Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

友人の旅立ち

2007-02-28 08:06:24 | ひとから学ぶ
 小学校分校時代の同級生が亡くなったと連絡があった。その後高学年、中学、高校としだいに教育空間だけで捉えればしだいに離れて行ったが、会社で遠方の勤務が多くなるまでは、もっとも付き合いが長く、深い友だちだった。もっと近くに暮らし、もっと近くで働いていたら、もしかしたら親友と呼べるほどの付き合いがそこには続いたのかもしれないが、空間が離れるほどに、なかなか会うこともなくなり、仕事に追われるようになるとともに、付き合いはなくなっていった。それでも厄年という節目には、ムラの祭りに参加し行動をともにし、かつてを思い出したものだ。

 もしかしたら、そんな彼が遠のいたことによって、わたしには親友と呼べる人がいなかったのかもしれない。そう思えるのも彼が遠のいていったという事実によって、わたしの中では「友人とはいえ、空間をおけば遠くなるし、歳を重ねれば遠くなる」ということを教えてもらった。人は1人では生きていけないが、自分へ回帰すれば、やはり1人なんだということを認識する。人に頼ることはできないし、またそれを期待することもないだろう。

 家庭の事情もあったから、昔から彼は独特な生き方をしてきた。その彼の顔を見ることができないのは、わたしの中では大きな空白となる。裏を返せば、自らもいつ死んでも不思議ではない歳を重ねたことになる。彼は身内だけで密かに埋葬されたという。わたしも、ふだんから妻と、葬儀は身内だけで・・・と話している。死者はこの世にいないのだから、わざわざ死者の知らないところで葬儀なんかしてほしくないと思っている。そんな思いがあるから、真剣に遺言のことも考えなくてはならないが、そんな余裕すらない。きっと余裕ができた途端に、黄泉の世界へ消えるのかもしれない。そんなものなのかもしれない。
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消えた村をもう一度⑱

2007-02-27 08:15:34 | 歴史から学ぶ
 木曽谷の中心地であった木曽福島町は、中山道の宿場町であり福島関所や代官所がおかれていた。平成17年の人口は7千5百人ほどで、木曽の中心地とはいえ、過疎化が進み、若い人たちが留まれない環境があった。ところで、木曽郡とはいうものの、1968年までは西筑摩郡と言われていたもので、なぜ言われていたかといえば、もともと現在の東筑摩郡とともに筑摩郡というひとつの郡内だったためである。1879年に分割されたのちに西筑摩郡となったもので、約90年ほどは西筑摩郡と言われていたわけだ。木曽郡と呼んでいる時代よりも、西筑摩郡と呼ばれていた歴史の方が長いわけだ。

 木曽谷は、国道20号という幹線道路と中央西線が谷の中のそれぞれの町村を結ぶ手段で、ひとたび災害でも起きると通行が遮断される環境にある。災害どころではない、国道20号で事故でもあったりすると、この幹線道路は大渋滞となり、この谷を通過するのは不可能となる。それほど生活するものにとっては不安定な環境にある。田中知事時代に木曽川右岸道路の建設が始まり、ようやく複合的な交通手段へ向けた取り組みが始まったところである。とくに木曽高速とまで言われる国道20号を生活道路としても利用していたわけだから、悪く言えば、通過する大型車両の恩恵は何も受けずに、排気ガスの公害とそれらの通行車両に追いまくられるという危険な交通環境に共存していたわけである。そんなこともあってか、谷の中はひとつではあるものの、木曽谷全域でも3万5千人程度という人口でありながら、全域がひとつで市制を敷くという合併にはこぎつけることがてきなかったわけだ。のちに木曽中北部での合併を模索したが、上松町と木祖村は合併反対と住民投票や意向調査でわかり、離脱した。残る日義村・開田村・三岳村と王滝村が合併に進んだが、王滝村は財政状況が極めて悪かったために離脱して、4町村において平成17年11月1日に木曽町として発足した。合併しても人口は1万4千人弱ということで、山間を抱えたこの地域にとっては厳しいことに変わりはないわけだ。それでも平成18年に開通した権兵衛トンネルによって、木曽谷と伊那谷が短時間で結ばれるようになり、木曽谷の北部地域に人たちにとっては、少し明るい材料となっていることは確かである。

 パンフレットは昭和54年に送っていただいたもので、表紙の写真は7月末に行なわれる〝神輿まくり〟のものである。このように神輿を転がす荒っぽい祭りで、転がすことを〝まくる〟というそうだ。

 木曽福島から旧開田村への道沿いに黒川谷というところがある。割合開けた感のあるのは、開田村と木曽福島を結ぶ間にあるというその立地のせいだろうか、木曽谷しては比較的明るさを感じる地域である。なぜ明るいかと聞かれても明確にはいえないのだが、ほかの木曽谷地域よりも空が広いという印象が、そうさせているのかもしれない。その黒川谷に清博士というところがある。「せいばかせ」とわたしは呼んでいたが、人によっては「せいはかせ」というらしい。ここに二基の五輪塔があって、地元では清明様と呼んでいる。この塔は安倍清明の墓と言われてきたもので、もともとは清博士ではなく、清墓士と書いたともいう。ご存知のとおり安倍清明は平安時代の陰陽師として有名である。この近辺に安倍清明の伝承はほかにはないようだから、終焉の地という証拠はない。安倍清明の墓としては、一般的には京都の嵯峨にあるものが知られていて、黒川の墓はあまり知られていない。わたしがはじめてこの清博士を知ったのは、たしかシバザクラがたくさん植えてある場所があって、そんな風景を写真で見てのことだった。のちにそのシバザクラを目当てに訪れたわけだが、その後もこの谷の道祖神を訪れている。黒川谷のあちこちに特徴ある道祖神があって、ゆっくり訪れるにはまとまった地域でもあった。写真は昭和63年5月8日に撮影した清博士の道祖神である。



 消えた村をもう一度⑰
 消えなかった村③
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週末の疲れ

2007-02-26 18:35:55 | つぶやき
 歳をとると日の過ぎるのが早い、と昔からいうがその理由のひとつに、自らの行動が鈍くなって、今までのようにはかどらないからそう感じるというものがある。「もっといろいろできたはずなのに、どうしたんだろう」なんて毎日のように日が暮れると思うのだ。

 先週の土日は、妻の実家に行ってヤマツヅシの下草刈をした。月曜日が現場直行だったということもあって、日曜日も遅くまで作業をしたが、普段なら日曜日はなるべく遠慮する。なぜかといえば、翌朝早くに長野まで発たなくてはならないからだ。それもまた歳のせいかもしれないが、150キロ余などたいした距離ではないとは思うのだが、平日はほとんど車を運転しないのに、週末に運転するそのわずかな距離がけっこう身体にこたえるのだ。寝不足でいると、月曜日などは眠くなる。そのまま遅くまで仕事をして次の日を迎えるとなると、疲れが残ったまま一週間が続く。だから、わたしにとっての土日というものは、本当に休日にしたいところだが、土日しか家にいないから、やらなくてはならないことがある。平日にはできないからだ。となると、ますます身体は動かない。そう思うと途端に厄介な塊が身体の中にやってきて、腰をあげさせないのだ。加えて仕事を持ち帰るが、それもできずに再び長野へ向うこともよくあるケースである。だから先週のように、月曜日の朝に余裕があるだけで、わたしの気持ちはずいぶんと晴れるのである。だからこそ、日曜日も遅くまで仕事をしていても気が重くないのだ。そんなことを続けていてつくづく思うのは、自宅から通っている人たちとの大きな違いである。いつでも自宅の用事が済ませられるのと、土日に集約しているのとは大きな違いである。アパート暮らしならともかく、地域に自らの家を構えているということはそういうことなのだ。

