日々是好日 in Canada

写真と日記で綴る、日々のこと。

2009-12-31 | 日記-ダマスカス
今日は31日。
年の瀬の慌しさもひと段落、皆さん大晦日の食卓を囲んで、除夜の鐘を待っている頃でしょうか。

今年の初め頃の日記で、時間に追われて過ごした2008年に少し悔いを残し、2009年はいったいどんな年になるんだろう・・・と書いていたわたし。この日記で今年を振り返ってみて、あぁあの頃は、今年がこういう年になるとは、ぜんぜん想像もしていなかったなぁ、と遥か昔のことのように遠く遠く感じます。

夫とふたりでモントリオールを旅立ってから、衝撃を受けたインド、感動と癒しのラダック、そしてまだ書いてませんが、喧騒のカイロ、圧倒されたギザのピラミッド、どこまでも美しい紅海、岩と人に感動したぺトラ遺跡。そして辿り着いたダマスカスでは、新しい文化、人、食べ物に触れ、アラビア語を勉強し始めました。

今年の漢字は「新」という記事をみて、あぁこの漢字、わたしの2009年にもぴったりだ!と真っ先に思いました。

今年は年越しそばもおもちもないけれど、ダマスカスの星空を眺めつつ、これからやってくる2010年を楽しみに、夫とふたりで2009年に感謝の気持ちを込めてビールで乾杯しようと思います!


皆さま、今年もこの日記を読んでくださってありがとうございました。
2010年、皆さまにとって幸せと笑顔の溢れる年になりますように。

よいお年を!



【ラダック9】ゴンパへ行く

2009-12-24 | 【旅行記】ラダック2009
ラダックでの滞在がとても楽しかった理由は、チベット料理もヒマラヤの大自然もトレッキングも異文化体験もたくさんあるけれど、それともうひとつ、「ルーツ」というのもあったんだなと、今になって思います。敬虔な仏教徒というわけでもなく、お正月には地元の神社に行っておみくじをひいて、試験前には神様仏様全員にお願いして、お盆やお彼岸にはお墓参りに行って、ブッダについては手塚治の本から知っているくらいで、旅のお供には親から貰ったお守りを持って行ったりして。



それでも、遠いヒマラヤの山奥の言葉も文化も違うラダックで、日焼けしたラダック人の笑顔に何か同じルーツの匂いを嗅ぎ取り、チベット仏教のお寺であるゴンパを訪れて仏像を見るたび無償に懐かしく、今までのカナダでの日々と、そしてこれからの中東での日々、そのちょうど途中でここに来て感じる懐かしさというのは格別であり、あぁ私はアジア人だ、と胸に何かじ~んとくるのでした。
そうそう、私が地元で買ったセーターを着て、チベット人手作りの毛糸の帽子をかぶって道を歩いていたら、欧米人旅行者に「ジュレー」と挨拶されたことも、一度や二度ではありませんでした!



スンド村で言葉の通じないおばあちゃんとご飯を一緒に食べながら、壁に掛けてあった保険屋さんからもらったっぽい仏教カレンダーに、ヒンズー語ラダック語中国語と並んで小さく書いてあった日本語。
日本人のお坊さんが建てたという、レーの丘の上にあるゴンパ。
山道で迷わないように、とトレッキング中に何度も見かけたステューパを見ては、日本の山の登山口や頂上にひっそりとおかれた小さな祠やお地蔵さんを思い出しました。



ゴンパは大抵小高い所にあり、山々に囲まれた村を見守るように建っています。リキールという村に行った時、朝早めに起きてバックパックを家の人に預かってもらい、歩いてゴンパまで行ってみることにしました。

一番上の写真が、そのときの写真。夫の遥か後ろの方に見える、小高い所の白っぽい建物がゴンパです。

歩き始めてみると思ったより遠く、道路沿いを何度もうねるようにして登っていきます。ヒマラヤの日差しは強く、トレッキングも始めの頃だったので一歩一歩が結構きつい。まだまだ遥か遠くに見えるゴンパを見て、こりゃ時間かかるな・・・と思っていたら、後ろのほうから乗用車が走ってきました。インドの車はカーブでも何でもスピードダウンは絶対しない!と学習済みだったので、危なくないように夫とふたりで道路わきによけて立っていたら、車が停まって窓からひょいとお坊さんが顔を出し、「ゴンパに行くなら乗ってく?」と流暢な英語!

