夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

男の値打ち

2015年10月30日 14時30分04秒 | 日記
土壇場とはかつての斬首刑場である。穴が掘ってあってその前に坐らされる。目隠しをされて両手を引っ張られる。自然に首が穴の方に出る。そこを首切り役人が一刀両断。

大久保利通を暗殺した人々だったと記憶するが逮捕拘留の後処刑の日になった。各々役人に拘留中の世話の礼を述べる中に一人、故郷の方角を聴いてそちらに向いて平伏、日頃の不幸を詫びてから首を斬られたと言う。立派の最後、と役人皆感服と言う。

それに引き換え、わが父の情けない有様にはガッカリする。『このバチアタリめが!』と詳しい事情も知らぬことは棚に上げて言い放つ、その一方でやれどこが痛いの転んでどうの、と泣き言を言う、ヘルパーさんをヘルパーさんと言わない、ヘルパーがヘルパーが、と不服ばかり言う。オレ、アンタの息子であることに『瑕疵』を感じる、気落ちする、母に同情する、・・・母さん、よくこんなつまらぬ男に仕えて消費されるままで我慢したね!

泣き虫の我儘坊ちゃんは最後までか?だったら人生は何の為にあったのだ?

負けず嫌い、負け惜しみを言わない、意地っぱりでない、やせ我慢しない、男はオトコではない。

自衛隊の存在意義

2015年10月30日 12時24分31秒 | 日記
最初から話が逸れる。女であることを未だ放棄していない女が肌も露わなカッコウをしていると男の眼はそれに吸い寄せられる。これは創造の神が仕組んだプログラムである。そうでなければ美術も彫刻も音楽も文学も哲学も、つまり文化なるものは人間世界に生まれなかった。

国家が肌も露わな、つまり無防備なカッコウをしていればその美しいものを自分のものにしようとの邪念を持つ者共が居てもおかしくない。事実日本は戦後70年、そのような者共に蹂躙され民主政権で危うく国家解体寸前であった。

自衛隊とは国家の全身を覆う防護服である。つまり国家レベルの痴漢、強姦魔に対する極めて常識的な対処法である。・・・ここまでは普通の常識ある人々の考え方。

私はもっと先の意味を考えている。

自衛隊は『戦争状態なる事象そのもの』に対する防護手段である。安倍総理が拘ったのはそこだと思う。安保法制なるものは『それが存在することによって』戦闘なる事象が日本に侵攻しない、と言うことだろう。男子たるもの侮られては末代までの恥、侮られるような姿や性向、挙動、動作を慎むべし。・・・いじめられっ子を見て教訓を得た。

また脇道に逸れる・・・何故か結婚しない男が居る。しないのか出来ないのか?両方だと思う。介護士をしている近所の奥さんと雑談をしていてふと話がそっちへ飛んだ。彼女が実に適切な表現をした。『甲斐性がない!』

ところで、結婚していても甲斐性なしの片鱗、と言うか残滓を見せる男が居る。年賀等節季の挨拶その他、家長である男がするべき事柄が、出るべき処、つまり『公の事柄』がある。それを妻の蔭に隠れる、或は妻に責務を負わせて逃げる奴が居る。

息子達、そんな男になるな!妻から見くびられるよ。

時は過行く

2015年10月29日 13時07分26秒 | 日記

大学4年の頃、何かのグラビア写真から切り抜いた。!

輝くような若い日も年老いた日々も同時に実在はしている。何の物語だったかな、こんなのがあった。心を打たれた。

ある武家の娘が親に隠れて庭の倉に入り、そこで鏡を見つけた。それを見るともなく見るとやせ衰え老いさらばえた老婆が何かの花を見ている姿が映っていた。びっくりしてそのまま内緒にしてやがて忘れた。娘はやがて結婚し幸せに暮らし、やがて年老いて病に臥せった。衰えた体でもう再起は難しい、病室の外に咲く花を見るのが唯一の楽しみとなった。そんなある日、いつもの通り庭に面した障子を開けさせて花を見た、そしてふと若かったあの日のあの鏡のことを想い出した。そうだったのか!あれは自分の行く末を見たのだった。

放浪癖

2015年10月28日 23時52分48秒 | 日記
若干の放浪癖がある。癖と言うよりは指向か? 高等学校の時はインカ文明の虜になっていた。フォン・ハーゲンの”太陽の道”を繰り返し読んだ。大学では『西域病』と言う精神病に罹っていた。敦煌、楼蘭、亀茲、天山山脈、崑崙山脈、タクラ・マカン、ゴビ、アルタイ山脈なんて文字を見ただけで発作が起こった、勉強そっちのけでスウェン・ヘディンの中央アジア探検紀行を読んだ。大学院に入ると今度はカミニートに始まってパンパ放浪に魅了されてしまった。

後遺症が残った。未だに奇妙な白昼夢に捉われる。南米の草原だのアンデスの何処かを放浪してどこかに消えてしまう・・・後年息子たちが酒を飲みながらオヤジの奴一体どこへ行ってどこで生きて居るのやら死んだのやら、と言うようになればカッコイイな、と。或る時それを言ったら『そんなのお兄さんの身勝手ですよ』と義妹から言われた。そうかな?こっそり蒸発してどこか場末の屋台で誰とも知らぬ人々と酒を飲むなんて何だかわくわくせんかな?

『おまえそんな夢を見てると本当に糸の切れたタコになるゾ』と悪友は言った。瀟洒なホテルだの新幹線だの飛行機だのに余り感動できない。各駅停車で行き会い停車する単線夜行列車で居眠りしながら延々と走る、走馬灯のような車窓を見るともなく見る、・・・川端康成の『雪国』に名文があるじゃないか、そして木賃宿に泊まる、そういうミニ放浪に憧れる。

夢を見た。どこか北陸の大きな古い女郎宿に泊まっている。女たちが何かの準備で忙しく動いている。立って廊下に出て白い靄に霞んだ海を眺めた。薄青い島がぼんやり浮かんでその周りに白い波が寄せていた。いつの間にか横に若い女が立っていて二言三言話しかけて来たが虚ろな反響を残して消えた。

ハルマゲドン、つまり諸国民の時の終焉が完了して人類が本来の予期された生き方になった時、・・・生きて居ればの話だが、リュート一つ抱えて人の家に客人となって歩き廻りたい。無論そういう事が可能な時代になっていると言う条件で。

まあ、自動車もウチュウロケットも飛行機も、あっていいだろう、好きな人も居るだろうから。私は余り興味がない。ソローの”森の生活”、ヘッセの”クヌルプ”、ノヴァーリスの”青い花”はみなこの傾向の物語であり、川端康成の”雪国”また然りである。木賃宿で”おかめ”の給仕で麦飯と塩鮭に卵焼きとダイコンの味噌汁の夕飯、共同浴場で田舎の婆さんとおしゃべり、シンシンと底冷えのする夜に搔い巻きを被って真っ暗な山鳴りを聴きながら眠る、そんなのがいい。