 世の中は、わたしのように遠方に働きに行っている人は少なくない。家族と離れることを避けるために、結局家族とも仕事の都合にあわせて移動する。そんなことがつながってただでさえ廃れきっていく地域が、ますます顔を失っていく。さまざまな課題があるから、顔の出せない世帯も出てくる。消防団の活動を支援するという知事の政策が出されたが、もっといえば、地域を廃れさせない活動をする民間事業者にはもっと保護策があってよいと思う。ところが、そんな事業者のひとつである土建業は、今や仕事がないといって外国に社員を派遣する時代である。小村の土建業なんぞは風前の灯火であって、市町村への一般競争入札の導入はいったいどんなことになるだろう。先ごろも長野県の発注した災害復旧工事を、遠方の業者が請けたという話を山間地で聞いた。たいして大きい工事でもないのに、どこからともなく業者はやってくる。そんなことはもう当たり前になっている。視点を変えれば、モノの移動を生む行為は、環境破壊への手助けともなる。知らず知らずに遠い地の種を運んでいるのだから・・・。もちろん無駄な行動は、無駄なエネルギーの消費にもなる。競争意識がそれほど大事なのか、と思わざるを得ない。
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スケートのできなくなった池

2007-02-25 07:30:16 | 歴史から学ぶ


 飯島町から飯田市へ向う県道飯島飯田線から10分も山へ登ると、千人塚と言われる場所がある。場所というよりは池といってもよいのだが、実は千人塚という池ではなく、城ケ池というのが正式な名称で、千人塚はその池の端にある塚のことをいう。しかし、一般に千人塚という名称が知られていて、そこに池があることから、その一帯を総称してそう呼んでいるようにも捉えられているし、また池のことをそう呼ぶ人も多い。事実、わたしも子どものころ盛んにその池に行ったものだが、池のことを千人塚と言うものだと、しばらくは思い込んでいた。町民に池の名前を聞いても意外に城ケ池という名を知らない人がいるかもしれない。

 写真は午後の日差しが逆光になりつつある時に撮っているから、山がはっきり写っていないが、かなり近くに南駒ケ岳の山々が見える。そんなスポットだけに古くから観光開発がされてきた場所である。すでに2月も末だけに池がさざなみをうっていても不思議ではないかもしれないが、かつては伊那谷のスケートのメッカでもあった。子どものころ盛んに行ったのもスケートをしに行ったもので、あまり好きではなかったスケートであったが、ここへ来ては練習しているうちに、そこそこ滑れるようになったもので、その楽しさがわかったのもこの地からだ。ほかでは滑れなくとも、ここのスケート場のシーズンは、そこそこ長かったように記憶する。家からは5キロくらいあったのかもしれないが、それを歩いてやってきたものだ。ところが、30年ほど前には、期間にして1ヶ月も滑れなくなり、しだいにシーズンは短くなり、20年ほど前にはまったく滑ることができなくなった。せいぜい中学生くらいまでしかスケートはしなかったから、その後の詳細はあまり定かではないが、千人塚で滑れないともなれば、よそではほとんど滑れなくなっていたはずである。

 暖冬と叫ばれて久しいが、今に始まったことではなく、ことスケートというスポーツからみれば、何10年も前から伊那谷のスポーツから姿を消したような状態である。かつて田んぼに水を張って凍らせ、授業でスケートをやったなんていう経験は珍しくなりつつある。それでも氷の張るような田んぼを確保している学校では、今でもスケートを取り入れているところもある。今年はともかく、高森南小学校は、日影の田んぼに氷を張り、子どもたちが滑る姿を数年前に見た覚えがある。とまあ、昔はウインタースポーツといえば、このあたりではスケートだけであったが、のちに近隣にスキー場ができてくると、スケートをやっていたなんていことはまったく忘れられたように、学校ではスキーを取り入れるようになったものだ。ちょうどそのスキーに転換されていったころは、スキー人口が多くなったころだったように記憶する。世の中の若い人だれもがスキーをする時代に進んでいったのだが、そのスキーも今では衰退の一途で、世の移り変わりの激しさを覚えるわけだ。

 ちなみにこの千人塚の由来は、現在の松川町上片桐にあった船山城主の臣がここに城を構えていたといわれ、天正10年の織田攻めの際にその城は落ちたと伝えられ、その際の戦死者を埋葬した場所といわれている。また、近世になると悪疫が流行り、この塚の崇りを恐れて天保15年に千九人の童子の碑(現在残っている碑)を建てて祀ったようで、その後も供養されている。池そのものは農業用水を目的に昭和9年に造られたものであるが、この一帯を伊那谷断層が走っていることも、最近はよく知られている。
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事故に遭う

2007-02-24 11:03:04 | つぶやき
 何度も高速道路での危なさや、運転での対外者とのやりとりに触れてきたが、昨日はそんな事故になっても仕方ない状況に、1日で2度経験することになった。どちらも急ブレーキを踏み込んで回避しようとしたわけだが、一度目は見事に事故とあいなった。けして安全運転をしていても事故は起きるものだから、100パーセント事故に遭わないとなれば運転を回避する以外にはない。

 仕事で現場へ向う途中、県道から村道へ分岐してすぐのカーブでその1度目の急ブレーキを踏むことになる。小雨が降って路面が濡れていた状況のなかで、左カーブへ入った際に事故となった。普通ならカーブは直線部より広くなっているものだろうが、そのカーブの部分だけが、その周辺では狭い。普通ではないといえばそんな事故を呼ぶ環境と想定だきるから、本来ならもっと減速しなくてはならないのだろうが、何度も通っているその道で、対向車に遭ったのは昨日が始めてであった。そんな今までの経験からくる思い込みというものが自分にもあったことは確かで、〝なぜ〟と思う対向車の動きを責める以上にそうした自戒も必要なのだろう。その対向車を確認した際に最初に思ったのは、「右側へ膨らんで走っている」という印象で、対向車はS字に近いカーブを通過して、最後のカーブに入ってきたわけだ。だから、どうしても道路の真ん中よりに入ってくる。気がついて左にハンドルを切るだろうと一瞬は思ったが、こちらに向って走ってくる。一瞬のわたしの「ハンドルを切るだろう」という判断が、ブレーキを踏むほんの少しの遅れを生んだ。最初に車を確認したときに、こちらに向ってくると判断してブレーキを踏み込んでいれば、もしかしたら寸前で停止できたのかもしれないが、いずれにしても100パーセント停止できたともいえない。なぜこちらに向って走ってくるのだろう、という印象は、衝突後に運転手に掛けたわたしの言葉からも伺える。「余所見をしていたんですか」が第一声だった。なかなか車から出てこなかった対向車の方は、おそらく動転していたのかもしれない。中年の女性であった。衝突したところで止まったものの、どちらも少し動いてから止まった。他の車の通行に支障があるため、わたしは少し車を移動して停め、相手は最初に停まった場所にそのまま車を置いた。それほど移動していないその車の停止位置を見ても、どこが衝突地点なのかは明確には解らなかったが、自らの軌道を想定しても、ブレーキ後に滑っていて衝突した時点ではどちらも道路の真ん中にいたのかもしれない。センターラインはなく、一見すれ違いはできないカーブなのかと思うが、その後現場の帰りに、相手と同じ軌道でこの道を会社に戻ったが、すれ違いのできない道幅ではない。