ありがたく車に乗せてもらい、そこから車でも辿り着くのに20分はかかりました!もうひとり乗っていた年配のお坊さんは私たちと同じく「途中でひろった」んだそうで、運転手のお坊さんはリキールゴンパでお坊さん見習いたちに英語とラダック語を教えていて、他のゴンパから出張中なんだそうです。



運転手のお坊さんの名前はロブサンさん。お坊さんにも、修行中に何度もレベルアップというのがあるんだそうで、その度に新しい名前をもらうんだそうです。ロブサンさん曰く「名前というのは大切だね。今のロブサンという名前は『Good Heart』という意味で、毎日名前を呼ばれるたびに思い出すんだ、良い心でいようって。イライラしたような顔してると、先輩のお坊さんが名前だけ呼ぶんだよ。そうすると、あ、そうだった、って思い出す。」
そう言って笑うロブサンさんの笑顔は、ほんとうに人の良い優しい瞳をしていました。

まだまだ新米だった頃につけられた名前で、すごく嫌だったのは「我慢」という名前。怒ったり焦ったりするとお坊さん仲間が皆でからかって「我慢!我慢!」と名前を何度も呼んで、もう~まいった!と笑っていました。でもやっぱり同じく、毎日名前を呼ばれるたびに「我慢は大切」と思い出すから、あの時は僕に必要な名前だったんだ、とも言っていました。

またしても長くなってしまったので、ラダック話、次の日記に続きます・・・。




案内してくれたお坊さん


大きなプレイヤーウィールがゴンパに入る前にあって、必ずここで時計回りに回して鐘を鳴らしてから建物に入ります。


そしてこれが、3階建ての大きなゴンパの屋上からの眺め!聞いてみたら、少なくとも300人以上のお坊さんがここに住んでいるらしいです。

クリスマス・イン・ダマスカス!

2009-12-21 | 日記-ダマスカス
雪景色のモントリオールでも、そして日本でも、きっとどこもクリスマスのイルミネーションで街は彩られ、クリスマスプレゼント探しに忙しい人々で賑わっているのだろうと思います。

シリアではつい先日イスラムの暦による新年を迎えたし、クリスマスはあんまり期待していなかったんですけれども。ここダマスカスでもキリスト教の人たちがもちろんいるわけで、街のあちらこちらでクリスマスを見かけるんです!



こうしてさりげなく、普通のありふれた街並みの中でサンタがひょこん、とぶら下がっていたりするのを見つけると、思わず笑みがこぼれます!

私たちが住んでいるところも後で日記で紹介しようと思いますが、シリア人家族の住む典型的なアラブ系の家で、1階に家族が住んで私たちは2階を借りています。そこの家族はキリスト系のシリア人。先週、中庭に素敵なクリスマスツリーを飾りました。



ダマスカスには城壁に囲まれた旧市街があって、その中にもキリスト教地区というのがあり、教会がたくさんあります。たまにモスクと教会が隣り合っていたりなんかもして。これについてもまたの機会に触れたいと思います。

北米や日本ほど、クリスマス一色!というわけにはいきませんが、街を歩いていて控えめなクリスマスツリーをみかけたり、窓から洩れる明かりとともに小さなサンタが見えたり。
壁一面を覆うほどたくさんのクリスマスカードを売っているチェーン店も、クリスマスギフト商戦に燃えるお店も見あたらないけれど、こんな静かで、でもクリスマスの温かさやワクワク感も小さいながらもそこにあって・・・という、これもまた、初めて経験する異文化クリスマス。



シリアで一足早く新年を迎えた17日、1階に住む家族はキリスト系だけど祝うのかな?と聞いてみたら、「せっかくのお休みなので、もちろん休むし、美味しいものを食べる!」とのことでした。
そして一方、アラビア語クラスの先生はイスラムの女性。でも、にこっと笑って「でもクリスマスは美味しいケーキが増えるお店があるからね。食べるかどうかは内緒だけど。でもチョコレート、大好き」と笑っていました!

