地元の新聞には毎日のように「クマ」の出没の記事が載っている。
市街地に近い高校のグランド近くを歩いていたとか、郊外の公園で出没情報が複数寄せられたため当分閉鎖することになったとか。
先日伐採作業をしていた60代男性が腕を噛まれたというニュースがあり、それが放課後デイに来ているH君の家の近くなので「気を付けてね」という話をしていた。すると迎えに来たH君のお母さん、「あぁ、クマね。あの辺はクマなんてしょっちゅう見かけるから、誰もいちいち通報なんかしないのよね。めんどくさいから。今回はおじいさんがかじられたからニュースになったけどね」とのことだった。
過去に関東の奥多摩地域で研究されたというデータでは、遭遇後にクマが人に向かってきたのは58例中3件だけ、実際に被害にあったのは1件とのこと。クマも人もお互いのため遭遇しないことが何よりだ。
二年前になるが、クマに襲われて亡くなった夫のことを語る妻の話が印象的でよく覚えている。
「山のおかげで現在がある。クマばかり悪いと言われぬ」その人はそう語った。
県境に近い開墾地区で生まれ育って、貧乏で貧乏で結婚式も挙げずじまいだった。コメや野菜も土地の条件が悪いから二束三文。減反して畜産を始め、高く売れたときもあったが、輸入物が入ってくるようになってからは安くなってしまいそれでも子供たちを育てなければならない。そんなとき春のタケノコ、山菜、秋のキノコが現金収入だった。山のおかげで現在がある。山には感謝している。クマだって命貰って生きなければならない、真剣だ。こっちも真剣だけど。「クマもじいさんとばったり会ってびっくりしたんだべ。かじるかひっかくかしかできねえ生き物だもの。私は山さ入るときクマさんおはよー、今日も仲よくしようなーって叫んだものだ。じいさんにも大声出すんだどって言ってたんだけど一人の時はどうしてだかな。元来静かな人だったからな。3分でも5分でも違ってればクマに会わねがったんでねえがな。そう考えれば運命だと思うしかねえ」
クマも人間も真剣だ。
宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を彷彿させる話だった。
市街地に近い高校のグランド近くを歩いていたとか、郊外の公園で出没情報が複数寄せられたため当分閉鎖することになったとか。
先日伐採作業をしていた60代男性が腕を噛まれたというニュースがあり、それが放課後デイに来ているH君の家の近くなので「気を付けてね」という話をしていた。すると迎えに来たH君のお母さん、「あぁ、クマね。あの辺はクマなんてしょっちゅう見かけるから、誰もいちいち通報なんかしないのよね。めんどくさいから。今回はおじいさんがかじられたからニュースになったけどね」とのことだった。
過去に関東の奥多摩地域で研究されたというデータでは、遭遇後にクマが人に向かってきたのは58例中3件だけ、実際に被害にあったのは1件とのこと。クマも人もお互いのため遭遇しないことが何よりだ。
二年前になるが、クマに襲われて亡くなった夫のことを語る妻の話が印象的でよく覚えている。
「山のおかげで現在がある。クマばかり悪いと言われぬ」その人はそう語った。
県境に近い開墾地区で生まれ育って、貧乏で貧乏で結婚式も挙げずじまいだった。コメや野菜も土地の条件が悪いから二束三文。減反して畜産を始め、高く売れたときもあったが、輸入物が入ってくるようになってからは安くなってしまいそれでも子供たちを育てなければならない。そんなとき春のタケノコ、山菜、秋のキノコが現金収入だった。山のおかげで現在がある。山には感謝している。クマだって命貰って生きなければならない、真剣だ。こっちも真剣だけど。「クマもじいさんとばったり会ってびっくりしたんだべ。かじるかひっかくかしかできねえ生き物だもの。私は山さ入るときクマさんおはよー、今日も仲よくしようなーって叫んだものだ。じいさんにも大声出すんだどって言ってたんだけど一人の時はどうしてだかな。元来静かな人だったからな。3分でも5分でも違ってればクマに会わねがったんでねえがな。そう考えれば運命だと思うしかねえ」
クマも人間も真剣だ。
宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を彷彿させる話だった。