gooブログはじめました!

あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

ぶろぐ開設3000日!

2021-06-30 18:06:05 | 日記

今日も「オータニサン!」の本塁打で始まりました。いい日の始まりです。大家さんから大輪の百合の花のプレゼント。美容室から帰ってくるとなんとペニーが庭の角で(大家さん宅の)待っていたではありませんか。

いろいろな思いはありますが、ぶろぐ開設から3000日です。2013年4月15日からです。読んでいただく皆さまへ感謝!

これからもあなたへのラブレターを書いていきますね。いつまでできるかな。

  

 

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナ禍 みんなたいへんなんだ

2021-06-29 17:45:34 | 日記

首都圏のコロナの感染は収まらないようだ。お友達が神奈川に多く住んでいるが、なにせ東京へお勤めに行く人、週末は横浜や湘南へ遊びに来る人が多いのだから収まるわけがないという。聖火リレーも整備していた公道は中止ななるとか。本当にさまざまな問題を起こしている。神父様は年に1回は母国に帰るが、帰れない神父様が多い。弟はベトナムのフエにいるが1年半帰ってこれない。3月に海外の勤務地へ帰った人も勤務地での感染拡大で日本に戻れない。大なり小なり皆が耐えている。特に医療関係者の方たちは、激務の連続だろう。心が痛む。

昨日、コピー機がなくなったので部屋が広くなった。(まぁ、異物が部屋にあったのだが)パソコンの書類の印刷に使っていたので、さぞ不便かと思うとそうでもなく、インクジェットのプリンタで役が足りている。そんなものなのだなぁと思った。これでNPO関係の処理も片付く。次に進む気にや~っとなった。でも、これでいいのだなぁと思う。焦ってするよりも何が必要かよくわかる。あとはひたすら「みなさまにおねがいいたしま~す」と選挙のようになる。

焦って何かをしたり、無理をしたりしていた時は、そこに自分を追い込まないと不安だったのだろう。無意識で忙しさに逃げていたのだろう。そんなことが多いようだ。それはでも責められない気がする。人はそうしてバランスと取って生き延びているのだから。

今日は「それからのお市の方」を読み終わった。この血なまぐさい湖北から近江の地域は、それでもどこかにロマンを秘めている。そういう土地なのだろうと思い、琵琶湖畔に出かけてみた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コピー機さんありがとう!失敗を糧に

2021-06-28 17:13:07 | 日記

誰かではないが毎朝大谷翔平君の笑顔を見るのが楽しみだ。大丈夫?と変な心配をしてしまうくらい絶好調!実況のアナウンサーの興奮もすごい。全米をファンにする感じだ。朝はこのニュースに限る。いいね!の3乗くらい。

さて、わが家は朝から忙しかった。20年以上助けてもらったコピー機とのお別れの日だ。離婚後新しく事務所を借りたときからのある意味では腐れ縁だ。ただより高い物はないというが、事務所をもっていた人から譲り受けた。リースが終わりそうになると、今度の機種はスピードが速いから新しくしませんかなどと言われ、結局今日まで持ち続けた。でも、冊子の印刷、入試問題の印刷など本当に助かった。お礼を言ってお別れをした。

私の人生は「無理」の連続だった。5000円しか財布になくても5000円をお貸ししたようなものだ。いや、もう少し足りないのですがと言われればあと2000円借りてきたりした。さまざまな面で無理してもやり通した仕事ばかりだ。自分の力の範囲ですればよかっただけなのに。反省に次ぐ反省の人生だ。

「父親は限界を教えるものだ」と習ったことがある。父のせいにする気はないが、父は限界を教える人でなかった。ある意味では無関心だった。誰にも頼らずに限界を超えてやってきたことの多いこと。でも、今はできる範囲でやれることをしようと思う。まぁ、力がなくなったのだろう。

ただ、私と同じように無理して失敗したりして悩んでいる人がいるなら、こう言えるかな。「やらないで終わるより、それが失敗でも価値はある」と。失敗も成功も経験だから。得ることがないわけがない。私はこの年でその失敗からパワーを得ている。