エジプトで投函した絵葉書が、1ヶ月くらい経ってやっと家族や友人たちのところに届いたという過去があったので、今年はシリアからはプレゼントは送らないことにしたんです。でも夫とふたりで、カードは出したいよね、しかもアラビア語で書かれたクリスマスカードがあったら面白いよね!と2人で探し回ったんですけれど、残念ながらやっと見つけた数種類のクリスマスカードは英語で、しかも10年くらい前にヨーロッパから輸入したんじゃないかというくらい、埃をかぶって色褪せて、あきらかに古い!
散々探した後に、1階のお母さんに聞いてみたら、シリアではカードは出さない、との返答が。じゃ、遠くに住む親戚とかにはどうやって祝ったり挨拶したりするの?と聞いてみたら、「電話。」だそうデス。





クリスマス in ダマスカスレポートでした!


【ラダック8】魔法の言葉

2009-12-17 | 【旅行記】ラダック2009
ラダックで話されているのはラダック語。インドでは英語が広く普及していて旅行者にとっては便利ですけれど、ラダックは一番大きな町であるレー以外は英語はそんなに通じませんでした。なので、トレッキング中はフレーズ集のコピーをいつもポケットに入れていました。

レーでの滞在を含めると全部で6つの家に泊まらせて頂いたのですが、そのうち英語でコミュニケーションを取れたのはふたつのみ。レーのゲストハウスをしている家族と、前の日記で紹介したへミスシュクパチュのディーチェンです。
一番大変だったのは、予定外に急に泊まることになったスンド村の家。思った以上にトレイルが険しく、その日計画していた村に日没までに辿り着けそうもなく、テント泊はイヤだな~・・・と思っていたところに現れた、川沿いの小さな村。マニウォールやステューパを通り過ぎ、川から少し登ったところに畑があり、その横に大きなラダックの家があって、外のかまどで麦を煎っていたおばあちゃんが私たちを見、そして沈みかけの太陽を見て、ジェスチャーと「スリープ、スリープ!」という片言の英語で私たちを家に迎え入れてくれたのでした。

こちらがそのおばあちゃん!



次の日出発するときに、写真を撮ってもいいかどうか聞いたら、なにやらラダック語で言いながら私の帽子を奪ってかぶり(笑)、そして一番お気に入りなんだと思われる鍋を膝の上に置いて、ポーズをとってくれました。ちょっと薄暗くてわかりにくいですが、ここも伝統的ラダックキッチン。後ろにはずら~っと素敵な鍋がたくさん並んでいました。



この写真はこの家の3階にある中庭っぽいところです。家の真ん中がこのように天井がなく、この中庭を取り囲むように部屋があります。
このすぐ横にある部屋を貸してくれて、南側の部屋だったので壁2面分が大きな窓になっていて、電気はなかったものの月明かりと星明かりに照らされた部屋には日本のようなゴザが敷いてあって布団がありました。


ラダックで旅行者がまず最初に覚える言葉は、「ジュレー」。
「ありがとう」という意味なんですけど、これだけではなく「おはよう」も「こんばんは」も、「おやすみ」「お願いします」「ようこそ」「さようなら」も、これら全てがこの一言で済むんです!
ディーチェンに、「ごめんなさいって何ていうの?」と英語で聞いてみたら、う~ん・・・としばらく考えた後、ラダック語に「sorry」という言葉はなくて、大抵は「ジュレー」を使う、と教えてくれました。
しかも、「thank you very much」って言いたい時は?と聞いてみたら、「ジュレージュレージュレー」って繰り返す、だそうです。(笑
これだけのことが、たった一言で済むなんて、なんて素敵な言葉、ジュレー!
便利であるのと同時に、言ってみれば、毎日の生活の中で何度も何度も「ありがとう」という言葉を言われるし使うわけで、それはとっても気持ちのいい言葉でした。

この言葉ひとつからも想像がつくように、ラダックの人たちはいつも笑顔。村を通るときはいつも、畑で農作業中の人たちがどんなに遠くても手を休めて「ジュレー!」と声をかけてくれて、「リキール村に行くのか?」という質問に「ハイ」とこたえると全員体いっぱい使って、あっちだよ、と教えてくれます。ジュレーとこっちが言うとジュレージュレーと嬉しそうに見送ってくれるのでした。
あぁ、これが、あのインドと同じ国だなんて。(笑

