Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「伊那谷の南と北」番外編

2007-03-31 15:05:52 | ひとから学ぶ
 仕事の引継ぎで伊那を訪れる。久しぶりの伊那での勤務が間もなく始まる。地域性を感じながら、常に自ら生まれた地域、そして生活する舞台との比較をしながらその地域を見る。その感じる風を意識しながらの、人々との対話なのだ。これまでの長野での風とはおそらくまったく違う。それは10年という歳月では変わらない風のはずだ。「あなたの生まれはどこですか」と聞かれることはよくある。例えば長野で聞かれれば、「伊那」と言ったり、「飯田」といったり、なかなかその地域を表現するのに迷うことがある。なぜなのかといえば、長野のある北信から見た伊那谷とは、遠い地の存在で、人によれば伊那と飯田のどちらが南で、どちらが北か、その位置の認識があやふやな人も多い。それだけ遠い地のことなのだ。

 「伊那谷の南と北」のなかで触れているように、伊那と飯田が相容れないとしても、枠外からみれば、そこは伊那谷の中の一地域にすぎないわけだ。自宅のありかを聞かれて伊那と飯田の両者を使う理由は、正確な場所を認識してもらうにはそのどらでもないからかもしれない。伊那と飯田の中間という立地は、どちらを言えば聞いた人がイメージできるか、とわたしが意識するからだ。「伊那」の位置を特別に認識している人なら「伊那」と言ったほうがわかりやすいだろうし、「飯田」の位置をより強く認識している人には「飯田」と言った方がわかりやすいだろう、なんていう気をきかせてしまうからそういうことになるのだ。もちろん、伊那周辺の人が「飯田」という人もいないだろうし、飯田周辺の人が「伊那」ということもないだろう。それがわたしのような曖昧な位置に住んでいる者の宿命なのだろう。しかしながら、両者の周辺に住んでいる人たちには、そんな気を回す必要はないのだ。なぜかもっとも近い「駒ヶ根」を位置情報として利用することはない。マチの大きさと知名度というものを、あるいは位置情報として自らの中でさらなる曖昧な情報なんだろうと認識しているから使わないのだ。きっとこんな曖昧な応え方をする人はわたしだけで、具体的に「○○町」と現住所を言う人の方が多いのかもしれない。そしてその場所が聞いた人にイメージできない場合に、「伊那と飯田の真ん中あたり」なんていう表現をして説明するのだろう。

 長年県内を歩き、前述のような質問を何度も受けた経験が、曖昧な回答をするようになった原点かもしれない。現在住んでいる近隣の人たちは、おそらく「飯田」という人が多いのだろう。いずれにしても人によって位置情報をどう表現するのか、そんなところを意識してみると面白いものだ。





 さて、引継ぎを終え、自宅に向かおうとすると、間もなく始まるこの地での人とのやり取りをどう予想すればよいだろう、なんて思うほど西の空は焼けていた。雑木林の向こうの様子をうかがおうと、その林を越えると、中央アルプスの将棋頭から茶臼山の残雪に夕焼けが映えていた。間もなくその焼けた空も、闇にかき消されて行ったが、晴れ晴れした明日が始まればよいが・・・。
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大型車と仲良く走る

2007-03-30 07:47:04 | つぶやき
 3年間長野に通ったが、これまで全線一般道を使ったことはなかった。どこかどこかで高速、あるいは有料道路を使っていたように記憶する。もしかしたら白樺湖周りで帰った際に、すべて一般道ということはあったかもしれないが、たまたま用事があってのことで、松本経由では1回もなかった。必ず豊科インターと塩尻北、あるいは豊科インターから塩尻間は高速を利用していた。どうしても松本市内を一般道で走る気にはなれなかったわけだが、この間の高速料金は、前者が550円、後者が700円である。この程度なら高速を利用したほうがよいかな、という計算上のことなのだが、実際はもっと長い区間を乗っていて、この短区間を利用して行き来したのは数少ない。

 そんな一度も利用しなかった国道19号の松本市内区間を、昨日3年間ではじめて利用した。自宅から長野へ向かう際に利用したのだが、塩尻市の国道153号金井交差点(かつての国道20号と153号の合流点)から、国道19号の田沢駅前交差点(豊科インターから国道19号へ出る交差点)まで36分要した。午前4時代という時間だからもう少し早くても良いのだが、大型車が続いていて、抜くわけにもいかなかった。自宅をちょうど3時ころに出て、長野に着いたのは5時20分ころということで、約2時間20分である。

 今から30年近い前のことであるが、実家から飯山市まで土帰月来したころは、実家から長野市通過まで同じような時間帯で約2時間ほどだった。もちろん当時は金もなかったし、高速も全線開通していなかったということもあって、すべて一般道であった。自宅から実家まではこの時間帯なら10分程度だろうから、かつてよりちょっと時間がかかっている。何が違うかといえば、道はよくなっているし、まっすぐになっているから早くなってよいはずだが、車の量が違う。もちろん昔は追い越し禁止区間は少なかった。遅い車がいれば抜いてくるが、つながっていれば追い越しはしない。この時間帯だから車の量は少ないのだが、なにしろ走っているほとんどは大型車である。だから抜こうとしても数台つながっていれば無理なことはしない。

