようになった。

「私はここにずっといます」と言える。そういう言葉をはっきりと言えるのだ。それには私自身の迷いもあった。この土地でこれから先具合が悪くなったら、経済的に行き詰ったら・・・私はここに住み続けられるだろうかという不安だ。それでも私は「ここにずっと住んでいます」と言えるようになった。

琵琶湖に沈む真っ赤な夕日に向かって走った自分を大事にしようと。それを喜んでくれた人のためにも。

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相手を見ていますか?

2021-10-27 17:36:51 | 日記

今日も暖かい日だった。朝晩もさほど冷え込まない。気合を入れて布団にくるまったせいか夜中に汗をかいて目が覚めた。何事もほどほどがいいのだろうなぁ。いままで寒さには強かったので、20代と同じような服装だったが、さすがに血圧事件で反省した。何も若ぶることはないじゃないと。マスクをしていても年はわかるということが最近わかった。中学生が「こんにちは」と挨拶してくれた。もう一人の子が通り過ぎてから「あのおばあさん知ってるの?」だってさ。

前にも書いたが、想像力がないというのはやはり問題かなと思う。その人の周囲にある幕のようなものに気が付かないのかなぁと思うことがある。持ちろん自分の想像の範囲だが。意外だったのは、普段は想像力があると思える方が、メールだとその文面通りにしか読まないということだった。その人の文章を受けてのこちらのお返事なので、あれ?私がもう少し詳しく書かないといけなかったのかしら?だった。でも、やり取りを何回かしていれば、その辺はいつもの私の文を読んでいればわかるのになぁ・・・だった。大事なことは文を理解するのではなくて、人を理解することなのだろうな。私も注意しないと。

でも、逆もある。どうしてわかるの?だ。いつもと同じ雰囲気の文を書いているつもりなのだが、そのどこかにあれ?いつもと違うと感じてくれるのだろう。それはなにかよくわからない力だと思う。やはり、相手のことをよく見ていることなのだろう。ということは、想像力がないということは、人を見ていない人が多いということだろうか?

今日もいい日だった。遠足に行く小学生40人くらいに「こんにちはー」と声をかけてもらった。あのおばあさんと思われてもいいや。

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いわれなき物語 彼岸花のような女

2021-10-26 17:28:45 | 日記

朝、カーテンの隙間から陽ざしが漏れてくるとうれしい。やはり、気持ちは天気に左右されるかもしれない。おだやかで静かな1日であってほしいと思う。

彼岸花という花は、根に毒をもっているという。お友達は何十年お付き合いをしている人に「彼岸花のようなところがある」と言われたという。確か来生たかおの「官能少女」という歌に「どこまでほんとうか どこから嘘なのか・・・」という歌詞があった。なんとなく彼女について「彼岸花」はさもありなんだが・・・。私が実はねと話を膨らませて作れば、彼女にはやがて「いわれなき物語」ができるのかもしれない。

高校の3年の時のクラスでの「村八分」状況、地域意識(地域に住むプライド)の高いところへ引っ越した時の陰険ないじめ。それに私は反論しなかった。「違うのよ。それは・・・」とかばうものがあったので語らずに黙っていた。今思うと、きちんと説明すればよかったのか・・・。

今の時代には、だれもがストリーメーカーになれるし、「いわれなき物語」で苦しむこともあるだろう。でも、真実は一つしかない。そういう真実を感じる、見分ける力というものは必要のような気がする。どのような環境でどのような教育でどのように生きてきたか。

今日は風が強いが、気温は高い。いいよね、信じて一緒に生きていける人がいることは。

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