スンド村は、川も近くて水には困らないのですが、急峻な山に両側に迫っているせいか村は小さく、あとでディーチェンに聞いたら家が3つしかないとのことでした!確かに、家は泊まったところも含めて2軒しか見なかった・・・。
歯磨きも洗面も、家から川まで水を汲みに行かなくてはいけないのですが、この水が感動的な色、そして感動的な冷たさ。あぁこれが、ヒマラヤの雪解け水か!と思うと、冷たい水で顔を洗うのもまた楽しい経験だったりして。いや、その場では冷たいだのなんだのぎゃーぎゃー騒ぎながらなんですけどネ。

顔も洗って準備万端、さぁ今日も次の村へ、とブーツの紐を縛ってバックパックを背負い御礼を言うと、おばあちゃんが大きなパンと、きっと貴重なんであろうゆで卵をふたつ私たちの手に押し付けながら、何度も何度もジュレーを繰りかえして見送ってくれました。たったひとつの言葉から、「さようなら」も「いってらっしゃい」も「気をつけて」も、たくさん伝わってきたのでした。

【ラダック7】チベット仏教と朝ごはん

2009-12-14 | 【旅行記】ラダック2009
ラダックキッチンの続きを書く前に、ルティカさんからコメントをいただいたので、チョルテンなどのチベット仏教のものたちを少しご紹介したいと思います。と言っても、私も今回ラダックに行って初めて見たもの聞いたものなので、本当に少ししかわからないんですけどネ。

このチベットの、プレイヤーフラッグと呼ばれる色とりどりの小さな旗は、テレビや、はたまた街角なんかでもたまに見たことがある人も多いと思うんですけれど、この旗がついている小さなお寺のような建物はステューパ(チョルテンと呼ぶところもあるようです)といって、町にも村にもあちこちにたくさんありました。膝丈くらいの小さなものから、夫の背丈以上の大きなものまでいろいろあって、実は中には入れないんですよ!聞いたところによると、中にはブッダの教えのマントラが書かれた巻物が入っていて、未来にブッダの教えを引き継いでいくために建てられたものなんだそうです。

前回の写真を見ると想像しやすいと思いますが、村から村の間はヒマラヤの険しい山道で、そこにあるのは茶色い大地と青い空のみ。村々の間には、遥か昔からラダックの人々が歩いているルートがあり、そのルートをトレッキングして歩いたんですけれど、村の入り口や出口、それから山頂など要所要所に目印のようにステューパが建っていました。果てしなく広がる大地は360度茶色で荒々しく、ともすれば方向がわからなくなってしまいそうですけれど、ステューパのおかげで迷わずに歩けました。

同じように、マントラが刻まれた石がずらーっと並んだものもあります。マニウォールと言って、【ラダック5】の日記の一番最初の写真に写っているものがそうです。
このマニウォールもステューパと同じように村の入り口やルート上にあって、マニウォールの側を通る時には必ずその左側を通ることになっています。

このプレイヤーウィールも、テレビなんかで見たことある人も多いのではないかな?この写真のものはちょっと古いんですけど。



手にもってくるくる回す小さなものから、2mくらいの大きなものまでいろいろあります。中にはやっぱりマントラが書かれた巻紙が入っていて、この側を通るときには必ず時計回りに回します。そうすることでブッダの教えを読むことと同じくなり、それが祈りとなるんだそうです。
これらが村の中のみならずルート上にあって、ヒマラヤの厳しい自然の中を通る人々を見守っていました。

ラダックでは何と言うか、宗教が人々の日常の一部になっていて、とても興味深かったです。どう伝えたらいいのかうまく思いつかないんですけれど、堅苦しい響きのある「宗教」ではなくて、毎日ごはんを食べたり眠ったり、太陽が昇ったり月が欠けたりするのと同じように、ラダックの人々にとって当たり前のようにそこにあるもの、という感じでした。
朝まだ私たちが寝床でうとうとしている頃、カーテンの隙間から差し込む朝日の光とともに、玄関先をホウキで掃きながら祈りのハミングをするお父さんの声がかすかに聴こえてきたりします。別の村でも全く同じように、家の脇のかまどで早朝から麦を煎りながら、体を揺らしながら優しく祈りのハミングをしているおばあちゃん。
それは毎朝、とても心地よい響きでした。


書き始めると止まらなくなりますね!ゴンパと呼ばれるお寺もいくつか訪れたので、それについてはまた別の日記で。

さてさて、へミスシュクパチュでの朝ごはんはこちら。



固めのパンですけど、噛めば噛むほど味がじわじわと口に広がるようなパンでした。いたってシンプルですが結構腹持ちがよく、朝ごはんしっかり派の私は大満足のラダック朝食でした。ラダック特有のパンらしくて名前も聞いたんですけど、残念ながら忘れちゃいました。

