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ローマ人への手紙

2018-01-02 12:34:41 | 日記
<ローマ第14章>
キリスト者の倫理(12・1-15・13)
互いにさばくな(14・13―23)
13.それゆえ、今後わたしたちは、互いにさばき合うことをやめよう。むしろ、あなたがたは、妨げとなる物や、つまずきとなる物を兄弟の前に置かないことに、決めるがよい。
14.わたしは、主イエスにあって知りかつ確信している。それ自体、汚れているものは一つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのである。
15.もし食物のゆえに兄弟を苦しめるなら、あなたは、もはや愛によって歩いているのではない。あなたの食物によって、兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも、死なれたのである。

現象人間演ずる役者とは

2018-01-02 12:04:11 | 日記
現象世界という舞台で
私という現象人間の役を演じている役者が
実相人間なのだと思う。
神の子のことだ。
もっとも自他一体であるから、
私を中心にして環境世界丸ごとを演じているのも
同一の実相人間なのだ。
それが「神の子・神の国」ということになる。
それが円満完全大調和だということになり、
理念であるということにもなり、
神の言葉であるということである。
現象的なものを一切含まない「霊妙なるもの」である。

神想観深まったとき、「われ―すなわち実相、実相―すなわちわれ」と念ぜよ

2018-01-02 11:10:08 | 日記
神想観が深まったとき、
実相を自覚する方法が、
「われ―すなわち実相、実相―すなわちわれ」と
念ずることであります。
完全に実相を自覚できる方法であると
書かれています。。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
【完全に実相を自覚するには「われ―すなわち実相、実相ーすなわちわれ」の神想観の三昧境に達せねばならないのであります。この神想観の三昧境においては、自己というものが、精神にあらず、肉体にあらず、また幽体霊体にもあらずして、これらを超越して至微至妙の状態にて存在する金剛不壊の実相身たることが自覚されます。この自覚に達するには、神想観深まった時、「実相はすなわちわれ、われすなわち実相」の言葉を繰り返し繰り返し念ずるのがよいのであります。この黙念を続けるとき、したいに自覚が深まって、「われ」というものが天地に充満し、天地とともに呼吸し、天地とともに存在する大実在であるという境地に達し、ついに「実相はすなわちわれ、われはすなわち実相」の大自覚に到達して、今まで自分というものを物質であると観じていた迷いが消尽し、自己を実相そのままの姿において認識するにいたり、実相の世界から無限に健康と、能力と、知恵と供給が与えられている自分を見いだすことになるのであります。ここにおいて、現実のわれらと神との相違は、ただ自分は個体化した神の体験者であるのに、神は無限者そのままのすがたであるだけにすぎないことを知るでありましょう。】

注意をひたすら「念」に向けよ。念の鏡を浄玻璃(じょうはり)のように拭い清めよ

2018-01-02 10:38:47 | 日記
神想観で大事なのは
念を清めることです。
このことを
私も苦労してきたのでした。
でもまずは真理・真実を・・・
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
【注意をひたすら「念」に向けよ。念の鏡を浄玻璃(じょうはり)のように拭い清めよ。鏡の面から曇りと汚点とを取り去って、そのすみずみまでも完全に清めきれ。このことをなすには肉体の変化に心を思い煩わせている限りはできないのです。移り変わる現象人間の姿から心の眼を一転させて、水晶の水のように澄みきった真実在の実相に心の鏡を向けよ。そうだ、神の造り給いしままの完全なる存在の実相に突き入ることだ。そうすればわれらの心は実在の世界とまったくひとしく浄無垢となるのであります。】【かくしてわれらが明らかに存在の実相を正観し完全に自己生命の実相を知ることができるとき、われらのあらゆる思考は実相を反映したものとなり、われらの現実の肉体は人間本来の面目の完全さを現じいだすのであります。すなわち外なる形は内なる実相の狂いのない反映となり、われらが実相において知ったところの円満完全な状態は、肉体人間において目に見える相となって顕現してくるのであります。】

神想観中、肉体を霊なるものと考える必要あり

2018-01-02 10:06:16 | 日記
人間は即身成仏していて
実相の表現身なのですから、
神想観をしている時にも、
肉体を霊なるものと
考える必要があります。
このことは大事なことです。
(参考 生命の実相第8巻 無限生命に汲む道)
諸君が神想観中、人間の完全円満なる実相生命を人間の一面であると観じ、しかして同時に肉体を人間を他の一面であると観じ、肉体なる容器に霊なる神の生命流れ入ると観ずるならば、それは人間に二つの異なる存在を―すなわち一つは完全なるもの、他は不完全なるものを―認めることになるのであって完全なる神想観と言うことはできないのであります。われらが肉体をば、真実在に相対する不完全な存在であると考える限りにおいては、われらは生命の実相を把握したと言うことはできないのです。】【実相の世界、真実在の世界においては人間はただ一つの存在であります。霊なる至妙なる人間しか存在しないのであります。】