 いずれにしても懐かしく松本市内の国道19号を通過してきたわけだが、信号機が青になったと思ってスピードを上げてもその先で赤になる、ということを繰り返すから、すいていてもよほどスピードを出さないと快適には進めないことがわかった。日中だったらやはり裏道の方がよい。松本市内を過ぎると、さらに大型車しか走っていない。安曇野市明科から長野市までの犀川の谷あいの道は、信号機で止まることのない快適な道である(ただし片側交互通行があり)。カーブは多いが、乗用車ならそこそこの速さで走りぬくことができる。時間帯のせいだろうか、大型車がやきり多く走っている。これが30年前と大きな違いだ。4、5台つながっているから抜くのは不可能である。ところがそれらの大型車がみな早いのだ。急カーブ意外なら70キロ近くで走り、カーブもブレーキランプを点けるほどの減速はしない。だから減速のタイミングが予想つくから、こちらも大型車にかなり接近して走っていてもブレーキを踏むことはない。あらかじめ予想できるシフトダウンで続いていけるのだ。そんな具合に大型車が何台も走る中ほどをたった1台のわたしの乗用車が仲間に入って走っている。高速の過密状態の道に比べれば、危険性もなく安定して走れる。久しぶりに大型車と仲良く走れた1日だった。
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ムジナの話

2007-03-29 06:31:20 | 自然から学ぶ
 「同じ穴のムジナ」という言葉があるが、実はムジナとはどんな動物なのか、おそらく多くの人はわからないはずだし、わたしも見たことはない。先日中条村の上段を長野市七二会にに向かう県道を走っていると、前をタヌキが横切った。おそらくタヌキという程度で、絶対タヌキだったとは言えない。明らかに姿形がことなる動物ならともかく、似たような動物は人によっても認識がことなる。犬といったって多種多様でタヌキとアナグマ、ピレネーと豆シバを比較したらどう考えたって前者の方が見た目は仲間だ。

 「weekly iida」という無料で配布される新聞の3/29号に、動物写真家の宮崎学氏がこのムジナのことを触れている。伊那谷のある山村でのおじいさんの話、「ムジナが来てなぁ、悪さをするんだに」という。その正体について、宮崎氏は何度も確認をするのだ。
①宮崎  「それはアナグマですか」
 じいさん「アナグマでない。ムジナ」。
②宮崎  「じゃあ、タヌキですか」
 じいさん「いや、タヌキでない。ムジナ」。
③宮崎  「それではマミっていうやつですか」
 じいさん「いや、マミじゃなくてムジナだに」。
④宮崎  「じゃあ、ハチですか」
 じいさん「いんねムジナなぁー」
⑤宮崎  「おじいさん、そのムジナは背中に漢字の八の字模様がありますか」
 じいさん「それは、ハチダヌキであって、出てくるのはムジナだに」
と、まあ漫才のようなやり取りをしている。

 おじいさんはアナグマもタヌキもマミもハチもハチダヌキ、そしてムジナもすべて違うものと認識して答えているのかどうか、ということになる。宮崎氏が問うたように八の字のあるハチダヌキのことは知っているようだから、どこまで本当なのかよくわからないのである。そこで宮崎氏は自分の目で確かめてみようということになる。

 結局タヌキだったようなのだが、わたしにもタヌキとアナグマの違いくらいはわかる。にもかかわらず、おじいさんはムジナと言い張ったわけだから、本当はムジナをおじいさんは見たのかもしれない。謎である。

 実はやり取りをしている動物のうち、①と③はアナグマのことで、あとの②④⑤はみなタヌキのことなのである。ということはおじいさんのいうムジナはタヌキでもアナグマでもないのだ。『ウィキペディア(Wikipedia)』でも触れているように、ムジナはアナグマのことを指すという。しかし、地方によってはタヌキのことをそういったり、ハクビシンのことをそういったりするというから、はっきりした実像にならないのだ。わたしたちのように似たようなものを総称してそう言ってしまう、というのならムジナでもよいのだが、おじいさんは明らかにアナグマでもタヌキでもないと言っているから楽しいのだ。ではハクビシンか、ということになるがはっきりしない。

 山梨県の『富士吉田市史 民俗編 第二巻』に「村はずれのお堂にオバケが出るというので、鉄砲撃の名人が退治する事になった。バケモノは「よく来たね」といって明りの側で笑っている。いくら打っても手ごたえがなく、最後の1つになったので鉄砲撃は考えた。明りがバケモノだという話を思い出して打つと悲鳴があり、明りは消えた。夜が明けて見ると、大きなムジナが死んでいた。」とある。また、同じ山梨県の『高根町誌 通史編 下巻』には、「西割にとんべいさんという人がいた。ある秋の夜「とんべいさん、とんべいさん」とムジナが呼んだ。外に出ると誰もいない。それを繰り返す。「誰だ」と言ってもムジナは返事ができないらしい。」というようなものもある。実は伝承にムジナはよく登場する。その場合のムジナとは、どんな動物だったのだろう。
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息子の手術日

2007-03-28 19:50:10 | ひとから学ぶ
 今日は〝大安〟である。自宅へ朝から入学祝いを持ってきてくださる方が来て、「あー大安だなー」と知ってはいたがあらためてその日を認識する。実は今日は息子の手術の日である。この日のために昨夜というか、未明に長野から帰宅した。転勤が決まり、仕事の引継ぎもままならない状態で、加えて引越しもあるということで、一日一日が消えてゆくのが、不安をかきたてる。息子の病名は自然気胸という。肺胞の一部が嚢胞化したもの(ブラ Bulla)や胸膜直下に出来た嚢胞(ブレブ Bleb)が破れ、吸気が胸腔に洩れることでおこる病気だ。3月上旬にも入院して治療を受けたが、その後経過がよくなかったこともあり、手術でそのブラを取り除くというのだ。高校入試前期選抜後に発覚したものだったから、すでに進路が決まっていたからよいものの、そうでなかったらどうだっただろう、とちょっと思ったりする。加えて入学式までに体調は元通りになるのか、心配はある。それでも中学生までは医療費を町で負担してくれるというので、3月のうちに手術ができたということはありがたいことである。

