4月21日の午後、昨年4月引き続き、2回目の戦跡巡り(大田の教育を考える会、第9回学習会)が行われました。
当時の大森区と蒲田区には、戦時中683社に上る軍需工場があり、そうした日本国内の状況を十分に把握した上で、アメリカ軍が京浜地域の工業地帯に度重なる空襲を行ない、戦意を喪失させようとしたことは明らかです。
1945年3月10日の東京大空襲では多くの死者が出ましたが、大森区と蒲田区の住民は、東京大空襲を教訓にして、消火活動よりも多摩川の河川敷等に避難することを最優先したため、死者は831名と思いの外少なかったという記録が残っております。
今回の戦跡巡りでは、東海道一本燈籠台石、入新井萬霊地蔵尊、磐井神社境内の戦災で被災した大イチョウ、平和の森公園の愛し子の像、平和島平和観音像などを見て回りました。入新井萬霊地蔵尊のところでは、大森在住の方から、学童疎開の体験談や、終戦後大森地区の一面焼け野原だった様子、当時の生活の様子をお話していただくことができました。また、平和島には、戦時中捕虜収容所があり、終戦直後の一時期、東京軍事裁判のA級戦犯が収容されていました。平和島の地名は、1967年に命名されました。
大森地区に残されている戦跡や、慰霊のモニュメントなどからも恒久平和を祈念する多くの大田区民の思いに触れることができました。
(カンボケ)
当時の大森区と蒲田区には、戦時中683社に上る軍需工場があり、そうした日本国内の状況を十分に把握した上で、アメリカ軍が京浜地域の工業地帯に度重なる空襲を行ない、戦意を喪失させようとしたことは明らかです。
1945年3月10日の東京大空襲では多くの死者が出ましたが、大森区と蒲田区の住民は、東京大空襲を教訓にして、消火活動よりも多摩川の河川敷等に避難することを最優先したため、死者は831名と思いの外少なかったという記録が残っております。
今回の戦跡巡りでは、東海道一本燈籠台石、入新井萬霊地蔵尊、磐井神社境内の戦災で被災した大イチョウ、平和の森公園の愛し子の像、平和島平和観音像などを見て回りました。入新井萬霊地蔵尊のところでは、大森在住の方から、学童疎開の体験談や、終戦後大森地区の一面焼け野原だった様子、当時の生活の様子をお話していただくことができました。また、平和島には、戦時中捕虜収容所があり、終戦直後の一時期、東京軍事裁判のA級戦犯が収容されていました。平和島の地名は、1967年に命名されました。
大森地区に残されている戦跡や、慰霊のモニュメントなどからも恒久平和を祈念する多くの大田区民の思いに触れることができました。
(カンボケ)