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ジョルジョーネ

2010-11-15 | 作家の記録

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ジョルジョーネ1478年頃 - 1510年 ジョルジョーネ イタリアの画家


ジョルジョーネ

( 伊: Giorgione1477年/1478年頃 - 1510年 )

盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したイタリア人画家。
ジョルジオーネとも表記される。

本名は ジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ (Giorgio Barbarelli da Castelfranco)
形容しがたい詩的な作風の画家として知られているが、確実にジョルジョーネの絵画であると見なされている作品はわずかに6点しか現存していないともいわれている。その人物像と作品の記録がほとんど残っておらず、ジョルジョーネは西洋絵画の歴史のなかでももっとも謎に満ちた画家の一人となっている。

 

ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』の記述以外、ジョルジョーネの生涯はほとんど伝わっていない。『画家・彫刻家・建築家列伝』によれば、ジョルジョーネはヴェネツィアから40kmほど内陸部にあるカステルフランコ・ヴェーネト出身とされている。ジョルジョーネが何歳ごろにヴェネツィアに移住したのかは分からないが、その作風から17世紀のイタリア人バロック画家、伝記作家カルロ・リドルフィ (en:Carlo Ridolfi) が推測しているように、ジョヴァンニ・ベリーニのもとで修行したと考えられている。そしてその後ジョルジョーネは一生をヴェネツィアで過ごした。

当時の記録によれば、ジョルジョーネの才能は若年の頃から注目されていた。1500年に、ヴァザーリの記述が正しいとすると、わずか23歳のときにヴェネツィア元首 (Doge) アゴスティーノ・バルバリーゴと傭兵隊長コンサルヴォ・フェランテの肖像画を描く画家に選ばれている。1504年には、別の傭兵隊長マッテーオ・コスタンツォを称えるための祭壇画の制作を、生まれ故郷のカステルフランコの聖堂から依頼されている。1507年にヴェネツィア共和国の十人委員会からの注文でドゥカーレ宮殿大ホールの装飾絵画を手がけたとされているが、どういった主題の絵画だったのかは伝わっていない。1507年から1508年にかけて、改築予定だったフォンダコ・デイ・テデスキ(ドイツ商人館 (en:Fondaco dei Tedeschi))の外装を飾るフレスコ画の制作を、他の芸術家ともども請け負っている。ジョルジョーネには以前にもソランツォ邸、グリマーニ邸などヴェネツィアの大邸宅で、同様なフレスコ画を手がけた経験があった。しかしながらこれらの絵画で現存しているものはほとんどない。

 

 ラウラ

『 ラウラ 』  (1506年)
美術史美術館, ウィーン

 ヴァザーリの著述によると、1500年にレオナルド・ダ・ヴィンチがヴェネツィアを訪れ、レオナルドの作品に大きな影響を受けていたジョルジョーネと出会ったとしている。ジョルジョーネは非常に魅力的な人物で、その作品には訴求力と創意あふれる美しさがあり、詩的な哀愁がただよう作風であるという、当時のヴェネツィア人による記録が存在する。その記録では、20年以上前にレオナルドがトスカーナ絵画界に新風を吹き込んだのと同様に、ジョルジョーネのことをヴェネツィア絵画に大きな影響を及ぼし、高めた画家として評価している。それまでの古典的で硬直した表現から絵画を解き放ち、より闊達で熟練した芸術へと導いた画家であるとした。

 

ティツィアーノ【作家の記録】 ティツィアーノ

 ジョルジョーネは ティツィアーノ と深い関わりがある。『画家・彫刻家・建築家列伝』 にはジョルジョーネはティツィアーノの師だったという記述があるが、リドルフィは両者ともベリーニのもとで住み込みで修行していた兄弟弟子であるとしている。フォンダコ・デイ・テデスキのフレスコ画をともに手がけ、ジョルジョーネが制作半ばで早世した後に、それらの絵画をティツィアーノが完成させたといわれているが、真偽は未だに大きな議論となっている。

ジョルジョーネは祭壇画や肖像画にも新境地をもたらしている。それまでの絵画に見られた宗教的な意味も古典的な意味も作品に持たせず、音楽的ともいえる叙情的で空想的な表現と色彩で対象を描いた。その天与の才能で同時期の芸術家たちに圧倒的なまでの影響を与え、当時ティツィアーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、パルマ・イル・ヴェッキオ、ジョヴァンニ・カリアーニ (en:Giovanni Cariani)、ジュリオ・カンパニョーラ (en:Giulio Campagnola)、ジョルジョーネの師であったとされるジョヴァンニ・ベリーニらが所属していたヴェネツィア派の第一人者となった。そのほか、ジョルジョーネの作風は、モルト・ダ・フェルトレ (en:Morto da Feltre)、ドメニコ・カプリオーロ、ドメニコ・マンチーニといった画家たちにも大きな影響を与えている。