 手術室前で待っている姿がよくドラマに登場するが、まさにそんな気分を味わいながらも、次から次へと手術の人たちがやってきて、お医者さんの大変さをつくづく感じるわけだ。一応手術ともなれば身内がそんな感じに手術室の前で待っている。数人であったり、大勢であったりさまざまである。火傷の手術だという男の子の父母、そして妹が、わたしたちと一緒に待っていた。男の子が手術室から出てくると痛いのだろう、「おかあさか、おかあさん」とその痛みを泣いて訴えている。やはり男の子が頼るのは「母」である、ということをつくづく思う瞬間である。父がそこにいても父はただたたずむしかない。きっとわが家も同じである。まあまもなく高校生ともなれば泣いて母を頼るようなことはないだろうが、気持ちはそうだろう。やはり手術の終わるのを待っていたほかの患者の家族なのだろう、「おかあさん、おかあさんと頼っている子も、大きくなるとそんなことを忘れて一人で大きくなったみたいに悪態を言うようになる」なんていうことをひそひそ話しているので、男の子の家族に聞こえるのじゃないのかと、気がきではなかった。そんなことを思いながらもさまざまな家族が入れ替わりやってくるなかで、さまざまな人間模様を見ることになる。

 さて、息子も痛さをこらえながら無言で手術室から帰ってきた。父がいてもどうにもならない、と誰もが認識しているから、また再び未明に長野へ向うわけだ。

 温かい1日だった。シャツ1枚で外を歩ける温かさである。長野とはちょっと違う。違うのも当たり前で、飯田市内の中部電力前の桜並木の桜はだいぶ開花している。エドヒガンザクラというもので、ソメイヨシノよりは少し早い。用を足しに市内に出るとその桜並木の桜を撮ろうとカメラを構える人が多かった。わたしもついでに撮影したのだが、人形時計台の向こう側の桜はすでに満開に近い。いつも思うのだが、この間を横に走っている「電線」、「ちょっとなんとかしてほしい」なんて思うのはきっとわたしだけではないだろう。加えてハイウェイ灯も似合わない。ごちゃごちゃしているから、人形時計台も意外に目立たない。



 撮影 2007.3.38 PM
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派手な広報

2007-03-27 07:57:43 | つぶやき
 実家への道すがら、本郷道の駅という地元のおばさんたちがやっている小さな食堂によってごへい餅を手土産に買った。ごへい餅といえば伊那谷南部ではかつてどこの家でもご馳走として作ったものなのだが、今でも自宅で作る家は数少ないだろう。実家でも昔は作ったものだがもう何十年も自家製のものは作っていない。それは妻の実家でも同様で、今やごへい餅といえば購入品という感じになってしまって残念だ。このあたりでのごへい餅は団子風のごへい餅で、飯田より南部から木曽などで作られる板ごへいとは異なる。団子より少し大きめのおにぎりと言ったほうがよいだろうか、それを二つ串刺しにして焼いて、そこにサンショの葉で風味をつけた味噌を塗って食べるのである。味噌むすびというやつを昔はよく作ったが、その小型版である。やはりこのあたりではサンショの葉を使っているのが特徴なのである。そんなごへい餅の購入品は、この本郷道の駅が一番である。このあたりではスーパーなんかに行ってもごへい餅を惣菜のコーナーで売っているが、美味しいごへい餅を食べたいのなら、本郷道の駅である。

 さて、こんな具合にごへい餅を売っている店は、下伊那郡喬木村の「たけや」もある。こっちの方が本郷道の駅よりは安い。美味しさどちらも特徴あっておすすめである。ただ、サンショのごへい餅なら前者である。

 そんな道の駅に飯島町の広報がおいてある。何部も置いてあるのだから持ち帰ってよいのだろうと思っていただいてきた。相変わらず豪華な広報である。わたしが生家に住んでいたころはこれほど豪華ではなかったが、所帯をもって飯島で暮らしていたころからだろうか、気がつくとずいぶん立派な広報になっていた。それ以来だからもう20年近いのではないだろうか。聞くところによれば、広報担当に写真好きな人がやってきてそれからというもの広報とは言いがたいほどの〝広報〟になったようで、こうした広報のコンテストなんかもあったりして入賞するほどだった。時代が変わっていい加減そんな広報も変化したのだろうと思いきや、昔以上に写真やらカラー印刷が登場する。たかが1万と少しの自治体だというのに、よく広報に金をかけているものだとつくづく思ったりする。こうした雰囲気の広報に載る人は記念というか楽しいだろうが、すべての住民が対象になるとは限らないから、果たしていかがなものかと思うのは今ではよそ者の言葉だから聞き入れられないだろう。いただいてきた3月号をみると、28ページ立てというものである。半分の14ページが二色刷りで、あとは三色、あるいはカラーである。表紙を開くと、「iみーちゅ」なるページがあって、町を歩いての取材記となっていて、簡単には町民を紹介しているコーナーである。今までの登場者数1850/10889人と表示されているが、町民みんなが登場することはおそらく否定する人もいるだろうし、寝たきりの人もいるからありえないだろう。広報として必要な情報を載せているページももちろんあるが、広報に文芸を載せるのはどうだろう。公民館報へ譲るべき部分のように思う。こうした広報を作ろうとした人が今でも加わっているのか知らないが、広報としての最低限必要なものに修正してよいのではないかと思うのは、町外のわたしばかりではないだろう。
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首が伸びる石仏

2007-03-26 07:11:22 | 歴史から学ぶ


 「長野日報」の3/25朝刊に面白い記事をみつけた。「ここ5年の写真で〝三変化〟」というもので、下諏訪町の諏訪大社春宮横にある万治の石仏の首が5年前とくらべると伸びているというのだ。わたしは「モノクロの彩り」というページでこの万治の石仏に触れている。そこにある写真は冒頭のような写真なのだが、胴体にあたる巨石に載せられている仏頭に、首らしき部分はほとんどなく、胴体ですぐに頭という構図になっている。ところが、新聞に掲載されている写真をみると、首が見えるのである。

