夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

併行世界

2015年09月26日 22時33分51秒 | 日記
CADで図面を描いていてふと閃いたので書き留めておく。

併行宇宙、併行地球、と言う表現がある。ここ数年マヤカレンダーだのコルマンインデックスだのアセンションだのとひとしきり騒いだがその中でよく出て来た表現である、例えば地球は五次元に次元上昇し始める、しばらくは現在の縦・横・高さ・時間の4次元世界と併行に存在するがやがて四次元世界は取り残され、つまり置いてきぼりにされて五次元世界に生きる人々のみが幸せな生活を享受すると言うことらしい。・・・解ったような解らないような、要は言葉の遊び、乃至は自己催眠の世界ではないか?と疑っていた。

しかし、ある記憶がその話を完全には否定できなくしていた。合気道の達人はその住む世界が違うから元々危険と遭遇しないのである、と言う話。また剣術の達人に関する記事でも似たようなものを見た記憶がある。つまり同じ道を歩いていながら実は別の世界に居ると言うことがあるのかもしれない!と考えていたわけである。

自分の身の周りだけなのかもしれないがここ数年自然の状態がヘンだ、夏になってもセミが鳴かない、とか、いつもはあんなに沢山いるアオガエルが今年は一つも見えない、とか、昔は台風は必ずと言っていいほど九州の西海岸をかすめて通過したのが何故最近は東に逸れるのだろうとか、色々あって『全体性』と言う観念からすれば或は地球上の全てが変革されつつあるのではないかと考えることがしばしばあった。

特に今年は所謂戦後レジームからの脱却と言う事象がサイバー空間では頻繁に言及され自分としても失われた二十年なる期間を日本のサナギの時代と捉え、今や羽化が始まったと言う思いが強い。さらに安保法制審議を経て日本は今や新しい日本へ向けて歩を進める層といままではこうだったと言ってそのさらなる延命を主張する層に分離しつつある。私はこの層をセミの抜け殻だと考えている。

脱け殻と羽化したセミが一体いつまで共存し、どうなるのだろうか?との疑念があったがCADで画層をひねくっていて思い当たった。トレーシングペーパーなら例えば全ての描画の基準になるような線は裏から引いておいて消しゴムで消せないようにしているがせいぜい裏表の二面しか使えない。しかしCADならばトレーシングペーパーを何枚も重ねて使うに似て、部品の種別に別の画層に描き最終的に全部の画層を重ねて見て全体としてこうである、と説明できる図面の描き方が出来る。而してどれかを修正したい或は抹消したい場合は当該画層以外の画層を操作不許可にしておいて問題の処理が出来る。

これかもしれない!今の日本にはその普段の心の在り様、生活の観念等から推して新しい日本に適合できる層の人々とそうでない人々が混在して生きているように見えるが実は見えない空間の枠或は筐体のようなものがあって実際にはすれ違っている、接触していないのではないか?そして羽化に取り残された脱け殻に相当する層はやがて誰も気が着かぬうちにERASEされる!

併行世界はあり得る!

法と倫理

2015年09月26日 07時17分21秒 | 日記
”法治国家”なる概念は西欧キリスト教世界から出て来たものである。(源流はアッシリアのハムラビ法典ではあろうが、体系化されたのはキリスト教世界に於いて、であると理解している)

そのキリスト教世界では”法治”を実効あるものとして”罪の意識”即ち、”人一人の言動が『神』の前に正しいか否か”の概念がある。例えば新約聖書でイエス・キリストは”私に言い逆らう者が誰であってもその者は許されます、しかし聖霊に言い逆らう者が誰であっても許されません”・・・これを神道の概念で言えば魂魄全て宇宙から抹消されると言う事であろう。

岡崎トミ子、村山富市、河野洋平、鳩山由紀夫、等々の言動は現在の日本では”法治”対象にし難い。西欧諸国でもそうだと思う。しかし西欧で個人の言動を規制している『神』が日本では大東亜戦争終結に際して『悪の権化』として葬り去られてしまっている。ここに問題がある。これらの人物の罪とは法治に関る罪と言うよりも日本の神、日本民族の深層無意識に対する罪、侮蔑行為である。

『神』の法を超える言動について何ら対応策の無い現状は何とかすべきである。これらの不埒言動を法の枠内で取り締まる事が出来ないならば倫理に悖ると明確に宣言する何かが要る。倫理を冒してまでなされる言動は上記イエスさんの言葉通り、最も恐ろしい結果が待っている