 

ジョルジョーネはおそらく腺ペストに感染し、151010月に死去した。151010月という日付は、イザベラ・デステがヴェネツィアの男友達に送った 「ジョルジョーネの絵画を購入して欲しい」 という内容の書簡に記載されており、この書簡にはすでにジョルジョーネが死去していることも書かれている。そして一ヵ月後にデステに送られた返信には、ジョルジョーネの作品はいくら金を積んでも入手できなかったことが記されている。

ジョルジョーネの名声と作品は後世の人々をも魅了し続けている。しかし、当時ジョルジョーネの影響を受け、よく似た作風で描かれたほかの画家たちの絵画と、ジョルジョーネ自身が描いた真作とを正確に見分けるのは非常に困難である。100年ほど前にジョルジョーネ風絵画のほぼ全てを精査し、真作の評価を行った「パン・ジョルジョーニズム "Pan Giorgionismus" 」[2]の成果は現在では支持されていないが、現代の美術史家のなかには、現存する作品で間違いなくジョルジョーネの真作である絵画はわずかに6点だけであるとする研究者もいる。

 

生誕地であるカステルフランコ・ヴェーネトのサン・リベラーレ聖堂には1503年ごろに描かれた、玉座の聖母子を中心にして右側に聖リベラーレ、左側に聖フランチェスコを配した、聖会話形式の『カステルフランコ祭壇画(玉座の聖母子と聖リベラーレ、聖フランチェスコ)』がある。この作品の背景にはヴェネツィア絵画の革新ともいえる風景画が描かれており、この技法は師のベリーニを始め多くの画家たちに即座に受け入れられた[3] 。ジョルジョーネは明暗法であるキアロスクーロをより洗練した、微妙な陰影で遠近感を表現するスフマートの技法をレオナルド・ダ・ヴィンチと同時期に使用した画家である。ジョルジョ・ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』には、ジョルジョーネのスフマートはレオナルド・ダ・ヴィンチの作品を真似たものだという記述がある。しかし、ヴァザーリはヴェネツィアの画家を軽視しており、『画家・彫刻家・建築家列伝』には芸術のあらゆる発展革新はフィレンツェの芸術家の功績であるとする「偏見」が見受けられるため、この記述が正確かどうかはわからない。レオナルドの作品に見られる精緻な色階調は、おそらく装飾写本の技法である微細な点描技術をもとにしており、レオナルドによって最初に油彩画に持ち込まれたものともいわれるが、このようなスフマートの技法は、ジョルジョーネの作品に今なお賞賛される魅惑的な光線描写を与えることとなった。

 

 

 

眠れるヴィーナス (1510年頃)

アルテ・マイスター絵画館(ドレスデン)

ジョルジョーネの作品中もっとも重要で代表作といわれるのは、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館が所蔵する『眠れるヴィーナス』である。極めて優美で音楽的ともいえる曲線の画面構成で静謐な官能性を表現しており、女神が横たわる白い布と背景に描かれた清新な風景が調和して、女神の神性を描き出している。ただ一人の裸婦を屋外に描いたこの作品は革新的な絵画と考えられており、屋外の描写は眠り込んでいる女神にさらなる神秘性を付与している。

眠れるヴィーナス【Tiziano】 眠れるヴィーナス 1510年頃

 

この絵画を最初にジョルジョーネの作品であるとしたのは19世紀のイタリア人美術史家、政治家ジョヴァンニ・モレッリ (en:Giovanni Morelli) である。『眠れるヴィーナス』はヴェネツィアのマルチェロ邸に飾られていたことがあり、ヴェネツィア貴族マルカントニオ・ミキエルが残したヴェネツィアを始め北イタリアの美術品の貴重な記録『美術品消息』(1521年 - 1543年) にも記載があり、17世紀にジョルジョーネの伝記を書いたカルロ・リドルフィもこの作品を目にしている。ミキエルの『美術品消息』には『眠れるヴィーナス』は未完成の作品で、さらに背景にはキューピッドが描かれていたが、キューピッドは後に修復されたときに消され、未完成のまま残されたこの絵画をジョルジョーネの死後にティツィアーノが完成させたという記録がある。『眠れるヴィーナス』 はティツィアーノの 『ウルビーノのヴィーナス』 や、他のヴェネツィア派の画家たちの原点ともいえる絵画だが、ジョルジョーネのこの作品を上回る評価を得た画家は現れなかった。

 

 

 
Judith ユディト 』 (1504年頃)
 エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)理想化された女性という 『眠れるヴィーナス』 と同様の構想で描かれたのが、エルミタージュ美術館所蔵の 『ユディト』 である。哀愁を帯びた作風で描かれたこの大きな絵画には、ジョルジョーネの特質である優れた色彩感覚と叙情的な風景描写が表現され、生と死が表裏一体のものであることを描き出してる。

  Judith 

 

祭壇画とフレスコ画以外で現存しているジョルジョーネの作品は、富裕層のヴェネツィア人邸宅に飾るのに手ごろなサイズの絵画ばかりで長辺60cm程度のものが多い。15世紀後半のイタリアではこのような小さな絵画を扱う市場が隆盛し、同時期のネーデルラントよりも機能していた。ジョルジョーネはこういった絵画市場の発展に寄与した最初の有力イタリア人画家だったが、ジョルジョーネの死後まもなく、社会の隆盛と巨大な邸宅を持つ王侯貴族からの依頼などの理由で絵画のサイズは大きくなっていった。

 

 ヴェネツィアのアカデミア美術館が所蔵する、『テンペスタ』(日本では日本語訳の『嵐』とも呼ばれる)は西洋美術史上最初の風景画ともいわれている。この作品が何を意図して描かれたものなのかは不明だが、ジョルジョーネが持つ優れた技術を明確に見てとることができる。川の両岸に兵士と乳児に母乳を与える母親が配置され、壊れた建物と近づく嵐が描かれている。こういった多くの象徴が表現された『テンペスタ』の解釈について多くの見解があるが、定説といえるものはない。都会と田舎、男性と女性といった双対関係で構成されているのではないかという説もあったが、X線のよる精査の結果、もともとのヴァージョンでは左側に描かれていたのは兵士ではなく座った裸婦像であったことから、現在ではこの説は支持されていない[4]。

暗く口をあけた洞窟の周りに三人の人物が描かれた,ウィーン美術史美術館所蔵の『三人の哲学者』も謎に満ちた絵画で、ジョルジョーネの真作とは認めない研究者もいる。プラトンが唱えた「洞窟の比喩」あるいは『新約聖書』の東方の三博士が描かれていると解釈されることがあるが、この作品には他のジョルジョーネの典型的な作品の風景に描かれているような、ぼんやりとした光で表現される叙情的な雰囲気は見られない。この点についてはジョルジョーネが「人、衣服、樹木、岩、木の葉を明確に描き分けようとした結果」であるという近年の説もある[5]。この作品における明確な輪郭の欠如と風景の表現方法は、ルーブル美術館所蔵の『田園の合奏』と比較されることが多い。

 

 田園の楽奏 田園の楽奏

 ジョルジョーネとその弟子ともいわれる若きティツィアーノが肖像画の分野に大きな変革を与えた。ティツィアーノが若いころの作品とジョルジョーネ自身の作品を正確に判別するのは非常に困難で、ときに不可能とさえいえる。ジョルジョーネは作品に署名を残しておらず、正確な制作年月日が判明している作品も1点のみである[6]。唯一、制作年月日が15067月1日と判明している、ウィーンの美術史美術館が所蔵する若い女性の肖像画 『ラウラ』 は 「後期の作風」 で描かれており、その品格、清澄さ、精緻な性格描写で、他の作品と明確に区別できる。ベルリンのアルテ・ピナコテークが所蔵する 『若い男性の肖像』 も美術史家たちから「静謐な男性の表情が言葉にできないほどに繊細に描かれ、深い立体感あふれる表現がなされている」と高く評価されている。

 

 

ジョルジョーネ作といわれている肖像画のなかには、注文記録などによって明確に来歴が残っているとされる作品もある。しかしながら注文記録の多くはその作品の雰囲気や様子が書かれているのみで、ジョルジョーネに影響を受けその作風を真似た絵画の多くに当てはまり、さらには必ずしもモデルとなった人物に作品が売られたとは限らないことを念頭に置かねばならない。ジョルジョーネが描いた宗教的寓意を持たない肖像画は単に注文記録の情報から判別するのは非常に困難で、その記録と絵画との詳細な照会と綿密な調査が必要なのである。多くの美術史家は「記録からジョルジョーネの作品を判別するのは著しく困難である。もっともよい方法は、ジョルジョーネ特有の革新的な作風が見られるか、16世紀前半の宗教的寓意を持たずに描かれたヴェネツィア絵画の、ほとんど全ての特徴である学問的あるいは文学的要素の欠如を調べることである」としている[7]。

 

 

 

33歳という若さで夭折したジョルジョーネだが、その死後も ティツィアーノ 17世紀の画家たちに大きな影響を与え続けた。ジョルジョーネは下絵をせずに絵画を描き、感傷的な表現をその作品に持ち込むことはなかった。風景と人物が一体となった絵画を描いた最初の画家で、宗教、寓意、歴史などの意味を持たない小作品という新しい絵画ジャンルの創始者となった。鮮やかにきらめき、そして溶け合うような色彩感覚を身につけた画家であり、その作品は全てのヴェネツィア絵画を代表する絵画となっていった。

 

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