 このことに気がついたのは名古屋のカメラマンだと言うことで、何度も撮っているうちにかつての写真との違いに気がついたわけだ。どうも頭部が落とされたため、載せなおしたことがあるということだ。しかし、載せるのならそのまま載せて落ちないように少しモルタルか何かで詰める程度が普通の考えなんだが、わざわざ頭が載るように胴体の上に頭用に少し土台をコンクリートかモルタルで打ったようなのだ。見るからに胴体の上にすぐ頭の方が安定感があるように感じる。

 新聞では2002年11月、2005年11月、2007年2月と三枚を並べているが、年を追うごとに首が伸びている。ということは頻繁に頭が落ちているのか、それとも自然に首が伸びているのか不思議な話である。もっといえば万治の石仏といえば有名な石仏で、頭が落ちたなんていえば大ニュースのような気がするのだが、どうもそんなニュースも耳にしたことはなかった。そんな程度のことは驚きもしない、という諏訪らしい気質なのかどうかわからないが、どんどん伸びている首はどこまで伸びていくのか、ようやく話題になりつつあるようだ。

 さて、この万治の石仏は、西暦1600年の万治3年の銘文があることから、その年に造営されたものと思われる。その元号をとって「万治の石仏」と言っている。地面から頭上までの高さが235センチ、幅は275センチとかなり大きな石仏であるが、首が伸びているというからには、今はもう少し高さが高いのかもしれない。でも伸ばせば伸ばすほどに不安定になって転んで落ちそうだが違うだろうか。もっと心配なのは、こんなニュースがきっかけで無理に落とすいたずらが頻発しなければよいが。
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校正

2007-03-25 10:11:32 | ひとから学ぶ
 出版社の図書目録というものは、本にまったく興味のない人にはまったくつまらないもので、手にしたことのない人も多いだろう。当たり前といえば当たり前で、ただ本の目録なんだから面白いわけがない。そこへゆくと、わたしは少しは興味があるから、今までにもそんな図書目録を手にしたことは多い。本屋に並んでいる目録をもらってきたことも何度かあり、それをのぞいて本を注文したことも少ないが何度かある。そんな図書目録も、新しい目録が出るとお払い箱となるわけだが、捨てずにとってある図書目録が唯一ある。岩田書院の図書目録である。

 この出版社、個人でやっている小さな出版社なんだろうが、発行している本の数は多いし、加えて専門書だけだから、財政的にはどうなんだろう、なんて心配するほどのマイナーな世界で生きている。その岩田書院の新刊ニュースは、地方史情報とともに定期的に送られてくるのだが、その新刊ニュースに「裏だより」という囲み記事が載っている。まさに本を発行する、出版社を経営していく、といった部分の裏話が聞くことができるのである。その新刊ニュースの裏だよりが、岩田書院の図書目録には転載されているのだ。新刊ニュースはA5版の1枚てあるが、図書目録ならまとまっているから、新刊ニュースの1枚1枚を保存せずとも、図書目録にその全文が記載されているから、読み物になるわけだ。

 ということで、その新刊ニュースの裏だより目当てに図書目録をとっておくのだ。この裏だよりは、すでに450号を越えている。わたしにしてみれば、図書目録にまとめておくのではなく、裏だよりだけで一冊の本にして欲しいところだ。

 さて、そんな裏だよりの最近号に、「編集実技:校正赤字入れ編」というものがあった。校正というものも知っている人は知っているが、そんな作業を一度もしたことのない人にはまったくの無関係の世界の話である。わたしも初稿があがった際に校正をむ初めてした際には、どうやってよいのかまったく解らなかったものである。人が校正した原稿を見て、「こうやってやるもんなのだ」と気がついたしだいである。ところが、いろいろな専門的な記号やら言葉が並んでいて、その後何度も校正ということをしているが、いまだに本当の校正とはどうするものなのか、知らないのだ。それでもなんとか通じているようだから、本当の「校正」などというものは印刷業界の専門のものであって、意味さえわかればそれほど意識する必要がない、と解ったしだいである。

 「校正赤字入れ編」では校正でよく使われる「イキ」という言葉の入れ方について触れている。イキとは間違って訂正したものを、もとのものの方が正しいですよ、という表示であって、まさに「生きている」を表現しているわけだ。わたしも人の校正原稿をのぞいていてこの「イキ」というものの使い方を知ったわけで、その後はよく使う言葉となった。ここではこのイキをどこに書くかということに触れていて、①その赤字の脇に書く、②元の正しい字の脇に書くという二つの事例を示している。で正解は②の元の正しい字の脇に書くのだという。ようは間違った場所に書くと、訂正した赤字が「イキ」ととらわれかねないからだという。あらためてそんなことを言われて、自分はどこに書いているだろうかと思い出すと、赤字の横に書いている記憶はないから、おそらく正解の方法でやっている。なるほどと思うことではあるが、先にも言ったように、本当のやり方ってあるんだろうか、などと思ってしまうわけだ。なにより複雑に赤字書きをすると、訂正する側も間違えたりするもので、校正したのに意図通りに直っていない、なんていうことも生まれてしまう。
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常識は変わったのか

2007-03-24 16:36:38 | ひとから学ぶ
 「部屋を奇麗にして出る」でも触れたのだが、転勤が決まって、ようやく自宅へ帰ることとなった。ところが、3年の間、ろくに掃除もせずに暮らした部屋は、弁当を作るほどに火を使ったこともあって、ずいぶんと汚れが広がっている。とくに台所は言うまでもない。もともと越してむきたときにどれほど奇麗だったかも記憶にないが、ぴかぴかというほど奇麗だった印象はない。寮だから人が入れ替わったといっても、そほど奇麗な状態で引き渡すという意識はない。むかしは部署の長が奇麗にした部屋を確認したものだが、今はどうもそんなことはしていない。だから汚くてもそのまま出て行く人もいるのだろう。春分の日はそんなことでしっかり奇麗にしようと掃除をはじめたが、とても1日では終わらない。荷物もあるから、そこそこそれらを片付けて、モノがなくならないと次の掃除にとりかかれない。なかなか進まない掃除に、「まいったなー」とは思うのだがどうにもならない。