 保険のこともあって派出所に出向いて事故証明をだしてもらうよう手続きをとったが、警察が言うように、法規を守っていれば事故の起きるはずはないのだ。見通しが悪いから徐行運転は法規上は常識だ。とすれば、わたしのスピードは県道から分岐したあとだから減速はしていたが、やや下り坂という状況で徐行ではなかった。相手側は左側走行ではなかった。相手の方も毎日のように通っている道だから、よく知っている道、こちらも頻繁に訪れていた現場だからほとんど頭の中でイメージできる道、そんなお互いがわが家の庭のように知っている場所だからこそ、事故は想定外だったわけだが、それが落とし穴だったわけだ。

 このケースにはもうひとつ事故が起こるべくして起きた環境があった。相手側の車は左ハンドルであった。異常に衝突間際まで相手側の反応が鈍い、と感じた原点に左ハンドルという相手側の運転ポジションがある。右側にポジションがあれば、もっと相手側は左にハンドルをきったはずだ。わたしの方は、左に切ろうとしても擁壁があって切れなかった。いや、左カーブで下りともなると、なかなか切ろうとしても切れなかったかもしれない。なんともいえないが、右ハンドルであったなら、もっとその危機感を、相手は察知していたはずだ。

 年度末へ向って忙しくさまざまなことが頭の中にめぐる。それは仕事だけではなく自らの生活にかかわる部分でもせわしい。2度めの経験は、そんななかで自宅に帰る高速道路で起きた。もちろん夜間だから車間の感覚は通常よりは把握し難い。この日はふだんとは少し雰囲気が違う。昼間の事故のこともあって、帰宅の時間が少し遅かった。午後8時代ともなると、通勤時間帯にくらべれば若干通行量が減る。しかしその分追越していく車のスピードは速い。追越車線に入ると、そんな雰囲気も手伝って、知らず知らずに140キロくらい出ている。ふだんならもっとスピード感が認識できるのに、この日はそれがない。眠気はないが、スピード感がとれないほど、悩みなのか疲れなのかわからないが溜まっている。追い越していく車をやり過ごして、追い越し車線に入りしばらく走っていると、急に大型車が追越車線に入った。スピード感がとれていないから、急に入ったがそこそこスピードが出ているものと思い込んでしまった。ブレーキを踏むという意識がそのとき生まれなかった。ところがその大型車、おそらく80キロ以下で追越車線に出た。そのあたりから登りに入るということで、ブレーキを踏んでいるわけではないが、まるで急停止したように大型車はわたしに接近した。まさに〝ぶつかる〟というのがわたしの印象だった。後ろとの車間はそこそこあったので追越車線で急ブレーキを踏んでも大丈夫という判断は咄嗟にしたが、停まれる自信はまったくなかった。この場合同じ方向に向かってそこそこの速度で走っているから、意外にも〝ぶつかる〟と思ってもぶつからないものだ。停止はしなかったが、ブレーキ痕がのこるほどの減速でなんとか回避していた。〝ぶつかる〟という経験は何度もあるが、〝もうだめだ〟というほどの経験はそう何度もない。それを1日に2度経験してしまったことに、運転というものも精神的な部分があることを認識するわけだ。
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終末は土曜か日曜か

2007-02-23 08:14:51 | つぶやき
 わたしは一週間の始まりは、日曜日だと思っている。おそらくそれは正しいと思うのだが、このごろはそれがよく解らなくなってきている。常に持ち歩いている小さなノートは、その日の予定や、あったことを書き入れている。もっといえば日記のようなものも兼用しているのだが、あったことが記録されているだけだから、内容は薄い。そのノートの見開きは、月曜日から始まり、日曜日に終わる。毎日そんな場面を開いていると、しだいに一週間は月曜日に始まるものだと思い込んでしまう。

 ところがそのノートにあるカレンダーを開くと、一週間は日曜日に始まっている。始まっているといってもカレンダーの最も左端にある曜日をもって始まりと認識しているだけで、本当はそれが始まりだと意識してこのカレンダーが作られているかは定かではない。自分の記憶も曖昧になって、いくつもカレンダーを注視してみると、最左端が月曜日のカレンダーもけっこうある。注視するまでは最左端は日曜日と思い込んでいた。昔はどうだっただろうと記憶をひも解いてみるが、わたしの記憶は正しいと思う。土日が休日という今の平均的勤労の実態からしてみれば、月曜日が始まりであるに違いない。しかし、昔からカレンダーを見ては最左端に日曜日があることから、それが週の始まりだと意識していた。

 しかしである。終末という言い方はあきらかに週の終わりを意味する。土日が最右端に並んでいると、まさに終末である。ニュースでの週を現す言葉を、いろいろ聞いてみても月曜日が週はじめとされている向きがある。とすれば一週間は月曜日から日曜日をワンサイクルとしているのだろうか。
 
 さて、われわれは土日が休日だから、月曜日が頭にあるノートがちょうど良い。ところが、みんながみんな土日が休日とは限らない。月曜休業もあれば水曜の休業の人たちもいるだろう。そん人たちはカレンダーやカレンダー式のノートなんかをどう利用しているのだろう。当たり前のように世の中の常識の世界にいたから、何も疑問にも思ってこなかったが、あらためてカレンダーの曜日配置の違いを知ってそんなことを思っている。ついでになぜ日曜日は赤い字で書かれるのだろう。これに関しては、どこのカレンダーも変わらない。「日」が太陽を思わせるから「赤」なんだろうか。

 このごろは日めくりなんていうのは少なくなったが、子どものころにはカレンダーなんていうものはそれほど農家にはなかった。むしろ日めくりが当たり前のようにあって、それをめくるのは子どもや年寄りの仕事だった。必ず暦としてさまざまなことがそこに書かれていて、旧暦のいつなのかもすぐにわかった。しだいにカレンダーが一般的になっていった。当初はカレンダーにも旧暦や十干十二支など書かれたものが多かったが、このごろのカレンダーは何も書かれていないものも多い。これほどコンピューターが当たりまえで、常に画面が開かれている時代なのに、カレンダーだけは昔と変わらず必需品だ。変わらない小物のひとつかもしれない。
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貧乏暇なし

2007-02-22 08:15:27 | つぶやき
 不思議なことだとわたしは思うのだが、きっと世の中は違うのかもしれない。先ごろあったスキーバスが大阪府の吹田で事故を起こしたニュースは、意外にも毎日のように長野県版ではなく、全国版のニュースの話題に上っている。毎日のように変死体が見つかっただの殺人事件があっただの報道されているのに、そうした凶悪事件の方が隅に追いやられているようにも思う。