そして一番右側にあるのが、村で手作りした羊乳のヨーグルト!このヨーグルトとラダックの杏ジャムを混ぜて食べたら、も~とっても美味しかったです。そして忘れちゃいけない、左側にある黄色くて丸っこいものはヤクのバター!これも村の手作りです。ヨーグルトもバターも、味が濃くてとっても美味しかった。



このバター、ラダックではとっても大切なエネルギー源。
ここで飲まれているのはチャイのみならず、バター茶というのもあるんです!



ディーチェンに聞いてみたら、普通のお茶とバターと少しの塩で作るんだそうです。気になる味のほうはというと、薄味のこってりスープという感じでしょうか。バター茶という名前を聞いただけで脂肪分とかコレステロールとか・・?と気になっちゃうくらいですけど、でも実際にヒマラヤでトレッキング中に飲むと、体が喜ぶんですよ!
畑仕事するときも、隣村まで歩く時も、バター茶を小さなポットに入れて持って行くんだそうです。ゴンパ(チベット仏教のお寺みたいなもの)ではおもてなしにバター茶を頂いたりしました。
その土地の環境、その土地の生活にあった飲み物や食べ物は、こうして大切に代々受け継がれていくんでしょうね。

【ラダック6】ラダックキッチン

2009-12-11 | 【旅行記】ラダック2009
ヒマラヤの村から村へとトレッキングしたとき、それぞれの村ではラダックの家に泊めてもらいました。今回はその中でも一番大家族だった、へミスシュクパチュ村の家をご紹介。

上の写真の、右手奥に見える緑色のところが、へミスシュクパチュ村。
こうしてヒマラヤの荒々しい茶色く剥き出しの大地を歩き続けて、小さな緑のかたまりを遥か遠くにみつけると、まるでオアシスを発見したかのようにほっとします。



写真のように、ラダックの家の造りは2~3階建てで四角い形をしています。屋上では杏が干されていたり、干草が積まれていたり。そして2階の真ん中は中庭のような広いテラスになっていて天井がなく、野菜を仕分けたりここでも作業をしているようです。はっきりとはわからなかったんですけど、おそらく太陽を最大限に利用するためかな?と夫とふたりで話していました。真ん中に天井がなく周りに部屋があり、窓も大きくとってあって太陽の光がたくさん入るようになっていました。写真の家のように、南側の2階の角の部屋は、壁2面分が大きく窓になっていて、太陽熱たっぷり!これでかなり部屋の中が温まるんですよね。ありがたい、太陽のちから。

そして特筆すべきはラダックキッチン!



なぜこんなに!?というほどの、鍋、鍋、そして鍋!
聞いてみたら、お祝い事などで大勢の食事を作るときに使うんですって。
チャイを淹れる銅製の素敵な古いポットなんかも隅っこに置いてあったりして、ラダックキッチンは見ていて飽きません!これは、どこの家庭のキッチンもこうでした。家の中でキッチンが一番広くて、壁2面分くらいにきれいに陳列された鍋やお皿やお椀、そして反対側には、薄いマットレスのようなものが壁沿いに並んでいて、小さい座布団が置いてあります。そして小さいテーブルが置いてあって、家族はここでご飯を食べたりチャイを飲んだりして寛ぎます。一昔前の懐かしい炊飯器とか保温ポットがまぎれていたり、そして野の花が飾られていたり。



こちらはディーチェンとディスキット。こちらの娘さんふたりと、写真には恥ずかしがって写らなかった小さい男の子がいました。そしてお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃん。ディーチェンが夕飯や朝ごはんを作ってくれたんですけど、他の家族の皆さんは、みんな畑にでて仕事してました。

夕飯のメニューは、ご飯と、アルーという炒めたじゃがいも、すまし汁に似た優しい味の野菜スープ、ほうれん草やカリフラワーが入った野菜の煮物(酸っぱ辛い味でした)、ダルという豆のカレー、そしてデザートにはリンゴと杏をカスタードで混ぜたものまでいただきました。