 もともとがそれほど奇麗ではなかったのだから、その程度でよいじゃないか、などとは思うがそれでも掃除を始めれば汚いところは奇麗にしたい。とくにいけないのは台所だが、加えてトイレから風呂とおそらくわたしの入る前からの汚れも重なっている。たとえば風呂に水垢がついていれば、取りたいと思う。おそらくわたしが入った時もその垢はあったように思う。ところが長い間掃除をしなかったから、その垢を消し去るほどに黴が出てきて覆っている。その方が目立つのだ。風呂に水を張ったことは3年間一度もなかった。利用したのはシャワーだけである。だから汚れてきてもそのままにしてしまった。時おり少し掃除をすることはあっても、すぐにまた汚れが出始めてしまう。加えて週末は自宅に帰るから、掃除をする余裕がない。そんなことのくり返しだから、とりあえず支障がなければ掃除もしなかったわけだ。そうした水垢を隠すほどの汚れを掃除していると、その下の水垢だって落としたくなるわけだ。見違えるように奇麗になっていく姿を見ていて、「こんなに奇麗になるものなのだ」と感心してしまう。

 いやはや、数えることわずかとなった日を眺め、仕事も処理しなくてはならないのにどうしたもんだろう、などと指を数えるし、いつまでに何をしなくてはならないか、などと予定を立てても日はたりない。余裕のある人たちは送別の飲み会などといって飲み歩いているが、そんな日々は勘定に入らない。まだ台所の掃除はこれからだ。

 と、そんな話を同僚にすると、若い同僚は、昨年この寮にやってきて、部屋に入ってびっくりしたという。まず風呂場に黒い黴が出ている。加えてレンジ台の上は見事に光っていたという。掃除をして美しくなって光っていたわけではない。油がギトギトについて光っていたというのだ。掃除をしてないことがすぐにわかったわけで、光っているレンジ台の上に菓子折りがひとつ、一応お詫びの言葉をメモって置かれていたという。ようは前住人は、掃除ができなかったことを詫びて菓子折りを置いていったということなのだ。前住人は会社では部署長を務めるほどの者である。とても引継ぎの仕事がやまほど溜まっていたわけではないはずだ。ようは飲み会が忙しくてできなかった、というのが正しいことだろう。この世の中の常識とはどういうものになってしまったのか、とそんことを思うばかりである。上司がこんなことをしていて、若い人がまともな会社と思うわけがない。そういう奴に限って偉そうなことを言う。それを常識にしてしまっている会社が、いかに最低な会社であるかがよくわかる。会社だけではないだろう。そういう常識が通ることとなっている社会が、いかに最低ラインをさらに下げているかを実感させてくれる。国のトップたる国会議員にしたってろくもんじゃないんだから、このレベルダウンの根源にはこの国の現実が見えるような気がしてならない。
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それぞれの道へ

2007-03-23 08:24:50 | ひとから学ぶ
 先ごろ、長野県の公立高校の一般入試の合格発表があった。県内での受験者数は12,166人で、合格者は11,170人だったという。ということで不合格者数は966人である。都市部の高校へ志願者が集中することもあって、松本市や長野市といった地域の高校は不合格者が多い。今に始まったことではなく、以前より松本市周辺の学区では不合格者が多かったものだ。いっぽうで長野の山間部には志願者数が定員を大きく割るような高校もある。再編が叫ばれているなかで、そうした学校では統合やむなしという雰囲気さえある。二次募集でもなかったら、そうした学校は学校が成り立たないほど生徒数が少なくなってしまうだろう。

 息子も今年は入試であったが、前期選抜で決まっていたから、親の気は楽だった。しかし、友人たちの試験結果が気がかりでしかたないようだ。妻の友人の娘さんは、最初に行なわれた国語の試験で〝難しい〟と思った途端にその意識が後にまで引きずってしまった。帰宅して〝できなかった〟と落ち込んだと言う。ふだんは明るく元気な子なのに、それからというもの〝落ちた〟という気持ちが増幅していき、食が進まなくなったという。よほどできなかったと思ったのだろう、気持ちは〝落ちた〟あとの次のことも考えていたようだ。経験的に、こういう場合はけっこう不合格というケースが多いという。試験に慣れていればともかく、こうした本番で実力を発揮できる人は少ないだろうが、あがってしまってまったくできないという子どももいるという。必ずしも試験がすべてではないし、中には勉強はいまひとつでも、実社会向きの将来性豊かな子どもたちもいる。しかし、こうした選抜ではあくまでも点数が基準となるから、点数以外の部分で合否が決まることはそうはない。田舎では中学受験とか、小学受験などというものはないから、生まれて始めての試練ともいえる。

 そんな心配事が発表日まで続いたが、〝落ちた〟と思っていた友人の娘さんは、合格だった。わが子の合格よりも〝ほっ〟としたものだ。それでも息子の同級生で仲の良かった友人が不合格だった。田舎だからとはいえ、昔にくらべればそれぞれの道がある。わたしたちのころにくらべれば〝落ちる〟ということがそれほど〝恥ずかしい〟というほどの重石にはならなくなった節もある。それは、みなそれぞれの道へ歩むようになったことによって、「こうでならなければいけない」という道がなくなったからだ。不登校もいれば、将来を見据えて進学しない子どももいる。まさにさまざまである。

 息子の世代は、教育指導要領がもっとも手薄な時代であった。残念ながらもっとも勉強のできない世代かもしれない。何を目標にしてゆくか、いまだに見えていない息子を見ていてはがゆいばかりだが、果たして社会でバカ扱いされなければよいが、と思うばかりだ。
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消えた村をもう一度⑳