 長野県松川村のあずみ野観光バスは、家族ぐるみの営業をしていたようで、過酷な勤務状態だったようだ。スキーバスという季節労働的な部分もあったのだろうが、そこまでして働かないと、人並みの生活ができないのか、それともそこまでしてお金を稼ぎたいのか、どうなんだろう。運転手が21歳、亡くなった添乗員が16歳と聞いた時、「なんでそんなに若い衆がやっているんだ」と耳を疑った。大型二種で21歳となれば免許取りたてにのようなものだ。それでもって毎日のように運転していて休みがなかったという。なぜこんなに若い人がそこまでして働くのか、驚きというか、それほど運送業界を含めて、この世界は大変なことになっているのだろうか、と改めて認識する。いっぽうで派遣社員が若い人たちに多く、正規雇用でない人たちは自ずと所得は低くなる。なぜ、こうも労働というものがちぐはぐなんだろう。そう思いながらも昨日もまた、ずいぶん遅い時間にわたしも帰宅した。そんな遅い時間でも世の中は、まだ仕事をしている人たちが多い。年齢を重ねると、とても午前様の仕事はできそうもない。しかし、帰宅しながら灯りの点く建物を目の当たりにすると、やはり「なぜこうも働くのだろう」なんて思ってしまう。無駄なことばかりしているから、手が遅いから仕事が進まないんだと、常に自らに諭している。しかし、そうこうしながら、わたしの無駄が世の中のエネルギー消費を増やしている。

 妻がよく使う言葉にこんなものがある。「コンピューターなんかを使うようになったからおかしくなった」と。妻はコンピューターが使えない大変珍しい人だ。いや、わが家でコンピューターを使っているのは、わたしぐらいのもので、コンピューターを毛嫌いしている母は、息子にもあまり使わせない。わたしはそれは正当だと思うが、今まで使ってきたわたしから、それを取り上げられたら自分が消えてしまいそうだ。しかし、なくなってもけして困らない暮らしを想定している自分もどこかにいるから、絶対なくてはならないものではない。つい先ごろまでフィルムカメラは生き残れるか、なんていう活字を見て先々を案じていたら、フィルムカメラ撤退が相次いだ。今やアマチュアカメラマンといって群がる集団も、ほとんどデシタルカメラのようだ。こんな大胆変化はとてもわが家の生きる世界ではない。でもそれをよく考えると、まるで山奥の老夫婦みたいだ。だからこそ、危険な労働を綱渡りしている人たちが、とても立派に思えるが、もっと気楽にできないのか・・・なんて思うばかりだ。こんなに働いている人たちがいるのに、お金はどこへ行ってしまっているのだろう。芸能人が、趣味で絵を描いたり、旅行に行ったりと、けっこう自由に生きている。とても忙しいと思うのに、いつ絵なんか描いているんだ、なんて思うことがよくある。まさに「貧乏暇なし」が体感できる世界に、わたしはいるんだ、と知るわけだ。
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「伊那谷の南と北」第1章

2007-02-21 08:12:31 | 民俗学

第1章 「奥」というところ

 下伊那と上伊那、そういう比較は昔からされていた。松村義也氏は『山裾筆記』(信濃教育会出版部・平成3年)のなかでこんなことを書いている。

①「上伊那の方は奥と呼んで、ごっついとこだと決めていたことがあった。こちらへ嫁ったことを、へぼいとこへ行ったと思われたものでした。飯田近辺は何たって派手だった。下伊那は当時養蚕景気で、生活やすべてがべんこうっていうかはいからだった。嫁ってきたころ、こっちでは火端に寄っちゃ話をするのを聞いていると、愛国(稲の品種)がどうの、しまぼうずがどうの、はちはちがどうのと米作りの話っきりだった。養蚕の話なぞめったにしなかった」

 これは、下伊那の高森町の山吹から、上伊那郡飯島町へ嫁いだ明治41年生まれのおばあさんから聞き取ったものという。明治41年生まれといえば、わたしの祖母より少し年上くらいだから、わが家と似た環境だ。きっと昭和初年に嫁いできたのだろうから、そのころは養蚕がよかったのだろう。養蚕の良かった時代は、米より養蚕の方が銭になった。だから水田が多かった上伊那は、下伊那にとっては銭にならない地域と捉えられていたのだろうか。その後の養蚕の低迷をみれば、そう言われていたのは一時のことだったのかもしれない。

 続いて松村氏は次のようなことも書いている。

②「飯田の人達は、私達上伊那方面から来た人間を「あいつは奥の人だ」といいました。奥とは、今の言葉でいえば、低開発地、未開発地、詰まり、野暮野蛮人だという訳です」

 この言葉は、森下二郎先生の思い出から飯田の方が語っているものだが、森下氏は現在の下伊那郡松川町上片桐の人だった。昭和の合併で郡を越えて合併したために現在では下伊那郡になっているが、元は上伊那郡である。

 ①と②、それぞれに共通していることがあるが、そのことに松村氏が気がついていたかはわからない。その共通点とは、どちらの言葉も飯田とか伊那、あるいは赤穂といったマチ場の人の言葉ではないことだ。①は山吹から飯島へ嫁いで言われたこと思ったこと。②は上片桐から飯田の旧制中学に通って言われたこと。対象者はどちらも村部、郡境域の人である。果たして飯田のマチから赤穂のマチへ嫁いだり、伊那から飯田の中学に通って同じことが言われたか、と考えると、わたしには少し言い回しが変わっていたと思うわけだ。とくに①の事例は、どちらも村部であって、嫁いだ女性は、生まれ故郷を良く言いたかったのではないか、とそんなことを思うわけだ。おそらく語った時は、すでに養蚕は廃れていて、米を作れる地域の方が良かった時代のように思う。そして②にいたっては、たまたま上伊那から来た人に言われた言葉だったが、同じ下伊那郡内でも、飯田のマチ意外から来た人には、さげすんだ見方がされていただろう。

 さて、以上はマチとムラを対比すれば自ずと出てくる言葉の事例としてとりあげたのだが、松村氏が指摘するように、下伊那より上伊那、いわゆる天竜川をさかのぼるほどに「奥」という言い方をしていたことについては、両者の地域性を作り上げていった原点のような気がしてならない。実はこの「奥」という言い方は、わたしの時代にはすでになかったものだ。なぜそれが言えるか、といえば、同じように上伊那境から飯田のマチにある高校に通ったのに、そんなことを言われたことは一度もなかったからだ。だから、この松村氏の本、あるいは同じことに触れている向山雅重氏の「伊那谷の南と北」(『長野県民俗の会会報』6・・・長野県民俗の会)を読まなければ知らなかったことで、意外だったわけだ。わたしには上伊那よりも下伊那の方が例えば上伊那の中心の人たちにはさげすんで見られている、という雰囲気があったからだ。それを自ら実感するために、わざわざ飯田のマチにある高校へ進んだようなものだ。だから自ら体感したものだから、あながち間違いではない、という意識が今でもある。ところが、この「奥」という言い回しを知って、両者の地域が交わらない実態の根底を示しているように思えてくるのだ。序章で松崎愉さんが語ったように、両者は同じ空間にありながら、意外にお互いを知っていないのだ。そして、松崎さん以外の方たちのグローバルな物言いは、裏を返せば、お互いを認めたくないからグローバルになるのでは、なんてちょっと悪く捉えてみたくなるわけだ。