このトレッキング中、どこの家庭でも夕飯はいつも8時頃。朝から山歩きをしてきた身としてはいつも早めにお腹がすいて、でも夕飯は何時頃なのかをラダック語で何と聞けばいいのかわからず、毎日ひたすら夕飯を待ってました。
ここでも、ディーチェンに夕飯に呼ばれたのは8時半頃。美味しそうな匂いにうれしくなってキッチンへ入っていくと、家族がみあたらず、私たちだけでした。ディーチェンは少し英語を話せたので聞いてみると、全員畑に出ていて夕飯を食べるのはいつも9~10時とのこと!ほぼ一日中畑にいたのに!
収穫期で忙しいとはいえ、毎日夜9時すぎまで働くとは、まるで日本人じゃないですか!大変だねぇ~・・・と言うと、ディーチェンは「でも畑で、手伝いにきた近所の人たちとおしゃべりしながら畑仕事するのが皆好きなの。たまに、あまり遅いから外に出てみたら、チャン(どぶろくっぽいお酒)を飲みながら仕事中途半端にみんなで宴会してたこともあるし。」と笑っていました。確かに、最初は大変そうだなと思うんですけど、でもラダックの皆さんはいつもリラックスした笑顔で、苦労があまり滲み出ていないんです。日本の夜遅くまで働くビジネスマンたちのように、背中にストレスを背負っていないというか。
標高が高く厳しい環境の中、それでも健康的なラダック人のひみつは、よく働きよく笑う毎日からきているのかもしれません。

そして朝私たちが起きる頃には、みんなもう畑で働いていて、カーテンを開けて窓の下を見下ろすと、牛やヤク、羊たちに朝ごはんをあげているディスキットの姿。

長くなったので、朝食については次回の日記にて!


ダマスカス生活初日記

2009-12-08 | 日記-ダマスカス
旅行記を書くのも読むのもちょっと一休み。
いい加減にダマスカス日記を書き始めようと思います。

インドやカイロで慣れていたため、中東の街特有の喧騒にもはや驚くこともなく、アパートに落ち着くと同時に早速ダマスカス大学でアラビア語を勉強し始めました。
シリアに来てから知ったのですが、どうやらダマスカスはアラビア語を勉強するには最適で留学生に人気の街らしく、学生数はかなりのもの。クラスメートはほとんどがヨーロピアン。イギリス人が一番多くて、ほかにはオランダ人、デンマーク人、フランス人、そして韓国人やオーストラリア人と国際色豊か。20歳から70歳(!)と年齢層も豊かで、授業も毎日1時までの4時間だけだし、楽しくやっていけるだろうと思っていたのですが。
甘かった・・・。予想以上にキビシくて、毎日宿題も山ほどあり、おかげでゼロから始まった私のアラビア語、只今めきめき上達中。(と、願いたい。)

なので、今の私の生活は勉強中心になっていて、まだダマスカスでは観光らしきことをしていません。上の写真は、旧市街の一角、近所の写真です。
旧市街の中にはスークと呼ばれる市場(あるいは商店街と言ったほうがいいかな?)があって、地域ごとに食料品スークがあったり、布スークがあったり、金細工スークがあったり、スパイススークなんてのも。生活用品スークもあって、必要なものはほぼここで買い揃えました。



日本やカナダで、スーパーでの買い物にすっかり慣れている私にとっては、こういう買い物に慣れるまでちょっと時間がかかりました。
最初の頃は、日本の昔の商店街のようで懐かしくもあり、店から店へと買い物して歩くのが楽しくもあったんですけれども、毎回毎回、チーズはチーズ屋さんで、鶏肉は鶏肉屋さんで、鍋は鍋屋さんで、石鹸は石鹸屋さんで・・・とあちこち歩き回るのが結構大変に感じて、あぁスーパーで全部一度に買い物できたら・・・と思うこともあります。

野菜も果物も、いろいろなものがキロ単位で売られているので、買い物するのにも会話が一苦労。それを店ごとに繰り返さなくてはいけなくて、今日の夕飯は白米のみにしようかとちらっと思ったことも一度のみならず。
ありがたいことにそれぞれの商店の人たちはみんないい人で、カナダ人&日本人の夫婦という組み合わせも珍しいからか皆私たちのことをすぐ覚えてくれて、つたないアラビア語でもとっても喜んでくれて、商店街での買い物に慣れることができました。



ダマスカスでの美味しいもの達も発見中
これから少しずつ紹介していきたいと思います!