2007-03-22 08:23:46 | 歴史から学ぶ

 能美郡辰口町(たつのくちまち)は、金沢市の近くにあった町である。2005年2月1日に同じ郡内の根上町と寺井町と合併して能美市となった。あまり一般人には印象にない名称だが、合併した根上町といえば松井秀樹の出身地としてよく知られているし、元内角総理大臣の森喜朗の出身地でもあるから、大物を輩出している地ともいえる。この辰口町は、合併前の国勢調査では人口14343人を数えている。合併した3町はほぼ人口が同じくらいの規模で、合併後の人口は49000人弱である。ところが面積から3町を比較すると辰口町がその68%を占めているわけで、ようは山を抱いているというわけだ。さすがに金沢近郊ということもあって、水田が住宅地に変わりつつある地域のようである。長野県などの山間地域とは環境が異なる。新市誕生に際して名称をめぐって行われた住民アンケートで、「松井市」や「ゴジラ市」といったものが上位にランクインしたというから松井秀樹一色の地といってもよいかもしれない。

 辰口町には古くより辰口鉱泉、現在の辰口温泉が湧出していた。開湯の由来によると、養老の昔、村人たちが傷ついた馬の脚を湧出していた泉で治していたといわれ、1400年以上前から湯が湧き出していたようだ。明治18年の「辰口村温泉記」によると、応永年間(1294年~1428年)を皮切りに何度も洪水によって水没したというが、天保5年(1834年)に源泉が現在の場所に確保されて以降、湯治場として現在まで続いている。「Web辰口町史」というページ(今は廃止)が公開されている。辰口町の歴史を誰でも見ることができて、なかなかいい感じのページである。そこにこの辰口温泉の明治時代の歴史が記述されていて、それによると、

 明治14年 温泉紀念碑を湯元に建立、温泉宿九軒  
 明治22年 3/5 温泉守護のため薬師堂の新築落慶
 明治23年 泉鏡花は辰口鉱泉の叔母の家に滞在

とある。明治14年には温泉宿が9軒あったというから古い温泉である。現在は数軒しか宿はなく、そのころにくらべれば少ない。明治23年の項にあるように、泉鏡花は幼くして母を亡くし、辰口に住む叔母に引き取られた。18歳の時に読んだ尾崎紅葉の『夏痩せ』に影響を受け作家を目指したと言われる。温泉宿の「まつや」を舞台にお絹という女性を描いた泉鏡花の短編『海の鳴るとき』の舞台ともなっている。そんなことからも泉鏡花誕生の地と言われている。泉鏡花については「Web辰口町史」にも詳しく紹介されている。

 昭和40年代以降新温泉の開発を町の事業として推進している。昭和44年に県に提出された温泉掘さく許可申許書には「経済成長がもたらした都市過密化による生活環境の悪化を防ぎ、風光明媚な自然的景観を生かした市街地造成を行い、豊かで明るい町政の実現を図るため、新たに申請地において共同源泉を求めたいので、申請に及んだ次第です」とある。町づくり中心として温泉を位置付けていきたかったようだ。そして昭和46年、町がした開発において新温泉源を求めて試掘していたところ、摂氏40度の温泉を掘りあてた。この町有の温泉の活用法として「福祉会館の建設」となったのである。冒頭の写真はその福祉会館建設後のパンフレットである。実はこのパンフレットは、ごく普通のパンフレットではあるのだが、中を開いてゆくと、温泉の浴場の写真が掲載されている。まだ20歳ころのわたしにとってはこのパンフレット、実は特異な雰囲気で手にしたものだ。その浴場の写真には女性のモデルが登場している。浴場の縁に立ち膝で座る女性はもちろん全裸で、それこそ二十歳そこそこの女性がタオルも持たずにまさにモデルとしてそこにたたずんでいる。写真そのものもA4版の見開きページの片面を埋めているから大きいのである。よくこんな大胆な写真を公的施設のパンフレットに載せたものだ、と感心させられたのであるが、意図は「美人をつくる女性のためのふるさと温泉」と見出しがあところから〝美人の湯〟を強調したかったのだろう。今、もしこんなパンフレットを作ったらかなりの話題になるかもしれない。いや、当時地元でどういう反応を得たか知らないが、きっと話題になったに違いないわけだ。モデルの女性は、いわゆる観光パンフレットに載るようなそれなりのモデルではない。どことなく素人の普通の女性なのである。わたしもそこそこ歳をとったから、このモデルの女性もすでに50歳を越えているとは思うのだが、久しぶりにこのパンフレットを目にして、その大胆さを思い出した次第である。

 さて、この福祉会館も今となってはだいぶ古くなったのだろうが、WEBページでこんな記録を探し出した。「辰口町総合福祉会館に共同浴場があったので、行ってみました。さすがに福祉会館。ご老人ばっかり。近所のご老人が多い様でした。けっこうたくさんの方が入ってて、洗い場が満員の状態でした。しばらくすると、空いてきましたが、ゆっくりつかるって言う感じではありませんでした。町の銭湯って感じです。建物はちょっと古めの様ですが、お風呂場だけ新しい気がしました。石やタイル張りだからでしょうか。場所が分かりにくかった。200円って言うのはさすが公共施設」というものだ。ほかにもそんな感想を扱ったページがあったが、どうも若い人たちには〝銭湯〟的な雰囲気で、今風の温泉施設とは違って捉えられるようだ。