 「奥」という言葉は、ある空間の中では、良い言葉とはとても思えない。「奥の方」とは、「山の中」とか「奥まったところ」という意味合いがあって、マチとか中央からすればムラとかヤマ、あるいは周縁とか遠い場所という印象が払えない。どう考えてもさげすんだ言い方だ。そういう言い方が一時的か長期的かは定かではないが、現在言われていなくとも、かつてあったということが上下の意識を際立たせているように思うわけだ。ただ、松村氏は「同じ上伊那のうちでも、赤穂辺の人たちは、西春近・東春近というともう「奥」と呼んできた」と述べているが、これはあくまでも赤穂のマチの人たちが、田舎の人たちをさげすんだ言い方の一地域として春近をみていた事例で、必ずしも赤穂と伊那を対比して言っていることではないと思うわけで、必ずしも「奥」という言い方が天竜川の上流を指していたかは明確ではないことは認識しておかなくてはならない。


 「伊那谷の南と北」序章

 

 「伊那谷の南と北」第2章

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座って小便

2007-02-20 08:16:31 | ひとから学ぶ
 2/18のフジテレビの「スタメン」おいて、男が小便をする際に座便器に座って用を足す人が多くなってきていることについて触れていた。このことについては、今までにこのブログでも触れてきており、それについてはHPに「便所のはなし8題」としてまとめてある。とくに第4章では「便座器のもたらした変化」と題し、座便器のことを書いている。便所という世界は、どちらかというと闇の世界の話だから、気がついたら3割、4割の人が座便器に座って用を足していた、という感じなのかもしれない。わたしにしたら意外な数字とは思わないのだが、ビックリしたからテレビ番組で扱っているのかもしれない。これが闇ではなく、人目につく世界のことだったら、「そんな恥ずかしいことするなよ」と男性同士で冷ややかに見られたりして、これほど急激に広まらなかったのかもしれない。

 座便器に座って用を足す以前に、男性トイレでズボンを下げて用を足す人を若い人たちに見ていた。なぜ社会の窓を使わないのか、と考えたものだ。スタメンにおいての激論のなかで、爆笑問題の田中裕二が、トイレに行って社会の窓を開けるより、ズボンをさっと下げて座った方が〝早い〟と主張していた。これに対し、同じ爆笑問題の太田光は〝そんなことはない、座るほうが時間がかかる〟と言う。実はおおかたの立小便派の男性は、太田光に賛同するだろう。ところが、ズボンを下げて立小便をする姿を見ていて思ったのは、この若者たちは、トイレで用を足すことをササッとすばやくしようとはまったく思っていないのである。悠長にズボンを下ろして用を足すと、再び悠長に身なりを整えているのである。トイレではなく化粧室といわれる所以なのかもしれないが、ようは「急いで用を足す」という言葉などそこにはないのだ。実は、今の子どもたちにはもしかしたら社会の窓を開けるより、ズボンを下ろす方が早いと思っている人が多いかもしれない。いや、それを意識したことはないかもしれないが、実際社会の窓を開けるという指先の細かい動作よりも、ズボンをガバッと下ろす動作の方が不器用になった今の時代に即しているはずだ。一昨日も妻との会話で話題にあがったのだが、今の子どもたちが剣道をするなんていうと、防具を付けるだけで大変な時間を要してしまうというのだ。だから楽チンに取り付けられるマジックテープ式が汎用化してきているという。世の中すべてが細かい作業をさせなくても良くなっているから、古い時代の感覚で捉えても今の時代には当てはまらないことはたくさんあるのかもしれない。こんな状況だから、今の子どもたちが成人するころには、たち小便する男性は2割とか3割しかいない時代がくるかもしれない。

 服装のユニセックス化なんかもこうした事象への手助けをしているような気がしてならない。服装がユニセックス化する正確な理由は知らないが、兼用することができる、あるいは省力化できるというメリットはあるかもしれない。日本のように住宅事情が〝狭い〟空間の有効利用から始まると、どうしてもトイレそのものもユニセックス化が求められる。かつて別々であった際にはそれほど意識しなかったことが、兼用化によって意識せざるを得なくなるわけだ。とくに陰部をさらけ出すという闇そのものの世界だけに、汚い=闇に吸い込まれる、見たいな感情がどこかにあるに違いない。男同士ですら小便の飛び散ったようなトイレで用を足すのは、はばかりたいほどだ。それを異性である女性がそんな空間で陰部をさらけ出すともなれば、嫌に決まっている。トイレを我慢したくなるのもわかる。ようは兼用化したことによる闇世界の広まり、とそんなことを思うわけだ。男性トイレを女性に兼用化させることはできないから、女性のトイレを男性に兼用化させた。いわゆる男性空間の省力化、リストラだったわけだ。

 さて、だれでも座って小便をするようになると、下着から男性用の窓が消えるかもしれない。すでにこの窓を利用していない人たちは、座って小便をしなくとも、かなり増えているように思う。前述したように、若者はすばやく用を足すことすらしなくなった。「座って小便をする」という事象以外にも、細かいところを探っていくと、かつてでは考えられないような変化が知らない間に進行しているかもしれない。
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ガス欠経験

2007-02-19 08:09:35 | ひとから学ぶ
 今でこそ、長野と伊那谷を週末に往復しているから、燃料を入れるのはその行程の中のどこかである。だから、燃料タンクの半分を少し下回ったところで給油しているのが現状である。これが毎日乗るようになると、一定の時期に給油するという形が崩れてくる。おそらくエンプティーに接近して給油することは確かである。ちまたでは水が溜まるから、なるべく燃料タンクは常に満タンにしておくことが良いというが、銭なかった若いころの癖が抜けきれない。

 先日会社内で「山の上の方の現場に行って、燃料計を見てかすかすのことに気がついた・・・」という話が話題になった。それぞれがそんなかつての苦い経験を話すが、その経験談は大方、自らが招いたものではなく、同乗していた運転手がうっかりしていたというものである。意外にも、そういう経験を自らしたという話があまり出なかったのだ。そこでかつてディーゼル車に乗っていた時代の燃料切れの経験談をするのだが、そんなことを口にしながら思いついたのだが、「もしかしてみんな、車に乗ると燃料計を確認するの」と問うと、けっこうそういう人が多い。「堅い」まさにそう思った瞬間である。わたしなどは、燃料計を確認せずに、気がつくとエンプティーを下回っているという経験が頻繁にあった。ところが長野へ転勤してからというもの、まず現場がそれほど遠くないこと、そして常に燃料が満タン近くを示しているため、そんな経験はなくなった。3年もいるが、そんなことは気にもしていなかったが、よく考えてみれば、この会社にいる同僚たちは、減れば必ず給油するという堅い人たちが多いという証なのだろう。その人たちの恩恵に預かったがために、燃料切れでひやひやするという経験がこのところないのだ。加えて自家用車も前述のように、定期的に入れざるを得ない状況だから、自ずとエンプティーラインに接近する経験がなかったわけだ。

 わたしの場合は、車に乗っても燃料計に目をやることはめったにない。「あるものだ」と思い込んでいるわけでもないのだが、どうも忘れてしまう。自家用車に乗る際には、燃料計が気になるのだが、それは銭がないからやたらと消費が気になるのだ。ところが会社の車となるとそんな気を使う必要がないから、どうも目をやらない。燃料がかすかすで「困った」と思うのは多くは会社の車に乗ったときだ。若いころは、そんなことに現場で気がついて、先輩に言うと怒られると思って、黙ってかすかすのまま走っていたことが何度もある。かろうじてガス欠で止まってしまう、ということはなかったが。ところがガス欠で止まった経験があるのは、自家用車に乗っていてのことである。自家用車の場合は燃料計を確認しているのだが、「まだ良いだろう」なんて思っているうちに入れそびれてしまうのだ。その延長でガス欠になるのだ。どうもほかのこともそうだが、タイミングを逸する性格のようだ。