憲法9条が目指すもの

2015年09月26日 06時51分13秒 | 日記
単刀直入に、『国体の破壊』である。在日、反日、売国、エセ知識人等々、上辺の美辞麗句の皮を剥いでゆくと最終的なターゲットは日本の国の破壊、その真に意味するところは神への反逆。

大東亜戦争終結の時に”諸国民”はそれを目論んだ。思うにここに神一厘の介入があった。多くの軍人、政治家、官僚が”戦犯”なる一方的指弾に何ら弁明せず絞首台に上った。その事によって日本国体、萬世一系の天皇を戴く唯一の国は残った。

しかし、敵は今度は長時間かけてこの破壊をどうあっても成し遂げようとしている。それが半島人の『日本国を動かす組織』つまり日本国の頭への浸潤である。額に汗して日夜働く日本人はいわば日本国の首から下の体であって概ね健全であった。だから日本は潰れなかったが頭がおかしくなりつつあることには違和を感じつつも明確には気が着かなかった。

半島人は数々の優遇措置、在日特権とか称する逆差別、地方公務員の国籍条項撤廃等々でそれを遂行しようとしている。それによって浸食され破壊されつつあるのは日本の首から上、座して机上、口で仕事をする人々と組織である。学習院もまた。

こういう愚かな特別措置、逆差別をどの政権が、どの総理が、どの大臣が、どの官僚が、どの役人がやったか、いずれ明らかにしなければならない。我々の親の世代までは危機感があったが小・中・高教 育で洗脳され大学教養課程で完璧に駄目押しされて特に団塊の世代が政治的痴呆になった。

母親としての妻を観る

2015年09月25日 11時26分55秒 | 日記
たらちねの 母が吊りたるアオガヤを すがしとい寝つ たるみたれども・・・確か長塚節じゃなかったかな?

女は子供を産み育てると言う大切な役割を負わされているが故に能力の大きな部分をそちらに振り向けられている。従って諸君、君たちが長じてカシコクなってエラクなって、もしかして母親を愚か、或は煩わしい、乃至は疎ましい、と内心思っても黙っていなければならない。安直に苦情を言う、非難する、ようなことがあってはならない。それが男子たるものの在るべき姿である。これは高等学校の生物学の先生の講義である。今日のサプリメント学習、カロリーメイト学習の教師にこんなことが言えるものか。だからくだらない学生が出て来るんだよ。

私思うにこれがまた夫たる者のあるべき姿でもあろう。女の空間は住んで居る地域と交友関係、職場、時間は今日プラスマイナス一週間程度。しかし侮るなかれ、現実感覚は男など思いも及ばない。一方男の時間は短くても今日プラスマイナス10年、長いと人類史全体、空間は宇宙全域。しかしこれがはじけるとバクチに身を亡ぼしたり糸の切れた凧みたいになる。

私も若い頃は妻を『おんな』として見ていた。しかし次第に『人』として見るようになった。これはどういうことかと言うと、結婚前の状態に戻った。肩が凝るらしいので肩叩きはするがそれ以外では離れている。丁寧語を使うようになった、名前で呼ぶようになった、等。

息子たちが結婚した今、母親として見るようにもなった。

息子達、解っているか、君たちの母親はどんなに仕事が忙しくとも昼には必ず帰って来て君たちに食事の準備をした。手を抜いた事が一日もない。これはエキセントリックな性格の姑である私の母も褒めていた。今は紙オムツだが昔は浴衣の使い古しを使ったものだ。いちいち洗濯し、取り換えた。熱を出したと言えば寝ずに見守った。君たちに授乳しながら居眠りして後ろにひっくりかえりそうになりその度に君たちはワッと声を上げて怒った。

今君たちの母親は君たちが小さな子供、少年、であった頃の思い出に生きている。君たちを喜ばそうと車に乗ってあちこち駆け回り喜びそうなものを探してくる。自転車に乗ってそこいらを駆け回っていた少年の姿が脳裏にあるのだ。

私はそれを見て自分が如何に冷淡で浅はかな息子であったかを思い知る、匕首で胸を抉られるようだ。いつだったか、遊びに行った帰りがけに道端のアカシヤの白い花を摘んで母に渡したことがあった。その時の嬉しそうな顔を忘れられない。