【ラダック5】アプリコットにはまる

2009-12-04 | 【旅行記】ラダック2009
ラダックには、あちこちに、本当にあちこちに杏の木がありました!
果物と言ったらあとはリンゴがあるくらい。私は青森生まれなので、もちろんリンゴの木はいつも身近にありましたけど、生の、しかも木になっている杏って見たことあったかなぁ?というくらい、杏の木のある風景というのはとっても新鮮でした。



ヒマラヤのこの標高と乾燥に負けない果物って、そんなにないんでしょうけれど、でも現地の人はこの杏からたっぷりビタミン補給をしているようです。杏は特にビタミンAが豊富なようで、中国では昔から薬として使われていたという杏。甘酸っぱいこの杏は、とっても美味しかった。

私たちが滞在した季節は秋で、ちょうどこれからやって来る長く厳しい冬に備えて、みんなせっせと冬支度に入っている頃でした。燃料用に牛糞は毎日干して山と積まれ、屋根の上には家畜用に干草をこんもりと積んでいく。
そしてもうひとつ、ラダックの家の屋根では、たくさんの杏がヤクの毛で編んだ絨毯の上で干されていました。



ラダック式家屋は、屋根の上がこうして平らになっていて、パワフルな太陽を上手く利用できるようになっています。
トレッキングの途中で出会ったラダック人のおじさんは、この干し杏をポケットから出して私たちにもくれました。干し杏は、疲労回復効果があると教えてくれました。昔からラダックでは、こうして杏パワーをポケットに山を歩き、あるいは馬やヤクを連れて、村から村へと食料や資源を運んでいたんですって。

日本やカナダでよく売られている種抜きの柔らかめの干し杏とは違って、かちかちに干された杏ですけれど、口の中に含んでしゃぶっていると少しずつ柔らかくなってきて、甘さが少しずつ広がっていきます。

そして、しゃぶり終わった杏の種は、これまた再度干されます!
こんなところにも、ラダックの素晴らしきリサイクル。
この種からとれるオイルは、乾燥肌にとても効くようです。今までも何度もしつこく書いてますが、ヒマラヤの乾燥は本当に想像以上なんですよ!!

ラダックで飲んだアプリコットジュース、ここでは生の杏ではなく干した杏を使ってジュースを作るんですって。そうすることで、保存料なしで長持ちするし、また甘さも一段と増したジュースができるんだそうです。これも美味しくて、毎日飲んでました。

もちろん手作りの杏ジャムも常備食。そしてやっぱりここはインドなんだな、と思い出させてくれる、杏ラッシーもありました。

おかげで杏に今はまっている私、ここダマスカスでも杏ジャムは朝食にかかせません!ラダックの濃い味の杏にはかないませんけどネ。


【ラダック4】ラダック式リサイクル生活

2009-12-03 | 【旅行記】ラダック2009
ラダックに滞在したのは、トレッキングの日々を含めても2週間だけでしたが、その短い間でもラダックの人々の穏やかな生活を垣間見る機会に恵まれてよかったなぁと思っています。
滞在していた家ではテレビもなく、電気も限られているので毎日停電が何度もあり、家の横の小川の水で洗濯をし、バケツの水で体を洗い、道路では牛の糞をよけながら歩き、空気の薄さでたまにくらくらする、そんなラダックでの生活。それでもラダックには、カナダや日本の都会にはない何かがあり、何と言うか、便利であることは必ずしも幸せな生活の条件にはならないんだな、と思い出させてくれるような、そんな生活がありました。

ラダックで見たこと感じたこと、これまたインド編のようにたくさん書きたいことがあって、まだまだ整理できていない状態なんですけれども、読みづらいかとは思いますが、思い出すままつらつら書いていこうと思います。


レーで滞在した家は家族でゲストハウスを経営していて、1階に家族が住み、2階の部屋を貸しているという家でした。中庭には野生のりんごの木があり、家の裏には杏の木、そして庭の奥には畑があって、人参やじゃがいも、ほうれん草などを育てていました。りんごは野生なのでゴルフボールほどの大きさしかないのですが、食べて食べてと家の人にすすめられ、さぞ酸っぱいんだろうな~・・と思いつつかじってみてびっくり。とっても甘くてジューシー!ここの畑で採れた人参も、生でかじるとまるでフルーツなんじゃないかと思うほど甘くて水分たっぷりなんです。標高もさることながら、ここでは一年のうち300日は晴天、というくらい雨も少なく、そして毎年長くて寒い冬が訪れます。厳しい環境の中で野菜も果物も種類はそんなにないけれど、でも地元で採れた野菜はみんな味が濃く、あぁそういえば昔はこういう味だったはず、と懐かしくなるような気持ちでした。