 さて、あらためて会社で他の人たちに聞いてみて、燃料計を確認するのは常識だということがわかった。またまた自らのいいかげんさに気がついたしだいである。
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世の中に安全運転はない

2007-02-18 09:38:58 | ひとから学ぶ
 危険な道、高速道路の通勤時間帯のことは今までにも触れた。交通量が多い上に、大型車もそこそこ走っている夕方は、暗さも手伝って危険いっぱいである。このごろはあまりスピードを出さないでいるが、一度追い越し車線に出ると、いつ走行車線に戻るかで迷うときがある。とくにスピードを落としていると、よけいにそう思うのだ。心理的なことを考えると、安全運転が必ずしもどういう運転なのかは明確にいえない。このケースをもう少し詳しく検証してみよう。通勤時間帯の場合、走行車線は、ほとんど車がつながっている。時おり車間が100メートル以上空いていることもあるが、その際に走行車線に戻るかどうかは、追越車線上のスピードにもよる。例えば走行車線を90キロ程度で走っている。どうしても遅い車がいるから、追越車線が空けば、追い越しに入る。ところが、100キロ超に加速したとしても、のんきに走っていると後続があっという間に迫ってくることはよくある。そういうケースは後ろを気にしていない人はどうでもよいかもしれないが、後ろから迫られることによる危険性を回避したいと後ろを認識している者には避けたいケースである。だから、ある程度スピードをあげる。すると、少し空いている走行車線に入るためにブレーキまでかけることはなくとも、かなりアクセルを戻すこととなる。そうした出入りの激しい運転は、疲れることとなる。その延長線に危険を伴う空間が生まれるわけだ。

 まったく走行車線に入ろうとせずに、追越車線を100キロ以下で走っている車もかなりいる。そんな状況だから左側から抜こうとする車も多い。走行車線から、いきなり右へ移動する車もいる。走行車線が必ずしも安全ではないことはよく解る。これはわたしの感覚ではあるが、追越車線をそこそこのスピードで走り続け、走行車線の車をよく観察しながら走ることが最も安全である。よく観察しすぎると疲れるから、まず車間が詰まっている場合は、走行車線に出てくる可能性があるから躊躇せずに一気に抜き去る。とくに大型車の場合はいきなり追越車線に移動することがあるから、とくに気をつける。

 と、まあそんな具合がベストかもしれない。もちろん交通量に合わせた安全な空間があることは言うまでもない。

 さて、危険なのは高速ばかりではない。一般道で気をつけるのは、他人の嫌がらせに会わないことだ。前に車がつながっているのに、後続車が接近してくる場合は、まずさらに前車との車間をとることだ。よほどそれが頭にきている後続車は、車間が空いているから抜いていくだろう。車間をとっていなくて、後ろから煽られるほど、生きたここちのしないことはない。また、前車に対しても、信号で止まる際に、どのポジションに車を止めるかで、運が悪いと前車から怒鳴り込まれることもある。そんな経験を何度もしただけに、そのポジションをさまざまに試してみるのがわたしの趣味である。ちなみに、そんな試みをするのなら、長野県内なら「飯田」に限る。それほど危ない運転者が多い。これもまたわたしの長年の経験である。
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知事が変わって半年

2007-02-17 09:47:47 | ひとから学ぶ
 長野県の変化は正しい方向なのか正しくない方向なのか、さまざまな部分で違いはある。田中康夫から村井仁へ、知事が変わって半年が経過する。それまでのしかかっていた圧力から解放されたように元気になっている方たちに県会議員がいる。ようやくまともなやりとりができる、という雰囲気はありあで、それまでの議会では議案事項が否決されることが多かったのに、そんな案件はなくなった。根回しがされれば、自ずと否決されるような案件が提出されることはなくなるのだろうが、それにしてもそれまでの議会とは大きな違いである。田中時代にもクローズアップされた議員の資質という部分では、田中もヘボイが議員もヘボイ、というのが強い印象だった。だから、田中が辞めるのなら、議員もみんな入れ替わって欲しいというのが正直な気持ちであった。けんかした片方だけが処刑されて、同罪のもう片方は活気を帯びているのだからやるせない。

 議員だけではない。活気を帯びているのは市町村長である。それまでは首長との対話というものはほとんどなかっただけに、仕方のないことではあるが、ここぞとばかりに陳情が始まる。けして田中時代がすべて正当だったとは言えないが、県民はいつ変わるともしれない県のトップに振り回されたことは確かで、その振り回された時間をすべて否定されることは県民としても後退としかいえず、その6年ほどは何だったんだ、ということになってしまう。市町村が81あれば81人のトップがいる。その自治はさまざまである。今までにも何度も書いてきたが、長野市なんかの行政を見る限り、さすがに大きいからまともに住民の声は届かない。この市の職員の行動を見ているとまともではない。お役人そのもののように見える。大きくなればなるほどに、一種のサラリーマンである。同じことは大きな塊である県もそうである。住民もまたその怪しい大きな塊を評価するとなれば、入札制度とか世にクローズアップされる公共事業を透明性の、あるいは自治体の量りとして捉えようとするが、本来はそんな視点ではなくもっと違うのではないか、と思うのだ。

 知人のブログ「Governance Archives」では、そんな自治体の職員としてのあり方を解いている。その考え方がすべてではないと思うし、そこまで細かいことを行政職員に望みたいとも思わない。しかし、住民とどうかかわりどう向き合っていくか、という意味では、職員全員が真面目に考えていって欲しいことである。やたらに上に立っている、みたいな意識で人を見ないで欲しいのだ。

 村井仁知事のダムに対する姿勢が曖昧だと、信濃毎日新聞2/17社説で述べられている。これまでダムを選択肢に入れない治水を議論してきたなかでの浅川ダム建設への流れ。報道で踊る「脱・脱ダム」はまさに、すべての治水にダムは選択肢のひとつだと思わせる見出しとして見える。浅川に関しては地域のさまざまな思惑が絡んでいて、代案を出せないほどの現実があった。「すべての人に賛成してもらうことはできないかも知れないが、理解してもらう努力はしていく」という村井知事の言葉は、その背景を考慮すると、ほかに言葉が見つからない。最善の策とトップが考えたことは尊重したいとは思う。しかし、この6年をそっくりひっくり返すような、「どこでもダム」みたいな流れだけは避けて欲しいし、そういう発言を県の内部から出してはならないと思うわけだ。人としては、きっと田中とは比べものにならないほど村井は「良い人」なんだろう。しかし、周りに悪いやつがまだまだいっぱいいることが、心配でならない。
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「伊那谷の南と北」序章

