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2017.10 復元された長崎・出島を見学+キリスト教伝来と島原の乱を復習

2017年11月07日 | 旅行

2017.10 長崎を行く ②
 橋を渡った先が出島である。出島は教科書にも登場する。1639年からペリー来航の1853年まで続いた厳しい鎖国政策のなかで、出島だけが西洋の窓口になった。
 急ぎ、復讐する。種子島にポルトガルの船が漂着して鉄砲が日本にもたらされたのが1543年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教を目指して鹿児島に上陸したのが1549年である。翌1550年、ポルトガル船が平戸に上陸し交易が始まる・・同年、ザビエルが平戸を経由して京に上っている・・が、売買交渉が決裂して騒乱になったため、ポルトガル船の入港が途絶えた。代わって平戸にはオランダ船が入港し、オランダ商館も建てられた。ポルトガル人は長崎港の開港を求め、1571年に長崎港が開港された。長崎には大勢のポルトガル人が住み、南蛮貿易が盛んになった。キリスト教も広まっていった。豊臣秀吉(1537-1598)は南蛮貿易は奨励する一方、1587年にバテレン追放令を発布している。それでもまだ厳しい取り締まりはされなかったようだ。1600年、関ヶ原の戦いで徳川家康(1543-1516)に実権が移り、南蛮貿易は続けられるが、1614年にはキリスト禁教令が発布される。キリスト教徒は、密かに信仰を続けたようだ。1636年、3代将軍家光のとき、南蛮貿易の掌握とキリスト教の広がりを防ぐため出島が築造され、ポルトガル人は出島に収容された。翌1637年、島原の乱が起きる。背景には過酷な年貢負担が続いていたところに飢饉が起こり、キリスト教弾圧も重なり、天草四郎を筆頭にした一揆に発展する。1638年、一揆軍は全滅し、幕府軍の勝利で終結する。幕府は、キリスト教カトリックの広まりはポルトガルによると見なし、また一揆軍がポルトガルの支援を画策した?ことから、ポルトガル船の来港は禁止となり、ポルトガル人はすべて国外追放となった。代わって、平戸のオランダ商館が出島に移され、幕末までオランダのみとの交流、交易が続くことになった。
 ペリー来航後に締結された日米和親条約、続く日米修好通商条約によって、下田・・後に閉港・・、箱館、神奈川、新潟、長崎、兵庫が開港され、各港で海外貿易が行われるようになった。長崎では、新たな外国人居留地ができ、出島周辺の埋め立てが進んで、出島の形が失われていった。第2次大戦後、出島の復元計画が動き出す。現在は第1期~第3期の復元工事が終わり、19世紀初頭の面影を再現した16棟が復元されている。
 橋から見ると出島が扇形であるのが分かる。法面は石積みで、船着き用の足場が設けられているが、すぐ隣に立てられている出島和蘭商館跡の説明板には船着き用の足場は描かれていない。西端に水門と呼ばれる門があり、その前は水路で、小舟が描かれている。大型船は海に停泊し、小舟で水門から荷物の積み卸しをしたようだ。
 私たちは水門=西側料金所から入場した。外国人も多かった。オランダ人だろうか、熱心に見学し、写真を撮っていた。扇形のため、西端から東端までは見通せないが、中央に立てば全体が見通せる。中央にかつて表門があり、その正面にオランダ商館長カピタンの居宅が復元されている。外階段を上がると、手前の商取引にかかわる事務スペース?、奥のカピタンの居室や一番船船頭部屋などが見学できる。いずれも畳敷きに、イス・テーブルを使用したようだ。壁紙は現代にも通じるモダンな色合い、模様で、当時、ここで西洋を感じた日本人はその異文化性、先進性に圧倒されたのではないだろうか。
 場内には編み笠、和服の案内人が案内、説明をしてくれる。しかし、見学できる建物内はパネルや模造品の展示が中心で、当時を彷彿させるような気分にはならない。かつて社交場として利用された旧長崎内外クラブがレストランになっているのでコーヒータイムと思ったが、すでに3時半を過ぎていて、3時閉店に間にあわなかった。オランダ東インド会社は香辛料が主だったがコーヒーや紅茶も扱ったから、インドネシアのおいしいコーヒーを期待したが、残念である。それにしても3時閉店は早すぎる。出島のミニチュア模型などを見ながら、水門に戻り、出島をあとにした。

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