gooブログはじめました!

あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

最後の1ピース

2015-09-28 21:13:07 | 日記
 月が美しい。日本の風景に月はやはり合うようだ。この前のぶろぐはなにかわからないイライラから書いたような気もする。そのことが言えないことが辛かった。最後の1ピースはないのかもしれないし、なくても幸せなのかもしれない。冬ソナでは最後の1ピ-スを持ついる人が、運命の人だった。だとしたら誰が持っているのか?

二人分の食卓を作りだして、どのくらいたったのだろうか。飽きることもなく、恥じることもなく続けている。私の前に座る人は、おかしなことを言う。私の心なのだろうが、すべてOK、いいよ、いいよである。それが私を楽しくさせている。それでついに食卓のまわりを配置換えしてしまった。腰に十分気をつけながら、家具を一人で移動した。使い易く、きれいになった。最後の1ピースは自分が持っているのかもしれない と思った。ニャン。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当は・・・・

2015-09-26 06:59:11 | 日記
 雨が続く。そんな灰色の世界に金木犀の香りが漂う。妙に艶めかしく、そして悲しい。なにか焦点のぼけた学芸会のお芝居のようだったNHKア朝ドラ「まれ」。昨日は見ていて涙が出た。心がざわざわする。いいようのない不満の感情があるのだろう。イヤ、本当は言いたいことがあり、怒りたいし、泣きたいのだろう。たしかに心静かに暮らしていた。諸々に感謝できたし、やりたいことを大変だけど楽しんでいた。すてきな人たちにたくさん巡り合えた。

だけど、心のどこかが泣いている。一番言いたいことが言えないのかもしれない。最後の1ピースが見からないパズルのように私の絵は完成することはないようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時がある

2015-09-22 22:57:25 | 日記
 フェイスブックにかわいい柴犬が2匹、橋桁に前足をかけて「僕たち連休でもどこへも行けないね」と言っている写真がUPされていた。本当にそうだね、私も旅行客に遠慮しながら仕事に出かけた。1年前のぶろぐには「足るを知る」というタイトルで、物事を待てるようになったことが書いてあった。同じような思いを今も味わっている。洗礼を受けた時にシスターから頂いた言葉が聖書の「時がある」だった。今週の日曜日、実家に帰った。お彼岸と敬老の日母にささやかなお祝いをと思った。いつも母は弟とお墓参りに行くが、今回は疲れるので行かないという。母の記憶もあやしいので、弟が一人でお墓参りに行くのかどうかもわからなかった。母と昼ごはんを食べた終わったころ、弟がやってきた。急いだので、電話もできずに来たという。弟とは15年ぶりくらいに会った。なにを腹を立ているのか、一切連絡を絶たれた。母の入院騒ぎやらで電話をしても、けんもほろろだった。この年になって、家族も少ないのだから仲良くしたい と思っていた。母は嬉しそうだった。弟はお墓参りに行っても、実家へ来たのはそれこそ何年ぶりからしい。そして三人が揃うのは父の葬儀以来ではないか。それぞれがなにも余分なことは言わずにテーブルを囲んだ。少し会話のかみ合わぬ母ではあったが、久ぶりの家族の話は弾んだ。弟は、庭の木を切り、家の中を見回し、不便なところを今度直しに来るという。ただただ、母の笑顔が嬉しい日だった。時とはこうしてくるものだ と思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逃飛行(逃避行)

2015-09-19 20:39:19 | 日記
 久しぶりの晴れ。空が高い。世間は5連休とか。私の暦には残念ながらお休みの印がない。お休み=心身を休める時間。ボランティアの時間のなかにほんの少し働く時間。仕事は比較的楽でもボランティアから解放される時間がない。パソコンを開けば、することがある。好きでしていること、それがなかったらどんなにか退屈か と思う。でも、最近は身体がきつい時があるし、ほかの空間を考えたいこともある。疲れすぎれば「もういい!・・・」となる。私だけでなく、仕事、介護などなど疲れている人が多い。どこかへ逃げたくなる。それもできず、久しぶりに「冬ソナ」を見て涙を流す。いい逃げ場所かもしれない。遠慮なく泣ける。でも、本当は飛びたいのだ。そう、逃飛行なのだ。昔、関根恵子さんが飛んだ。人生の終わりならそんなことも許されるのかな。飛びたい症候群かもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤いベレー帽

2015-09-16 22:55:22 | 日記
 朝夕はすっかり涼しい。夏ものをしまって秋ものをださないとならなくなった。季節の移ろいが早くなる。実家に帰ると母があちこちに写真を飾っている。そんななかに私の三歳の時の写真があった。父の縫ってくれたであろうケープのついた赤いオーバー。かわいい飾りのついた赤い靴。そして赤いベレー帽。こんなに大事に育ててくれていたのだなぁ と思う。「赤いベレーは想いの深さ」というセリフが向田邦子の『幸福』にあった。向田は愛の深さを愛し合う同士には見えないものが見えるというような手法でよく描くことがある。本来ならその場にいないから見えるはずのない、知るはずのないことを相手を愛している人には見えるということだ。想いが通じていると不思議にわかることがある。気持ちが文字からでも、いや何もなくてもわかることがある。。信じられないようなことが起こることがある。人には理屈では起こらないような不思議なことに出会うことがある。やはり、それは想いの深さなのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする