夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

縁を切(らされ)る

2012年10月09日 08時59分34秒 | 日記
 大祓え祝詞を読んでいるとその前半に奇妙な事が書かれている。何かを”隠して”いる、ように書かれている。漠然たる理解だが、この祝詞を書いた人々はどこからかやって来て元々日本の地に住んで居たものを草の根を分けて洗いざらい詳らかにし、その内実を検め、服属させて、さて、その後、自らの実態を隠蔽した・・・ように推量する。或いは別の読み方も出来るかもしれないが。
 話変わって私は日本人にこそ古代のイスラエル人のDNAが温存・・・隠されていて、それがあのエゼキエル書37章辺りにある、”枯れた骨が再び起き上がる”とか、離れている枝を接合して、つまり10プラス2、として一つの民族とする、と言う話の現実化が起こるのではないかと考えている。
 それを解く鍵が神道にまつわる全ての事柄ではないか?・・・すると、世界の、つまりエデンに於いてヘビがエバを誑かすことから生じた歪み、かく乱の波動が正常に復する、平衡状態に復帰する時、”宇宙創生の神”に全く無関心な世界との絶縁がまず起こるように考える。
 それが最近の島嶼をめぐる事態でありこの国を誤り導き、人々をして矜持を失わしめ、美しかった国土をカネモウケの為に損なった ”商売人”、つまり経済界が危惧する日本製品排斥のような形になって浮上するのではないか? もし日本各地におびただしく在って、そのほとんどが農業漁業の神である・・・無論商売の神もあろうが、日本古来の商業は自らの限界を守っていた、儲けの為には全てをかなぐり捨てるようなことはしなかったと思う・・・、その神が縁を切らせるであろう。
 美しく静謐の日本にカネカネカネオレガオレガオレガの行儀の悪い騒々しい品位のない人々が入ってこなくなるのは非常に嬉しい。こんな連中によって飽食するぐらいならまだしも終戦後の飢えに戻るほうがいい。安逸と飽食のみが幸福などと言う信仰を何者が齎したか日本人はよく考えるべきである。
 カネモウケの為には美しかった信濃追分を単なるショッピングセンター、都会人の息抜き享楽地にして恥じぬ商売人、カネをもらうためにそれに媚びる政治家、恩を知らぬ者共に我々が築いた技術を明け渡した政治家、そのような者共と日本人が縁切りする日を待っている。
 日本の神が日本人の腎(ムラト)を探り、検証し、そこに新たな品格を入れてくださることを、その事の疾からんことを切望する。

パリサイ人と似非クリスチャンと神道

2012年10月08日 09時09分41秒 | 日記
 卑近な例で言おう。女子高校生のスカート丈の校則が謂わば旧約聖書の申命記、レビ記、その応用の解説が民数記、歴代史、士師記、列王記などであろう。人々はここから宇宙の原理を洞察すべきであった。然るに ”論を論う者共”が現われてスカート丈を細かに規定してみたり論じたりし始めた。ここに旧約の民の躓きがあった。
 一方、イエスさんはそういう事項の背後にある、英語で言えばプリンシプルを説いた。しかし、それ以上に、イエスさんの到来の意義は”神の救い”、すなわち宇宙創生の時に意図された本来の地球世界の姿に与らしめる者共を ”けだもの民族”にまで拡張したところにある。つまりそれが十字架の贖いであったろう。
 従ってペテロの教会は全人類に対する祝福であった。ところがここにもまた ”鳥”、すなわち僧侶なる者共が現われて”律法の背後にある精神”を勝手に解釈敷衍し始めて今日の”熱くもなければ冷たくもない”キリスト教会が出来上がった。

 では神道はどうか? 神道に『論』はない。はじめからその概念がない。定められた『型』を厳密に踏襲しているだけである。しかしそこに深遠な何かがある。言ってしまえば、人間とは要するに”波動”、”個体としての意図や意思”をさらに掘り下げられたところの思念のようなものがその本態である。”論”はそこに到達できない。が、型は波動を同調に引き込む。しかしこれとは別に、この神道なるものが旧約聖書の概念とよく似ていることである。
 ・・・・ということは、・・・”宇宙創生の神の存在と力を示し、地上世界を旧に復するために『選ばれている人々、その役割を負う人々』が実は神道の民、であると言うことである。

 この言い方は激しいであろうか?では、歴史と空間を無限に拡張して日本神道以外に旧約聖書を『体現』し、且つ聖書の他の記事と照らして今日の世界情勢との一致点が多い国なり民族なりが一体どこにあったか、あるか?

後悔先に立たず。若い人々、心されよ!