2007-02-16 08:20:10 | 民俗学

 郡境域に生まれ育ったことにより、他地域と比較してさまざまな違いを語ると、自らそれほど意識はしていなくとも、人はそれを歪んだ考えだと言うこともある。そう言われるから、またそれを意識してしまい、自らに問いただす暮らしを、もう何十年も続けてきた。飯田市で行なわれたある研究会での発表に際し、飯田の人たちとよその人たちの意識の違いに触れて、そういう違いを暮らしの中で感じたことはないか、と投げかけたことがあった。その席である地方自治にかかわった方は、そうした意識の違いがあることをあまりそれまで考えてこなかったような発言をされたのである。境界域に生まれ育った者と、地域の中心で育ったものでは、他人に対しての第一歩がすでに違うのである。そうした同じ地域にあってもどこに立地するかによって意識が違うのだから、広範な地域を対象に相違点を上げれば山ほどあるわけだ。

 伊那谷というひとつの空間は、そういう意味ではあきらかにひとつではない。それは南北100キロほどという広範なエリアにあるのだから、当たり前といえば当たり前なのだ。このエリアだけでひとつの県として存在していても、少しも不思議ではない大きさである。この伊那谷を南と北という捉え方で発表されている論文、あるいは随筆などは極めて少ない。おそらく個人的なあまり公になっていないものにはそうした視点のものもあるのだろうが、なかなかそうしたものを目にしたことはない。「南と北」という捉え方をされた方の代表に、民俗学者の故向山雅重氏がいる。東の文化、西の文化の接点という視点で伊那谷を南北に分けて捉えているわけで、多くの人たちがそうした違いを体感しているはずだ。しかし、このごろは文化の接点というよりも、郡の違いという意識の方が先にあって、その違いを探し出す方法として、南北が語られる場合は多い。だからわたしに言わせれば、それは体感ではなく、単なる相手に対しての無知な上に生まれる相違点としかいわざるをえない。向山雅重氏の扱った「南と北」については、後に触れるとして、ここでは、南と北ではなく、上と下という伊那郡の違いに少し触れてみることにする。

 上下伊那のリーダーによる伊那谷を語ったものとして、大変興味深い取り組みが数年前にあった。「伊那谷を語ろう会」というもので、主催しているのは国土交通省の出先機関である天竜川上流工事事務所や三峰川総合開発工事事務所、飯田国道工事事務所、天竜川ダム統合管理事務所である。平成13年から14年にかけて、懇談会を11回開催して、伊那谷を単位として自立と継続的発展を目指し、次世代に誇れる伊那谷の将来像を描いていこうと企てたもののようである。いかんせん、地域のリーダーだから、下々の本当の意識というものが反映されているとはいえないが、両者を互いがあまり認識していないもの同士でやりとりしているという会議はあまりないことから、議事録を読んでいると興味を引く部分が多い。

 平成13年12月13日に行なわれた第8回議事録にこんなことが書かれている。松崎愉さん(有限会社システムアスカ)という方が、「上伊那は下伊那を理解できてないし、下伊那は上伊那を理解できてないというところがあると思うんです。産業にしても多分、飯田・下伊那の方が多種多様な産業が入り乱れていると思うんです。ですから、ある業種の不況によって急激に落ち込むということに対しての強さが、飯田の方は多分あったような気が自分としてはあるんです。それはやはり産業構造とかいろんなものが違うという意味で、こういう「まるごと博物館」(この会議では、たびたび伊那谷全体をまるごと博物館に、という意味でこの名前が登場する)というものを、この地域全体で考えたときには、そこで広域的に考えて、例えば下伊那を知らしめよう、上伊那を知らしめようとかいうようなイメージがどこかにあるとしたら、下伊那には上伊那を知ってもらうべき支所みたいなのがあって、上伊那には下伊那を知ってもらうような、それは形のある建物でなくてもいいんですけれども、そういう丸めた一本の情報をぽんと流すのではなくて、自分は下伊那の人間なので、上伊那のことはよく分からないので、きっと上伊那の情報を欲しいだろうと思うんです。」と述べている。たいへん率直な意見で、ようはこの方は下伊那の人で、上伊那のことはよく解らないので、伊那谷全体という捉え方で何かをしようとするのなら、もっと両者を理解できるお互いへのアプローチがあってしかるべきではないか、というようなことを言いたいようなのだ。これに対してそこに出席されているほかの方たちは、どちらかというとグローバルに伊那谷を見ていて、知らないことがあってもそれが多様であってそれを受け入れていけばよいじゃないか、みたいなことを言うわけだ。しかし、松崎さんは、そんなに理解していないのにグローバルな視点ばかりで言ってもイメージがつかめないと言っている。まさにわたしはこの松崎さんの意見こそが、中央と地域の意識差に似ているように思うわけだ。きれいごと言っても現実的には上辺だけになってしまうから、地道にお互いをまず認識しなければ前には進めないのではないか、という意識が見えるわけで、上下伊那の関係には、まさにそうした現実が横たわっていると思うわけだ。

 松崎さんの言葉に興味が湧き、氏の発言を追ってみると、こんな言葉も出てくるのだ。「町村合併があって、行政区の仕切が変わろうが、町が市になろうが、どうなろうが、この地域全体として私はここが好きだよとか、住んでいるこの辺、例えば中川村あたりに住んでいる人だったら、上伊那と下伊那の両方にいるわけで、どうしてもそこで線を引かれてしまうと、持っていきようがないんだけどというものもあるでしょうし、・・・」と、雰囲気としてこの曖昧な捉え方は現実を映し出している。とくにこの言葉の中にある「上伊那と下伊那の両方にいるわけで、どうしてもそこで線を引かれてしまうと、持っていきようがないんだけど」という部分は、自らそんな意識がわかっているかのような言い回しである。上下に分けられているから、その中に横たわっている人たちは、その枠に入っていることで割り切っているだろうが、上伊那郡でありなが、方向性は下伊那である中川村の人たちは、本当は上下の境界がそこにあって欲しくないと思っているひともたくさんいるはずなのだ。これは、曖昧な境界に暮らしている人たちしか理解できないはずだ。他の方の松崎さんへの言葉を紹介しながら説いていくと、もっと他の人たちと松崎さんの間に壁のようなものがあることがわかるのだが、ここでは松崎さんの言葉だけで、上下伊那を捉えてみた。

 

 「伊那谷の南と北」第1章

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高校入試前期選抜から

2007-02-15 07:46:56 | ひとから学ぶ
 昨日は、県立高校の前期選抜の合格者発表の日であった。試験日は2/5だったわけだが、翌日の地元新聞でも前期選抜試験のことに触れて、成績重視が顕著になってきていると報じていた。自己推薦型といわれる入試制度が始まって3年。当初は制度の様子見のところもあって、自己推薦だからたくさんの子どもたちが、ある意味では「いちかばちか」といった雰囲気で前期選抜試験に挑んだものだ。ごたぶんに漏れず、姪がそのはじめての前期選抜に挑んで撃沈した。様子もわからない、不合格者も多い、ということもあって、そこそこ姪も納得はできたのかもしれないが、やはり〝落ちる〟ということは応えたに違いない。選択する高校側の視点は、しだいに成績重視を前面に出してきている。だから受験する高校のレベルによってどの程度の成績が選抜目安になるかは解ってきているはずである。形ばかりというと異論もあるだろうが、前期選抜は多くの学校は面接が中心となる。それも10分程度というのだから、その時間内で選抜の評価をすることはおそらく不可能だろう。とすれば、成績重視といっているのだから、ますます番狂わせなんてない。それを受験する子どもたちも、また父兄も、どう捉えるかである。

