よっちゃんのおててつないで

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2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

西国街道を歩く(大山崎~京都・東寺)その1

2014-11-30 15:57:54 | 西国街道を歩く

11/23天王山登山から下山し、今日の西国街道歩きを開始します。

10:00JR山崎駅スタート。山崎駅の横には、「妙義庵(みょうきあん)」があります。室町時代に僧「春嶽」が開山したといわれています。千利休が建てたとされる茶室「待庵」は、当時の様子を示す二畳の茶室です。

利休の山崎屋敷から移築したものと言われています。 拝観は、1か月前から申し込まなくてはいけませんので中には入ることができませんでした。

  

街道に戻ります。しばらく歩くと右側に阪急大山崎駅があります。駅前には、ハイキング姿の方が見られます。天王山に行かれるのでしょうか?

名神高速ガード手前右側が「大山崎町役場」。小泉川を渡ると、「長岡京市」に入ります。長岡京市 人口約80000人。

  

「長岡京市」というと、「平安京」の前の「長岡京」をイメージしますが、継体12年(518)、継体天皇が筒城宮(京田辺市あたり)から、この地「弟国(おとくに)」に遷都されました。

この弟国も20年で終わり、都は、ヤマトの方に移りました。弟国が今の「乙訓」になったのでしょうか? 大山崎町、長岡京市、向日市が「乙訓」と呼ばれています。

長岡京市のマンホールは、タケノコ、竹をイメージしています。長岡京は、竹林が多く、「かぐや姫」伝説発祥の地とも言われています。

京都縦貫道の下が「調子八角」交差点です。最近できたのでしょうか、道幅が広く「これが西国道?」と思うぐらいです。

調子八角交差点は、西国街道と丹波街道の交差する地点です。

        

 

 調子八角交差点の所に「馬ノ池」「馬乗池」があります。

平安時代の終わり頃。関白のお供で四天王寺参りの途中、近衛府の役人下野(しもづけ)武正がこの池のほとりで馬からドサッと落ちた。あわてて馬にまたがり、素知らぬ顔をして大阪に向かった。

ところが、大阪から帰る途中、この池のほとりまで来ると、落馬を見ていた関白が、「ここだ。ここだ。武正のところだ」と言って冷やかした。
武正は「そうでございます」と即座に答え、ニヤリと笑った。武正は機転をきかして「関白殿は、ここが武正の所だとおっしゃった。わしの領地だ」といい、池の一帯をそっくり自らの領地にしたという。

池はこの話に因んで、馬から落ちて乗った所として「馬乗り池」、のちに「馬ノ池」と呼ばれるようになったといわれる。(長岡市観光協会HPより)

ここの馬の像は、友好都市、中国の寧波市から寄贈されたものです。

どうも「調子八角」という名が気になり、調べましたら、下野家は、聖徳太子の愛馬「調子号」の世話をしていたそうです。聖徳太子に気に入られ、「調子」と名乗るよう言われたそうです。

「八角」は、このあたりに「八角堂」があったのではないでしょうか?

  

先に進みます。調子1丁目に、国登録有形文化財に指定されている「中野家住宅」があります。

中野家住宅がある地域は、近郊の農村での商品経済の普及・発展に伴い、17世紀前半頃に茶屋町が形成された。中野家の居住開始時期は不明だが、街道沿いの茶屋として商いを行っていたと考えられている。

2010年9月に「国土の歴史的景観に寄与している」として、国登録有形文化財になった。

 同住宅には江戸末期に建てられた主屋と土蔵があり、1951年の主屋改修時に茶室が設けられた。主屋は間口の広い敷地形状に近郊農家の特徴を、格子の表構えや間取りには町家としての特徴を併せ持っているという。

この住宅は、今年(2014)9月、市に無償で寄贈されたそうです。

   

立命館中、高から斜め左に入り、片泓(かたふけ)交差点に出ます。このあたりが「神足(こうたり)」になります。ちょっと読みにくい地名が出てきますね。(笑)

与市兵衛の墓」があります。

与市兵衛(元赤穂藩士萱野三平の義父)が、三平を赤穂浪士の一員に入れるために娘を祇園に身売りした帰りに、ここで斧定九朗なる浪人に殺害されました。
そのことをいたんで、ここに供養塔として建てられたのが「与市兵衛の墓」だそうです。この周辺はかって「横山峠」と呼ばれ、

人形浄瑠璃や歌舞伎芝居の仮名手本忠臣蔵(五段目『山崎街道』の場)によって知られるゆかりの場だそうです。(案内板より)

そういえば、箕面で「萱野三平」の生家を見てきましたね。こんなことがあったとは、知りませんでした。

  

西国街道は、神足2丁目で左に折れます。「神足商店街」と書かれています。道路には、一面石畳が敷かれています。

今は、「神足ふれあい町家」になっていますが、国登録有形文化財の「旧石田家住宅」があります。

この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町家で町家独特の風情をもち、古い街道筋の面影を今に伝えています。規模が大きく、江戸時代末期の町家基準となるものとして平成12年12月、国の登録有形文化財となりました。

西国街道に東面して建つ切妻造で三面に庇を廻しています。表構えに格子と出格子を並べ、大屋根下の白壁に二か所の虫籠窓(むしこまど)を開いています。

玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙出しや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷などが残されています。

町家独特の風情を持つこの住宅は、神足村の旧家、岡本家一族の商家で、江戸時代には。「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたそうです。

