夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

何かが変わった気配・・覚えの為に書いて置く

2020年11月28日 11時12分57秒 | 日記
此の夏、西日本西岸を通った台風10号(ハイシェン)の後、【何かが急に変わった、台風が持ち去った】と言う感じを自分自身に関して感じた。それまで【大事】に思っていた物や事に急に拘りが取れて、若い頃の夢であった天体観測の機材全てを一か月かけて天体望遠鏡博物館に寄贈し、続いて故郷の郷土史二巻を図書館に寄付、等と身辺を【身軽に】した。

昨日から片頭痛で具合が悪く、今朝は最低の状態で朝食後大好きなギターを弾く気力も無く、もう一度寝んだ。自分では眠った感じがしなかったが気が着くと二時間経っていたようで、曇り空が晴れて陽光が射していた。暗く重苦しかった気分が、頭痛は残っているもののどこかに消えて起き上がり、普段通りの気分に戻ったが【何かが通り過ぎた】【空気が変わった】と言う感じがする。
どちらも個人的な感想だが【地球全体を取り巻く雰囲気が急転した】との感じがある。



再現と創作

2020年11月26日 10時54分54秒 | 日記
誰かの創った曲を演奏するのは再現である。その人なりに解釈して再現するなら再現芸術家と言えよう。私はモダンギターをスキルとしては上級の入口辺りまではやれる。が、何だか飽いた。曲を作るほうにだんだん逸れつつある。そっちの方が面白いと思うようになった。
しかしこれこそ、全く何の素養もない。楽典なんて中学校の頃から大嫌いで頭が痛いだけだった。負け惜しみを言わせて貰えば素質のきれっぱしぐらいはあるかもしれない。と言うのも曾祖母は三味線が上手だった、叔父は芸大の作曲科を出た人だった、歌の上手い親戚が結構居る。音感はいいのかもしれない。それで、馬鹿にされるのを覚悟で言えば、残りの人生でわくわくする何かを!・・と考えるとコレかな?と夢想する。

ペット嫌い・・・処を得ない

2020年11月26日 10時43分19秒 | 日記
生長の家の谷口雅春氏の著書の何処かで読んだ記憶がある・・物事がオカシクなるのは【処を得ない】からである。
例えば、最近クマや猪が人里に出て来る、甚だ都合が悪い。これはクマや猪がけしからんわけではない、居場所を間違えているのである。
私のペット嫌いも実はそこにある。別段、犬や猫が不倶戴天の何やらと言うわけではない。彼等には彼らに与えられた居場所がある。それを人間の居場所に連れて来るのを好かないと言うことである。
ただ分からない事もある。昔から【犬は人に着く、猫は家に着く】と言う。【家ネコ】と言うことばもある。いや、例えば我が家に二匹のクロネコが出入りするが一匹はじっと座っている。一匹はあちこち探検して回ってウルサイ。ストーブの傍などにじっと座っているネコは、特に歳をとった猫は哲学者の風貌があって面白いと思いはすれ苛立たない。

言語を見れば文化が分る

2020年11月25日 10時28分11秒 | 日記
昔、五木寛之氏の著書を読んだ時、日本の不思議な特質としてセイタカアワダチソウを例にして説明されていた。あの植物が日本に入って来た初期には日本の固有植物が総て駆逐されて国中に繁茂する、憂わしい事だとの論調があったが歳月が経つとともにその勢いが衰えてしまった、と言うわけだ。
確かに今やそこここに生えてはいるがお世辞にも勢いがいいとは言えない。
日本は外国から移民を受け入れる事に消極的、拒絶的だと外国人は言う。私個人としては移民も労働者も一切拒絶したい。古くから伝わる文化を破壊されたくないし血が濁るのが面白くない。外国人も、日本人が文化を破壊されるのを嫌うのだと言うようだ。
しかし一方で日本文化のように強靭な文化は類例がないとも思っている。言語を考えればわかる。日本語の特徴は外国語を取り込んでたちまち日本語に同化させてしまうことだが文化もそうだと思う。ハロウィンだとか大晦日のカウント・ダウンだとか最近流行の外国由来行事は好かないが、例えばクリスマス、もう日本のものになってしまってそれが為に日本の何かが破壊された、例えば神社が減ったとは思えない。人々は茶髪の兄ちゃんやキャピキャピギャルまでやっぱり神社で願い事か何かしている。多分外国の物の自分たちに興味のないものは捨てられて面白い部分だけ取り込まれるのだろう。ハロウィンもカウントダウンも数年の内には日本化されてしまうだろう。ハロウィンなどは西洋の野暮ったいコスプレなどは捨てられて日本風の絢爛豪華奇抜なものが出て来るだろう。花魁道中など見ればハロウィンだのヨサコイソーランだのあほらしくって!絢爛豪華奇抜、そしてイナセな兄さんがカッコイイ!
諸外国では異種の文化はあくまでも異種のまま混在するだろうが日本では化学反応を起こして化合が起こり、別物が生成される。中華丼と言う食い物がある。あれは中国人は知らない。完全に日本化された食い物である。トルコライス然り、オムライス然り、スパゲッティナポリタン然り。パーソナルコンピュータはパソコンになり、スマートフォーンはスマホになった。そのスマホに小さな根付けみたいのをいくつもぶら下げるに至っては完全に日本化してしまった。

鼻もちならぬ日本人

2020年11月24日 13時39分09秒 | 日記
昔、ある座談会である人がふと『あれは国産だし』と食品の評価をした。そこに加わっていた外国人が『別に日本産品でなければならないと言うわけではないでしょ』と憮然とした表情で言った。
拙宅奥様はどんなに値段の差があっても日本産品しか買わない。そういう奥様方は結構多いのではないか?
DNAの中に埋め込まれた何かじゃないか?と思う。古代のイスラエル人は食べる物と食べ方についてうるさかったがその名残ではないか?・・死んだ家畜を食べてはいけない。しかし異邦人に売る事は構わない、などと。

日本人の常識に適わない物事、奇異な何かの蔑称に”チョーセン”や”チョン”を付ける、チョーセン輪投げとか、バカチョンカメラとか。台湾育ちの母はチャン鍋とかチャン下駄などと言う言い方をした。これは別段蔑称ではないがしかし日本人正統から外れて品位を落とした姿を言ったようだ。外国人を”ガイジン”と言うのもこの流れだろう。

これは外国人からすれば鼻持ちならぬ日本人の尊大意識だろうが私は遠い先祖のDNAに埋め込まれた【選民意識】だと思う。『俺は日本人だ、おまえらとは違うぞ』或は『そこいらのウゾームゾーのようであってはならない』と言う無意識の意識があると思う。だから麻生大臣の『ウチの国では民度が高いのでそのような強制処置は要らない』になる、道路が清潔、などの姿に現われる