柴田道子さんの学童疎開の回想
私たちの部屋は学寮中の模範だった。規律を守り、あまりさわがず、先生を困らせることがない、その上よく勉強する班、先生はまったくそれ以上の何を求めよう。だが先生の目がとどかないところで恐ろしいことが起っていた。……〔班長の〕A子は、自分の気に入らぬことが起った時、先生からおこごとをちょうだいした時、よくこの仲間はずれを行なった。B子は誰先生にひいきされているからとか、C子のところには家からよく手紙が来すぎるとか、たわいない理由から、班中の子どもに命令して、B子をぶつとか、その日はC子と口を聞かないことなどのきびしい制裁をするのだった。この仲間はずれは順番のように廻って来る。被告の子どもは、一時もはやく仲間はずれから解放されたくてじっとがまんして班長のゆるしを待つのだ。反撥したり、友に同情したりすると、すぐ仲間はずれが自分のところに廻って来る。……
そのうち子どもたちは、班長の気をそこねないように色目を使うことを覚えた。東京から送られて来たお菓子を班長には多く与えるなどの形をとって現われた。……郷愁にかりたてられ、お手洗いに入って泣き、あるいは夜布団の中で声を殺して泣いたものだ。
このいじめの構造は、今の学校にも共通する構造がありはしないか。
この話を紹介している小熊英二さん(〈民主〉と〈愛国〉、新曜社)は、「こうした子どもたちの状況は、大人社会の縮図だった。教師から抑圧を受けた班長が、その鬱積を班員にむかって爆発させるという現象は、社会全体が軍隊型の組織に再編されていた当時の日本では、いたるところで発生していた。
この現象もまた、戦後に丸山真男によって、上位から下位への『抑圧移譲』という言葉で表現されることになる。」
と述べている。
新たな戦前の今、「抑圧移譲」=イジメの構造はパワハラなどの蔓延として表れている。しかし、抑圧された状況にあっても教職員は子どもを抑圧してはならない。それは、未来を担う子どもたちを専制と隷従、圧迫と偏狭の道に追い込み、社会の大損失になるからでもある。