長岡京市が平成15年、お茶の小売業をしていた「石田家」から購入し、神足ふれあい町家として整備したものです。(案内板より)

  

中に入ってみると、今は、食事もできるようになっています。今日(23日)は、仕出しの注文が入っているのでしょうか、皆さん忙しく働かれていました。

  

街道に戻ります。右側にはJR長岡京駅です。街灯には、「長岡京ガラシャ祭」の幟が立っています。

明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が、細川忠興に嫁いだ城が長岡京・勝龍寺城です。

  

 街道は、小畑川沿いに出ます。川沿いには、「西国街道」の看板があります。さらに進むと、「一文橋」があります。この橋を渡ると「向日市」になります。

一文橋は、室町時代に造られた有料の橋です。大雨のたびに流され、その架け替え費用のため、通行人から一文を取りはじめたのが橋名の由来と言われています。

橋の高欄には、一文銭がデザインされています。

  

向日市に入りました。向日市は、人口約54000人。向日市の歴史と文化は、原始古代にさかのぼって古く、その栄光は、延暦3年(西暦784年)から延暦13年(西暦794年)にかけての宮都「長岡京」の時代において

一段と多彩となり、政治・経済・文化の中心地として栄えました。

中世に入ると、各地に荘園が登場し、向日神社を共通の氏神として村相互の連帯を深めていき、江戸時代になると西国街道沿いに商店が建ち並び、乙訓郡内の商業の中心地として繁栄しました。

その後も、京都と大阪を結ぶ交通の要衝として発展し、明治22年には物集女、寺戸、森本、鶏冠井、上植野の各村と向日町が合併して向日町となり、昭和30年代後半からの人口急増期を経て

昭和47年10月1日、京都府内9番目の都市として市制を施行し、現在の向日市が誕生しました。(向日市HPより)

        

向日市上植野下川原地区に入りました。旧家が立ち並んでいます。

言い伝えによると、豊臣秀吉が小畑川の流域を西に移し、道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。この時出来た広い河川敷が後世、農地化、宅地化され、それが地名に残ったとされています。

  

先に進みます。地図を見てみると、街道の右側に「長岡宮跡」があります。

今から1200年以上も前、日本の都の中心がここ向日市にありました。

桓武天皇は、延暦3年(西暦784年)に平城京から乙訓郡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に都を遷しました。それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。

長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。

長岡京は、延暦13年(西暦794年)に平安京に遷都されるまでのわずか10年間でしたが、日本の歴史上、重要な時代を築いた都で、その政治・文化の中心が向日市にありました。(向日市HPより)

 向日市には、大極殿がありました。

    

   

だが、この長岡京は、桓武天皇の側近、藤原種継、天皇の弟、早良親王、皇后など近親者の死去、日照りによる飢饉、疫病の流行、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから

陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て、御霊を鎮める儀式を行うが、その直後の2度の大雨によって川が氾濫し大きな被害を被ったことから、和気清麻呂の建議もあって

延暦13年(794)、平安京に遷都された。

街道に戻ります。「石塔寺」は、桓武天皇の側近「藤原種継」が暗殺された所。また、土佐国から帰途についた紀貫之が京に入る前、休息をとった「島坂」もこの寺周辺です。

「五辻」には、道標」があります。その横には、「五辻の常夜灯」が立っています。幕末の慶応元年(1865)五月、柳谷観音へ参拝するみ講の一つである京都の千眼講によって建てられた石灯篭です。

   

五辻交差点の先には、「向日神社」。

平安時代の「延喜式神名張」(927年成立)の山城国乙訓郡の部分に「山城国乙訓郡向神社」と記されている格式の高い古社で、神社の伝承によると養老2年(718)に建てられたと伝えられています。

200m続く桜並木の参道を登ると、天保年間(1830~44)に整備された社殿が立ち並びます。本殿は、室町時代中期に建立された国指定重要文化財。明治神宮のモデルにもなったそうです。

祭神は、向日(むかし)神、火雷神(ほのいかずち)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神武天皇。

  

歩いていると、最近建てられたのでしょうか、道標があります。右 西国街道、中 あたご道、左 たんば道。

この道標の横には、京都府の文化財に指定されている「須田家住宅」があります。江戸時代初期の元和2年(1616)から明治30年代まで「松葉屋」の屋号で醤油の製造販売をしていた旧家です。

当主は、代々久兵衛を名乗り、向日町上之町の組頭などの町役人をつとめ、指導的な役割を担ってきました。バンコ(縁台)もあります。

江戸初期には、松葉屋や旅籠の「富永屋」などたくさんの商家が立ち並んでいたそうです。今でも歩いていると旧家が目につきます。

街道は、斜め右に折れ、寺戸町梅ノ木へ出ます。

  

  

梅ノ木は、昔、この一帯が有名な梅林であったため、この地名がつきました。地元に伝わるご詠歌にも「ありがたや だいにち(大日如来)さまの おすがたが うめのこかげに おわします」とあります。

4本の道標があります。「灰方地蔵」「ほうぼだい院観世音」「桓武天皇陵」「官幣中社大原野神社」・・・・・・

  

JR向日町駅に着きました。駅前には、「かぐや姫時計」があります。

街道は、JR東海道本線沿いに続きます。建材屋さんの所から地下道を通ります。地下道を上がったら京都市南区です。ゴールの東寺まで約6km。

何とか、3時までには、ゴールできそうです。

     

その2完結篇に続く