 消えた村をもう一度⑲
 消えなかった村③

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「伊那谷の南と北」第2章

2007-03-21 13:27:19 | 民俗学

第2章 伊那と飯田

 「伊那谷を語ろう会」の第5回議事録を見ると、信南交通の中島一夫さんという方が大変面白い話をされている。「非常に上伊那と下伊那は私は仲が悪いように思います」と言う。例えとしてこんなことをあげている。「私の飯田の車庫に6台、バスが置いてあるんです。ですから、朝5時半の新宿行きから運転手さんがどんどん出てきます。私は朝に行ってこの人たちと話すんですが、私どもの従業員は伊那バスさんの従業員と話さないんですよね。非常に仲が悪く、あっちが何台増発便を出した、インチキしたんじゃないかとか言って、とにかく狭い地域のお隣なんだけど、殴り合わんばかりにけんかして、だから伊那バスさんは信南交通の休憩室、車庫の休憩室に来ないで、自分で小さいハウスを建てて休憩室にしているという」。この話を聞いて、あくまでもバス会社間の競争意識だけのものだと捉えてしまったらつまらないのだ。実は同様な意識で地域間が交流できないでいることは多いのだ。だから、この話を聞いても違和感を持たない人はけっこういるかもしれない。「今時そんなことを言うほうが古い」なんていう人もいるだろうが、そういう人に限って「あっちは○○だ」なんていう比較した物言いをするものだ。

 中島さんは「旅行なんかでも伊那の方は飛行場は羽田空港を使われます。飯田下伊那は名古屋空港を使います。これは伊那の伊那バスさんなんかにも「名古屋空港の方が近いんじゃないの」と言っても、絶対にエージェントさんはお使いになりません。それぐらい地域的に名古屋圏と東京圏というような違いがあるかと思います」なんていうことも言っている。伊那谷の場合は、明らかに名古屋の方が近いのに、伊那は東京を、飯田は名古屋を向いている。これは明らかなことで、商圏という捉え方でも両者は共通な視野ではないのだ。これは飯田と伊那が対向して意識的に相反した方向を向いているわけではなく、もともとどちらを向いていたのか、という歴史的な部分もあるのかもしれない。とくに明治以降の長野県の枠が確定されたころから、すでに100年を経過しているわけだがら、その県都が長野にあったことからして、伊那は必然的に北を向いていたわけだ。加えて今でこそ名古屋は近いという印象があるが、これは中央自動車道という道が開けたこと、そして自動車時代の到来によって、道路整備が進んだことにより、より一層道程による距離感が人々の中で遠近の印象付けをするようになったからに違いない。かつて電車による交通手段が一般的であった時代には、飯田にしても名古屋まで行くには飯田線を豊橋まで下り、そこから行ったわけだから近い場所ではなかったのだ。そういう意味では、伊那は東京が、飯田は名古屋が、という立地が長く続いていたわけだ。その影響はいまだぬぐえず、そうした時代を背景に、両者は見る方向を固定化してきたのだ。たとえ両者の間が50キロで、東京までが伊那から200キロ余、名古屋まで飯田から100キロ余といういちであっても、両者間の距離は非常に遠いともいえるわけだ。

 これもまた中島さんが言われていることで、その通りと思うのだが、伊那市は天竜川が市街地の脇を流れている。ところが飯田は丘の上の市街地から見れば、遥か下のそれも市の境界域を流れているのだから天竜川そのものに親近感がないのは当たり前なのだ。建設省の河川事務所が川を利用した未来会議なるものを提案してきたかもしれないが、伊那と飯田では川とのかかわりに違いがあるわけで、お役所が自分のところのアピールのために、イメージアップ作戦に乗せようとしても、その捉え方に差があって当然なのだ。もちろん、飯田でも川の近くに住む人たちはまた違う意識を持っているのだろうが、市街地である丘の上の人たちにとって川は遠いもので当然なのだ。そうした意識がいっぽうで、丘の上の賑わいを失わせてしまった要因なのかもしれないわけで、伊那と飯田という比較はもちろんなのだが、ようは立地している環境とはいかに人々の意識を固定化してしまうかというよい事例だと言えるだろう。

 さて、今までにも伊那にとっての木曽のあり方について、権兵衛トンネル開通による変化に触れて、何度か発言してきた。もともと山を隔てていたことにより、伊那と木曽は密接な関係を築くことはできなかったが、風穴が開いたことで、ずいぶんと両者はお互いが接近するようになった。しかし、それを否定するものではないが、同じ谷の中ですら相容れない飯田というところを差し置いて、あからさまに木曽を連呼することは、飯田にとっては気分の良いものではないということなのだ。なぜ同じ空間でありながら、これほどまでに相手を知ろうとしないのか、とそんなことを皮肉って言いたくもなるのだ。そしてそれを言う資格が、わたしのように両者の間に挟まって両者から相手にされなかった地域の者にはあると思っているのだ。伊那と飯田という対比だけではなく、実は、伊那と飯田ではない周縁地域は、両者の犠牲になってきたのかもしれないということだ。


 「伊那谷の南と北」序章
 「伊那谷の南と北」第1章

 

「伊那谷の南と北」第3章

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家形の防風林

2007-03-20 08:12:24 | 自然から学ぶ


 先日上伊那郡飯島町七久保新屋敷(あらやしき)の旧県道端にみごとな防風林を見て、写真に納めたのが冒頭のものである。家の南側に家の形に合わせたように形作られた防風林があるのだ。この家、見た感じは現在無住のようで、現在どういう住まい方(洗濯物とか家の庭の利用法など)をしているかは察知できないのが残念だ。生垣がこれだけ大きいと防風にはなるのだが、日の当たりは良くない。屋敷の木というものも、良いときには効果的であるかもしれないが、場合によっては邪魔にもなる。屋根より高いほど立派に形作られているとなると、だいぶ手の入ったものである。こうした防風林は、わたしの実家にもあったが、家の北側にあった。家の形にまでなるほど剪定されていなかったが、屋根より高いほどに伸ばしていた。もちろん北風を意識してのものであったが、谷の中の家だったから、むしろ東西方向の風の方がよく吹いていたようにも記憶している。