 マル秘と言われる合格目安の一覧が、教員たちの間にはあるという。数年この入試制度が行なわれているから、傾向はほぼ解っている。噂によれば、ほとんど予想通りに成績順に上位から選抜されるという。成績のほかにも学校での活動なども評価に上がるようだが、年を追うごとに成績の方に重みがきているようだ。むしろ資格など方が選抜の評価点を上げるともいう。それほど予想通りというのなら、無理して受験して不合格になるのは「得策」かと問われる。

 さて、今年は息子がその前期選抜に挑んだ。中学に入った当時から評定が入試の時に大事になると言っていたこともあって、そこそこがんばってはいた。ところが、今までにも何度か触れてきているように、中体連が終わった後に、「駅伝をやる」といって受験勉強から逃げに入った。主力は駅伝で進学できるが、補欠の補欠ではそんな美味い話には乗れない。そうこうしているうちに、年末に近くなると、練習の疲れか肺炎にかかって長期に学校を休んだ。自業自得といえばその通りなのだが、本人はどこまでその状況を把握していたか、受験に向かって下降気味の生活が、挫折の前触れかと思わせるほどだった。本人はそんなこともあって、不合格でも仕方ない、あるいは「いいよ、また後期で受けるから」とさばさばしたものだった。そんな顔を見ていたから、「落ちてもあたりまえか・・・」程度にわたしも思えるようになって、発表の日とはいえ、気にもしていなかった。しかしである。わたしと同じような受験生を抱えている同僚がいて、発表の時間になるとそわそわしているのを感じとったわけだ。「そうはいっても、落ちるというのはいいものじゃない」と、わたしにも雰囲気が伝わってくる。高校のHPにアクセスしても通じないということは認識していた。その通り、時おりアクセスしてはみるが開かれることはない。

 午後1時の発表で、学校にも連絡があるというが、授業日ということもあって、子どもたちに知らされるのは下校時以降である。妻が言うには、息子が帰ってくるまで結果を知ろうとはしなかったようだ。ふだんの妻からすれば、ずいぶん落ち着いたものだ。気にもしていなかったわたしの方が落ち着きがなかったかもしれない。受験番号が公表されるから、隣近所の番号の様子がわかる。かろうじてだと思うが、息子の番号はあった。帰宅した息子は、下校後であったが、合否が解るほど落ち込んでいる友だちの姿を目にしたという。どんなに落ちると言われて予想していたとしても、やはり、つらい報告である。担任によっては、合否ラインを認識しているかしていないか知らないが、ほとんど指導しない先生もいるという。「きっと無理かもしれない」と言われればまだしも、何も言われずに挑むのもつらいものがある。こういう制度でやるからには、内申点を受ける子どもたちには公表するべきではないか、そんなことを思う。でなければ「なぜ落ちたんだろう」と悩み、10日ほど後の後期選抜締め切りまでに心の整理ができない子どももいるはずだ。

 挫折することも試練、と息子には言うつもりだった。それをきっかけにもっとがんばる子どもたちいるだろうから、前期に合格すれば良いというものでもない。ただ、多くの子どもたちは不合格から一転して次の目標をしっかり見据えることは、なかなか簡単ではないはずである。制度が悪いのか、それとも無理をして受けないように指導するべきなのか・・・。
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消えなかった村③

2007-02-14 08:17:20 | 歴史から学ぶ
 富士山麓の村忍野村は、人口9千人弱の村である。西に富士吉田市、東に都留市、南側に山中湖村がある。比較的合併が進んだ地域である山梨県であるが、そんななかで、小さな村がそのまま残っている地域が富士山麓に集中している。忍野村が合併しない環境の第一は、交付税不交付団体であることによる。ファナックという会社の法人税収入があるため、黒字経営だと言うのだ。平成15年には交付団体だったというから、毎年不交付というわけではないようだが、そんな財政的な余裕が、合併への道に進まない第一要因だ。加えて、隣接する富士吉田市は赤字経営だというから、わざわざ地域の中心があってもそうしたところと合併は望まないわけだ。逆の立場、いわゆる小さな大赤字の村であっても、大きな市域が合併することに抵抗を示すことはある。詳しいことはわからないが、地域の中心であるとなれば、周辺地域の住民を受け入れるような施設を持ち合わせていることもある。だから、地域の中心地が赤字であっても、そうした広域行政の立場では、あながち抵抗するだけが正当とは限らない場合もある。どうも富士山麓の市町村には、そんなしがらみが多いようだ。一応富士北麓市町村合併研究会というものが設置されたというが、全体での合併は到底ありえなかったようだ。

 富士吉田市周辺では、例えば河口湖町(現富士川口湖町)との因縁の関係があるという。中央道のインターチェンジや富士河口湖高校の建設地や校名問題、河口湖町の富士山山開き祭りで吉田の火祭りの大松明を真似たことによる抗議問題など、両者には相容れない事件が重なる。また、富士吉田市と西桂町の間でも、かつて上暮地地区を富士吉田市に持って行かれたことによる住民感情が根強く残っているという。意外にもそんな話がぞくぞくわいてくる。しかし、そうしたことを抜きにしても、財政難という厳しい状況を踏まえて押し殺している、あるいはすでにそういうつまづきは忘れても地域一体化してゆこうという流れが、平成の合併であったようにわたしは捉えていたのだが、山梨県の事例を聞くと、因習にとらわれて上手くいかない、ということが多くて長野県とは違う様相を知る。だからこそ、中央市とか甲斐市、あるいは北杜市、甲州市なんていうどこにあるのか明確でない、かつての地名を取り払ったような市が誕生するのかもしれない。長野県内でかつての因習で合併がもめているというケースはそれほどなかったように記憶する。新たな行政名が気に入らないといって破談になったり、あくまで自立でいきたいという理由で破談になるのがせいぜいだった。

 河口湖町もそうだが、山梨県には不交付団体がいくつかあるようだ。さすがに東京に近いという立地は、長野県に比較すると、財政的にはまだ厳しくないのかもしれない。

 さて、紹介しているパンフレットは、「おしのの自然」というしおりである。昭和54年3月31日発行と奥付にはある。昭和55年の初頭に送っていただいたものだ。同時に2万5千分の1の地図をいただいたのだが、この地図を見てこの村は妙な村だと思ったものだ。それは山の頂が尊村境になっていなかったからだ。「そんなことはないだろう」と思ってよく見ると、地図全体が二色刷りされていて、村境を示す線が元図と距離にして500メートルもずれているからだった。「これはすごい村だぞ」と思ったのは10分くらいのことで、普通の村だと悟った。村内に自衛隊の北富士駐屯地がある。しおりで紹介されているのは、国の天然記念物に指定されている忍野八海か中心となる。文字のとおり八つの湧水池を総称していうもので、富士山からの伏流水が水源という。池の大きさは大きいもので400m2ほど、小さいものは80m2と小さい。

 実はいつか訪れた時に、と思い昭和55年に「忍野の石造文化財」を購入した。忍野村には信仰系の石造物はそれほど多くはない。そんななか、ここにも道祖神というものがあるのだが、面白いのは石祠を建てると、前にあった双体の道祖神を「隠居さん」というところである。内野集落にそうした隠居さんが二体あるということは知ったが、実はいまだにこの村を訪れていない。

 消えなかった村②
 消えた村をもう一度⑰
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