2012年10月07日 11時06分43秒 | 日記
 自分もいい年になっていつくたばってもおかしくない。医師の札付きになってしまってもいる。そこで息子たちに言うべきことを言っておこうと古い写真や書簡などを引っ張り出した。

 そして、両親の未だ結婚前の写真を見てあらためて衝撃を受けた。それはまさに落雷に遭ったとでも言えるほどのものであった。・・・自分の両親にも若くキラキラ輝いていた時があった!”・・・
 夢も大きな希望もあっただろう。母は誰かに似てるなとしばらく考え込んで、女優の常磐貴子さんを思い出した。乙子の急死、終戦、引き揚げ、各地を転々、炊事場もない間借りの暮らし、病気、・・・その中で母は大事な衣装を娘時代の思い出と共に、今だ30歳にもならずに手放し、諦め、子供達の養育に心身をすり減らしボロボロになって亡くなった。
 父は水と油のように馴染めない環境におそらくは砂噛む気分で働き続けなければならなかった。

・・・これらの全てについて私は慮ることなく己の苦境を親たちの不徳として両親を粗末に扱い、その心の痛みを一顧だにしなかった。振り返って慚愧の到りであり、あの世の門前で閻魔大王に叱責されて返す言葉はない。

 この思いは匕首のように心を抉り、夜毎に自分の不徳に思いを馳せて眠れない。人は誰からも裁かれないがむしろ自分で自分を裁く。私は自分を口程にもないつまらぬ男と裁くようになった。

 若い人々、たまには親たちの若かった頃の写真を穴のあくほど見たまえ。みな美しく輝いているから。そして自分を重ねて思料したまえ。

日本にキリスト教が根付かない理由

2012年10月07日 09時10分44秒 | 日記
 理由は非常に簡単である。

 キリスト教の元になったものが日本を作っている。且つキリスト教の最初の形が日本人の精神構造を作っている。

 イエスさんは”私は律法を破棄する為に来たのではない、それを完成する為に来た”と仰った。これを極めて卑近な例で言うならば、女子高校生のスカート丈が膝上何センチとかひざ下何センチかと言う議論をするのが旧約聖書に書かれている具体的諸事項であり、もうそのような論議を細かく言わず、”清楚で品位のある姿を守れ”と言うのが”愛の教え”、キリスト教となる。

 日本人の日常は神道に根ざした”仕来り”で形成されている。しかし東日本大震災の際に人々がとった行動はまさに神道の具体的祭事、仕来りが指差している”精神”に由来するものである。

 こうして日本には旧約と新約、両方の聖書が 姿を変えて 生きている。だから日本人にはキリスト教というものの必要性がわからない。これはものすごく重い事柄である。

ある神職へのメール

2012年10月07日 08時28分05秒 | 日記
 おはようございます、ご意見お聞かせ戴きありがとうございます。私は神の存在を敢えて意識したことも否定したこともありませんでした。これは不思議なことですが物心ついた時には折々神社に参拝に出かけ・・・それが何やら楽しくもありました、・・・偶に自宅に神主さんが見えました。見えない何かに合掌したり頭を下げたりする過程を通じて人智を超えた存在が自然に心に入りました。
 
 私はこれが、日本に於ける神道の非常に重要な意義であると考えています。
 一時期ふみ迷ってものみの塔なる魔界を行き来しましたがこの団体はおそらく最も頻繁に旧約聖書を読むでしょう。そこに書かれていることと日本人の常識が全く違和感なく思えるのが不思議でした。かつ、気がついてみるといつも聖書に書かれている神に話をしていたように記憶します。多分その故に、何かに手を引かれるようにやがてそこから出ました。
 ノイローゼ気味で仏教、禅、生長の家、ものみの塔、キリスト教会と遍歴して最終的に神道に到りついたのは考えてみれば不思議なことです。仏教寺院でもキリスト教会でも何も感じませんでしたが、40歳の厄入りの際、近所の神社でお祓いをして頂いた時、巫女さんが鈴を振りながら舞を舞いました。まさにその時、目の前に肌が泡立つように”何かの存在”を感じました。論だけで何もない抜け殻のお寺や教会と違って、論がない代わりにものすごい”気”がそこにありました。
 
 息子は私の宗教のせいで将来を悲観し、長く引きこもりでしたがやがて世間に出、今では結婚して家もあり、自前で職にもついています。この長かった三十年を振り返ってみて不如意と思っていた私の人生もまた彼の自立のひとつの礎石であったことなどに気が付き、”何かに手を引かれてきた”と言う思いが息子にも私にもあります。
 おそらく”論じる”ことの好きな現代人、”証拠”しか信用の尺度にしない現代人には決して納得できない世界があります。それはもう体感する以外にありませんが、体感するためにはまず信じなければなりません。ここで多くの人が躓きます。同時に、まさにここに神社の存在意義があると考えます。
 
 高校日本史で比叡山延暦寺の僧兵共が春日大社の神輿を担ぎだして強訴に及んだと言う記事を読んで何故だろう?と不思議に思っていましたが旧約聖書を読んで、なるほど!と納得が行ったこともあります。それは聖書に書かれている”契約の箱”の遠い記憶でありましょう。さらに神前に白い餅を供えてあるのを見たり神主さんが餅を撒くのを見ます。あれもまた出エジプト記を読んで納得が行きました。イスラエル民族の40年に及ぶ不毛の荒野遍歴の間、彼らに与えられて天から降った白いマナの記憶に違いありません。

 ご推察の通り、私は神道の向こうに宇宙創生の神を見ています。

 その神が貪欲と傲慢のために歪んでしまった世界を正してくださることを切望し、神職の方々がどのような認識でその祭祀に携わっておられるかを聞いてみたく思いました。

 ご無礼の段、平にお許しください。