厳しい自然の中で限られた資源しかないという生活のため、ラダックの人々はリサイクルの達人でした。レーの町ではもちろん、トレッキングで訪れた小さな村々では、そうすることで自然と共に長い間生きてきていて、そして彼らにとってはそれは当たり前の日常なのでした。

最初にレーで目にして不思議だったのは、石塀の上に並んだ牛糞。まさか塀の上を牛が歩いたわけでもあるまいし?と不思議でした。トレッキングで訪れた村で泊めてもらった家では、家の横に、私の背丈ほどに山と積まれた牛の糞。また他の家では、外にあるかまどでご飯を炊いているその隣に、壁一面に牛糞が積まれていてぎょっとしたこともありました。ちなみに、幸いなことに、強い太陽の下で干されているので全く臭いません。この干した牛糞は、料理をする時のかまど用に、そして冬の間の暖房用にと、大切な燃料として使われていたのでした。

さらに、人間のモノだって、無駄にはしません!
レーのゲストハウスの家も含めて、それぞれの村で泊まった家はどこも、コンポストトイレでした。どんな感じかというと、木造のトイレの中には土が敷き詰められてあって、真ん中に穴があり、あとは小さな窓があるくらい。ちょっとレベルの高いトイレだと、穴の横に木片の踏み台が置いてあったりもします。部屋の脇にはかまどを使った後に出る灰と、それから土を混ぜたものがあり、用を足したあとにスコップでそのさらさらの灰&土ミックスを穴の中に2~3回落とすだけ。トイレの下はもう一部屋入るくらいの広いスペースがあって横から出入りできるようになっており、そこで熟成(?)された人間の生成物は、あとで畑の肥料として使われます。このトイレ、灰と土のおかげでしょうか、全く臭いません。
これは夫と私ふたりとも意見が一致したんですけど、何故か不思議と、このコンポストトイレで用を足した時の爽快感というのは格別でした。

ラダックの生活で嫌だったことをあげるとすれば、バケツの水で体を洗わなくてはいけなかったことです。お風呂文化で育った日本人として、たっぷりの熱いお湯にゆっくりとつかるのが、やっぱり一番気持ちいい。でも、ここはヒマラヤの山奥。水は貴重な資源であり、ヒマラヤの山が恵んでくれる水でラダックの人々は全ての生活を営まなくてはいけないのです。贅沢言っちゃいけませんね。ひとつ発見したことは、日本人の「お湯」の温度は高め!ということ。ラダックの人々は、私にとってはぬるま湯・・・いや、水?かろうじてお湯かもしれない?という辺りの温度の水で、へっちゃらのようでした!最初のうち、限りなく水に近いお湯を浴びるのはもう修行のようでしたけれども、ラダックの太陽はとっても強いので、太陽の日差しが一番強い時間帯めがけてささっと水浴びをし、その後すぐに太陽に暖めてもらう、という風にしてからはそんなに苦でもなくなっていきました。
スンドという、家が2~3軒しかない川沿いの村に泊まったとき、その家のおばあちゃんは食器を洗った水もたらいに取っておき、その水を家畜に与えていました。(洗剤は使っていません。)お皿や鍋からの食べかすが入った水は、ただの水より栄養があるから、ということでリサイクル。なるほど!
川の水で洗濯するのも、慣れてくるとそこまで大変にも感じません。毎晩繰り返される停電も、キャンドルを常備してあるから大丈夫。することが限られてくるので早寝早起きになったし、星の数は果てしないし、暗闇の中で夫婦で話すことも多くなったし(笑)。
いつの間にか便利なものに囲まれている今の私たちからは想像もつかないような大変な生活のようでいて、でも畑でおばあちゃんを手伝う楽しそうな娘さんたちの声を聞いたり、一日の終わりに空を埋め尽くす星を眺めたり、朝日の暖かさに驚いたりするときの言葉にできない感情というのは、先進国の「便利さ」からは得られないものであり、しあわせな生活って何だろうな・・と考えるのでした。