コピー機がなくなると家らしくなった。何よりもうれしい。普通の暮らしが戻ってきた。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もうすぐ夏だ!がんばろうね

2021-06-27 17:53:46 | 日記

外の風はひんやりしているが、蒸し暑い。昨夜、花火の音がした。ああ、毎週土曜日に1発だけ琵琶湖畔で上げることになっていたなぁなんて思いながらパソコンを見ていた。少しすると、また音が・・・。何処で打ち上げるかも内緒ということだがカーテンを開けてみた。それらしきものは見えない。近所の家からも「あら!花火よ!」と窓を開けたり、外に出てきた。9月中旬に花火大会があるらしい。お祭り女は楽しみにしている。

夏休みの予定といって、今頃から皆さん旅の予定などを立てていた。今年はワクチン接種が終わったので「孫に会い行きます」や「両親に会いに行きます」が多いようだ。何となく行き詰まっている気分を打ち破るにはどこかへ行くことなのだろうなぁ。あなたは何か考えましたか?私はお金がないから、そうだなぁ、新快速電車なら(東海道線)姫路まで行ける。海でも見てこようか。京都の日本海側もいいかな。いつもの夏は何も考えなかったけど、今年は安全・安心で出かけてみようかな。

何が不満ということもなく平和に過ごしているが、それでも本を読んだりして思い返す昔のことで落ち込むこともある。なんて自己中だったのかと思うし、なにか手にしていてもよかったのにとも思う。進むためには(落ち込まないためには)小さな楽しみも必要な気がする。まだ、私は自分の足で歩いて出かけられるのだから。

はちすの花が咲き出した。この花と夾竹桃の百日紅の花は夏の花だ。今日は庭に(と言えるかどうか)ウッドチップ(無料で頂いてきた)をまいていみた。香りがいい。あとはひまわりの種をまく。明るい花が見たい。小さな小さな旅でも、家の中のことでも気持ちを保っていけるようにいろいろやってみようと思う。あなたも先に何か楽しみを!

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発した言葉の責任は?

2021-06-26 17:58:10 | 日記

また雨になった。昨日は雷もひどく、夕方の買い物が遅くなった。小降りになったので郵便を出しに行くと、大家さんの家のペニーが玄関に出ていた。雷におびえて家中を駆け回っていたという。珍しくペニーから寄ってきたが、ぶるぶる震えていた。おとなしくしているので、写真を撮ってあげられた。お蔵入りだ。胸に小骨が刺さったようでなにか気分がすっきりしない日だったのでうれしかった。

最近は普通にものが言えない人が多いのだろうか。誰かが具合が悪くて入院したと聞いたら、普通は見舞いに行かなくても「どうぞお大事に、静養されてください」が普通のいい方だ。(ほかの人も聞く言葉であればなおさら)私の小骨もそんな感じだった。思わず辞書を調べた言葉もあった。「拝察」だ。「推察」の謙譲語だ。だいたい謙譲語の意味がわからないのか・・・。何事も思うのは自由だが、言葉として発せられる時は責任が生ずる。その発した言葉から、その人の人となりが推し量られる。私などはすぐに「なんと気持ちの小さい人なのだろう」と思ってしまう。

昨夜はそういう小骨のせいもあるのか、夜中に目が覚めた。そのうちに眠れると思っていたが、頭が冴えてきた。読みかけのお友達から借りた「若冲」(澤田瞳子著)を読み出した。今までのイメージとは違う若冲が出てきている。もちろん、筆者がイメージする若冲の絵に対する気持ちだが。義弟に対する確執が複雑に作品に反映していく。そんな物語を読みながら、今まで気が付かなかったなにか大きな愛情を感じた。特に、石峰寺の石仏に関して読みながら、訪れた日のことを思い出した。

私はキリスト者だが、遠い宇宙のどこかから届けられるような、仏の心というのか。死というものと向き合って生きた人間が持てる仏のような愛情のようなものを感じた。(わかりにくい独り言ですみません)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする