よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

清水港といえば・・・・・・

2018-02-09 05:31:09 | ウォーキング

 清水港の名物といえばお茶の香りと男伊達・・・・・・・

そうです、清水の次郎長一家ですね。大政、小政、それと森の石松など28人衆。過去何回も映画になりました。

中でも森の石松の「江戸っ子だってね。寿司食いねえ」は、今でも名せりふとして伝えられています。

その石松の親分の「清水次郎長の生家」を訪ねてきました。

  

次郎長生家までは、「次郎長通り」の看板がつけられています。

    

清水次郎長 (1820~1893)

本名は山本長五郎、駿河国有渡郡清水の美濃輪町(現在は静岡県静岡市清水区美濃輪町)に船頭の息子として生まれましたが、次男であった為、子供の居なかった母方の叔父にあたる

米穀商の甲田屋の主・山本次郎八の養子となりました。

少年時代より次郎八の家の長五郎ということから周りには次郎長のあだ名で呼ばれており、侠客の時代に清水次郎長として名をあげ、現代までその名が通っています。

明治維新後はお茶の輸出に目を付け、清水港を貿易港とすべく整備し横浜港との航路を築いたり、富士山南麗の開墾を行ったり、当時は珍しかった英語塾を開いたりと清水だけに収まらない

多くの功績を残しています。晩年は船宿『末廣』を開業し、港町の好々爺として地元の人々や子供たちに慕われていたとのことです

生家の中に入ると「次郎長28人衆」の名札が掲げられています。

    

  

次郎長というと渡世人というイメージですが、彼が48歳の時明治維新となりました。維新と同時に東征軍判事、伏谷如水から街道警備を命じられ、山岡鉄舟などとも交流し

新しい時代の清水について考え、清水港を国際港にするため奔走、渡世人を辞めて地域を支える大旦那として、富士の開拓、英語塾の開講、医院の開設、東海道敷設の協力、

文化的な施設や事業の企画実施を行いました。74歳で亡くなった時は、3千人を超える参列者がその死を悼みました。

  

次郎長生家から港橋に戻ります。ここからエスパルスドリームプラザの観覧車と富士山のコラボが楽しめます。

   

次郎長船宿「末廣」

この船宿は、次郎長の晩年、明治19年(1886)に清水波止場に開業しました。

  

中に入ると、吊るし雛でいっぱいです。雛の中には、次郎長のものもあります。


館内では、案内人の方から熱心に説明していただきました。

    

次郎長は、若いころ遊びすぎたこともあり、子供ができなくなりました。晩年は、大政を養子にしましたが、大政は次郎長よりも先に亡くなりました。

    

清水駅に戻りました。お昼はまだでしたので、FBの友達Nさんの情報で清水魚市場に行ってきました。

あいにく、水曜日は店休日で、お目当てのお店は休みです。近くの開いている店に入りました。

  

今日から東海道歩き再開のため、ちょっと奮発してマグロ丼を注文しました。

  

これにマグロ、黒はんぺんのから揚げがついていました。やはり本場のマグロです。おいしくいただきました。

このあと、東海道歩きに戻ります。