優しさの連鎖

いじめの連鎖、って嫌な言葉ですよね。
だから私は、優しさの連鎖。

ケーキを買う

2018-12-25 00:08:35 | 日記
子供たちが巣立ってから我が家はクリスマスというと、バタークリームのデコレーションケーキを食べる日のことです。
以前はコンビニでバイトしている知人やお菓子屋さん関係に勤めている友人から予約をお願いされたりもしましたが、最近はそんなことも無くなり当日スーパーで売っているのを買っています。ところがバタークリームのケーキはなかなか売っていないので、とにかく見つけたら買うことにしています。
幸い今日、たまたま一個だけあったので買ってきました。そして、晩御飯が済んでからすぐ、ケーキの箱を開け二人で食べました。しかも、二人でホールの半分を一気食いです。我ながらびっくりです。子供がいたら絶対そんなことはしないと思います。まずは子供たちに食べさせたいから自分の分は無くてもいいくらいですし、太りたくないという気持ちの方が優先するからです。
二人でケーキを頬張っている姿は他人には見せたくないです。年を取るとセーブが効かなくなるというのは本当かもしれないと思いました。

デコレーションケーキは絶対生クリームよりバタークリーム派。でも、昔のケーキみたいに甘ったるいバラの花が乗っかってるのは無いのでちょっと残念。

終末期医療

2018-12-21 15:55:41 | 日記
姑は寝たきりで栄養も摂れない。昔はそれを寿命と言ったのだろう。
でも医学が進歩し、そんな状態でも心臓が動いてさえいれば延命することができる。
姑を入院させた時私は、延命措置はしなくていいと医師に告げた。そしてそう言った直後すぐにその言葉を取り消した。
それは、そう思っているのは私であり、姑からそうしてくれと言われたことは無いからだ。しかも私は嫁の立場。勝手にそんなことを言ったら鬼嫁どころか大問題である。案の定姑の二人の息子に聞いてみたら、命のある限り出来るだけのことはしてあげたいと言う。

12月中に胃瘻造設をすることになり検査をするために医療センターで診察を受けた。一週間後に入院し手術という手はずだったのだが、その直前に発熱し取りやめになり、結局今年の内にはどうにもならない。絶食、点滴だけでただ生きている。そうまでして生きなきゃいけないのかとも思う。でも、だからと言ってどうしたらいいのか。

本人の意志が尊重されるのであれば私は延命を望まないので、自分が認知症になる前に子供たちにそれを伝えておこうと思う。
でも、ヘルパーをしている先輩から昔聞いた話だけど、職業柄先輩が自分の父親に「もし万が一そうなった時どうするか」聞いたそうだ。父親は「俺は延命措置はせん!救急車も呼ばなくていい!」と答えたそうだ。
そしていざその日が来た。胸が苦しいとうずくまる父親に先輩が「父さん!救急車呼ばなくていいんだよね!」と耳元で叫ぶと父親は「痛い、早く救急車を呼んでくれ!」と言ったそうだ。先輩はその話をして、結局人間なんて実際にそうなった時でないとわからないものだと苦笑していた。
平成最後の師走である。

怪奇とロマンの…

2018-12-20 23:34:03 | 日記
先日、友人が怪奇とロマンの…と銘打った朗読劇に出演するというので行ってきた。
その中の作品に泉鏡花の「高野聖」と谷崎潤一郎の「刺青」もあった。

これは読んだことがある。読んだのは確か高校生の頃だったように思う。
例によって内容はほとんど忘れていたが、どちらも好きな作風だと記憶していた。
ところが今回の劇で演じられた内容を見て驚いた。
どちらも高校生の私が読んで感じ入るにはちょっと内容が妖艶で、本当に当時それを理解していたのか疑問だった。
もしかしたら朗読劇に仕上げるとき、そこを強調して大人向けに脚色したのかなと思って実際本を読んでみたらそんなことはなく、それに時代背景もあり文体も読みにくい。

本当に高校生の時これを読み面白いと思ったのか?今考えると不思議だが、きっと背伸びしたい年頃にはそれなりに理解できていたのだろう。
そういえば以前こんなことがあった。
小学生くらいの時、「ビルマの竪琴」(竹山道雄)を読んで号泣するくらい感動した。その感動をもう一度味わいたくて大人になってもう一度読んでみた。ところがである。おかしなことに感動が無いのだ。ふ~ん…みたいな。あんなに涙した話なのに。

多分、何であっても物事には臨界期みたいに、その能力を学習できる適切な時期があり、それを逃すといくら努力しても限界があるという、そんなものがあるのだろう。

若いときに読んだ本は年を取ってから読むと、その時とは違った内容を読み取ることが出来たり、また新しい発見があり、それも楽しいかもしれない。

妄想に恥じ入る

2018-12-12 11:51:09 | 日記
多くの人から祝福され次男の結婚式が行われた。

列席できなかった人からの祝電が披露され、司会の人が
「最後に新郎のご友人からのお手紙をここで読ませていただきます」
と言うので、私はてっきり高校時代の友人がどうしても都合がつかず参加できないと残念がっていたというのでその彼からかなと思っていた。
ところがその手紙には「知り会った時から、いろんなことを教えてくれたり親切にしてもらった」という内容が綴られ、どうも文面から女性のようなので、誰?と思った。
そして、「その時からずっと支えてもらった」みたいな話になると私の妄想はとんでもなく横に逸れ、えっ!?もしかして〇ちゃん(新婦さん)と付き合い始めた頃、〇ちゃんの友達もよく一緒に遊びに行った話してたからその友達の女の子から?でもそうだとしてもこんなお手紙まずいんじゃないのか?などと妄想が暴走し始めた。

でも後半の「これからもずっと、おじいちゃん、おばあちゃんになっても…」という文章を聞いて我に返った私。
「新婦の〇さんからのお手紙でした」
という司会の人の言葉にほんとに恥じ入りましたよ。

こんな妄想したの私だけかなと家族に聞いてみたら、夫と長男は最初から新婦からの手紙だと気づいていたと言う。
でも当の本人である次男が「あれ?俺そんなに親切にした友だちいたっけ?誰だろう?」って思ったと言うので
「サプライズだったんだ。やっぱりそうだよね、誰だ?って思うよね」
と同意を求める私に夫が一言。
「何にもやましいことが無く心が清らかな人は素直に受け取れるものだ。やましい人間だからだ」