息子達、私が言外に言おうとすることを賢く推察したまえ。

人は死んだらどうなるか

2015年09月25日 08時54分00秒 | 日記
 2012年12月に書いた事柄『時間の概念』が閃いた。旧約誓書を読んでいるとどうも、人が死ぬことを眠る(安息)と言っているようだ。例えばダニエル書の最後には『汝終わりに進み行け、汝は安息に入り日の終わりに至り起(たち)て汝の分を受けん』とある。聖書では仕事を終えて休むことを安息と言っている。
 経験によってシナプス結合が強化されたり伸張することは犬やネコ、霊長類にあるかもしれない。しかしそれは単なる反射行動のための記憶ではあっても蓄積して新たな行動様式を編み出す記憶ではない。もし動物がそう言った能力を持っているならば動物も”経験によって計画的”に行動するはずである。結局、経験が蓄積され、そこから新たな行動様式を編み出す生き物は人間しかいない。ここに時間の概念が介在する。他は時間の概念を持たない三次元の生き物である。
 時間軸上に無い記憶の想起様式とは”犬の記憶・・・帰宅したあなたを見て”ああ、そうだった、うちの次郎さんだった!”と”思い出す記憶”だろう。当の犬はあなたが不在の間、あなたを覚えていない、知らない、飼い主と言う概念もない。
 もし人間の記憶がこの犬同様に”時間というタグがついていない記憶”であれば”事態に遭遇するまで引き出せない”、よって計画しての行動は有り得ない。この”時間の概念”がエデンにあったと言われている”知恵の樹”、知恵と言う実が成る樹だと私は考えている。
 時間の概念さえなければ四苦八苦、煩悩などというものは一切ない。人は”瞬間””刹那”にしか生きない三次元の存在となる。偶然に遭遇するかもしれない災害や事故などの概念も起こらない、”苦”とは何か?”痛みとはどういうものか?”さえも知らない、あるのは刻々遭遇する事態でしかない。
 しかしそれでは”地を従わせる”ことは出来なかった。人間を地球の管理者にしたからには想起し、推論し、計画し、実行し、検証し、経験を資料化する能力、一言で言えば管理能力が、別の言い方をすれば時間の概念を付与することが必要であった、それがエデンに”知恵の樹”があった、と言うことの意味である。しかしその実を食べることはその能力を地を治める目的ではなく、自分自身を治める為に使うことになり、既に準備されている”万全”を拒否し、それから離れることにしかならなかった。
 つまり人は『神』から離れた、別次元に移行した。だから人類は今『神』を見ない、見えない、次元が違うから。人は自分自身の生存に関しては三次元の生きものであるほうが幸せだった。それが東洋で言う”放下”であり”無一物中無尽蔵”、また”計らわない生き方”となる。
 私は人の実態が『念』だと思っている。それは実体を持たないが故に宇宙に無限に存在する。その念がこの地上世界なる場の原理によって形を現しているのが見える姿で存在する人である。もう少し別の表現をしよう・・・コンピュータは様々の部品で構成されている。しかしそれだけでは役に立たない。ここにそれらの部品を有機的に働かせるオペレーションシステムやソフトウェアと言われる『見えない』仕組みを組み込んで初めてコンピュータであると言える。しかしそれでも足りない、電源を入れて漸くそれは動く。
 神は、或は宇宙の法則は土塊、つまり物質によってアダム(土から出来た存在)を構成した。その一つを宇宙空間に存在する念が選んで自らをプレ・インストールした・・・母親の胎内で減数分裂が起り始めたどこかの時点ではなかろうか。これが人間と呼ばれる魂である。神がそこに命の息を吹き込んで、つまり電源を入れて人は『生きた魂』になった。
 いわば見える、もの言う人とはその物質肉体にプレ・インストールされた念が三次元世界で使うインターフェイスのようなものだ。この機械が壊れる時、つまり病気や事故によって機能しなくなるとき・・・『もう使えない』と悟った念はそこを離れる・・・つまり死である。すると、その念から時間のタグが外れる。永遠イクオール瞬間になる。

かくして多くの人が今『安息』にある。彼ら彼女らに時間の概念はない。『日の終わる時』、彼ら彼女らは新しいハードウェアにインストールされるか、或は別の形で『目を覚まさせられる』・・・千年の眠り?そんな概念はない。昨日いつもより気分が悪くて、それから・・・??地球ってこんなに美しかったっけ?周りの人はこんなに優しかったっけ?

肉体を捨てた『念』は時間のタグが外れる、永遠イクオール瞬間となる、・・・すると、もしかして一旦死んで蘇った人が死後の世界は美しかった、と言うのは聖書言うところの『日の終わり』を垣間見る時間旅行をしたのかもしれない。さらに、こうも言える・・・肉体を離れた念は永遠を瞬間に飛び越える、千年も、百年も、彼、彼女にとって『日の終わり』とは『今』である。ウーム??!!


直観が落ちる前にと急いで書いたので少し詰めが甘いような気がするがとりあえずの覚えの為に。