 防風林ということなら風除けということになるのだろうが、現在住んでいる自宅では防風という意味よりも消毒除けに生垣を高くしている。住み始めて10年ほどであるが、南側は日当たりもよいから肥えてさえいれば生垣の伸びもよい。かなり消毒除けとしての効果を発揮するようになったが、そのころにはまわりの果樹がだいぶ切られてしまい、住み始めたころにくらべればだいぶ舞ってくる消毒の量は減ったように思う。春から秋にかけては、南風が一般的だから生垣は南側に必要となる。そんなことを思いながら周辺の屋敷を調べてみると、やはり南側に生垣を設けている家は多い。そして、北風を防ぐように北側には物置や土蔵が配置されているケースが目立つ。果樹そのものが古くからあるものではないことから、もともとは北風を意識していたに違いないのだが、果樹が盛んになるとともにわが家と同様に南側に生垣を設けてきたように見える。平成9年ころにこうした防風林の位置を隣接する集落をまわって調べたことがある。それによると古い屋敷にある防風林は、風を意識しているものが多いものの、果樹園と家を隔てる方法として長い生垣が道沿いに作られている姿があることがわかった。いっぽう同じ時に、飯島町七久保の北村という集落の家の配置も調べてみたわけだが、水田地帯ということもあって、北側に土蔵を置き、加えて防風林、あるいは防風林を意識しての竹林を設けている家が多かったのである。このあたりでは基本的には北風を意識しての防風林が一般的であることはわかるが、いっぽうで戦後になって果樹栽培に移行してきた地域では、防風林とは別に消毒除けの生垣を設けてきたようである。

 さて、冒頭の七久保新屋敷の防風林は、南側に果樹園があるわけではないのだが、なぜか南側に見事な防風林が設けられている。一概に北風ばかりが吹くわけではないだろうから、この家の場合は南側に生垣が必要だったのかもしれない。地形的には北に向って少しであるが登り勾配であるから、南側からの風が強いのかもしれない。それにしても、日当たりよりも風を意識するほど強い風が吹くともなかなか思えないのだが、まわりを見渡すとこれほど意識的な生垣はない。果たしてその意図は何だったのだろう。
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縫うこと、そして時代の矛盾

2007-03-19 06:38:56 | ひとから学ぶ
 わたしはよく会社の女性に「針と糸を貸してくれない」と聞く。先日は現場用の防寒着の襟がびらびらとはずれかかっていて邪魔だったこともあって、その襟を縫い付けてしまおうと借りたのだ。ほかにもボタンが取れたりすると借りたりしているが、面倒くさいので進んで針仕事をするわけではないが、時間さえあれば自分でそのくらいのことはしている。自宅にいてもボタンつけやほころびを直すくらいのことは、妻ではなく自分でしている。今して欲しいとおもってもなかなか妻も忙しいからできない。そんなことはいつものことだから、自然と自分でするのが当たり前になった。

 もともと子どものころや若いころ、針仕事をけっこう自分でやっていた。今ならズボンを買えば買ったところで「裾あげ」というやつをしてくれるが、昔だったら田舎に暮らしていたから買って裾あげしてもらうとなると、また買った店まで行かなくてはならない。近くならよいが遠いとなるとそんなことはなかなかできない。だから昔なら裾あげは自分でするのが当たり前だった。もちろん、小さなころはそれは母がしていたのだが、そのうちに一度あげてもらったものが気に入らないといって直してもらっているうちに、自分で好きなようにした方が早いと気がついてやるようになった。自分でやれば裾をあげたあとの糸のラインが見えても自分でやったこととあきらめもついたが、人にやってもらったものともなると文句も言いたくなる。そんなことで母と口論をしたことが何度もある。懐かしいばかりだ。だから自分で納得できるようにあげるというのが当たり前となった。そんなことを繰り返していると、けっこう自分なりの技みたいなものを習得する。面倒だけれど、手抜きをしてどう上手にやるか、なんていうことを考えたものだ。もちろん商売人がやるような上手なあげ方はできないが、見えない裏側の世界はどうでもよく、まず見える場所がうまくできていればよかったのだ。

 さて、息子が先日中学の卒業式を迎えた。妻は、裾が短くなるとズボンの裾を伸ばしていたのだが、息子の身長の伸びが悪いこともあって、そこそこ使ったズボンともなると、折れ目が残ってしまって外から見ると古い折り目が見えてしまう。わたしもかつてそんな折り目を消そうと努力をよくしたものだが、妻も卒業式ともあってその折り目を消そうと努力をしたようだ。ところがやはり上手くは消えなかったが、その努力したズボンで息子は卒業式を迎えた。とくに息子がそんなことで文句を口にしたわけではないが、妻が息子に聞くと、「裾に線が入ったズボンなんか履いている人は他にはいない」という。妻が言うには、今の親たちは短くなれば新しいズボンを買うのが普通という。それでもみんながそうとは思わないし、たたま息子の場合はス頻繁に直さなくてはいけないほど身長が伸びない、ということもあるのだろうが、妻の言っている「新しいものを買う」という人は多いようだ。

 シャツなどにはボタンがなくなった時のことを考えてスペアがつけられているが、あのボタンを利用する人が、この世の中にどれくらいいるだろうか。妻が飯田市内での専門店での逸話を聞かせてくれたが、ボタンがなくなってしまってその店を訪れるお客さんがいて、「この服と同じようなボタンがありませんか」と聞くという。ちょうど合うボタンがあるとお客さんは「つけてくれませんか」と言うらしい。工賃として「500円かかりますが・・・」と言うと、躊躇なく「お願いします」と言うらしい。店によるとかなりのお客さんが自分でつけることをしないらしいのだ。ボタンが50円でも工賃は500円。それがけして高いとは思わないわけだ。まだボタンを求めてくるのは良いほうかもしれない。ボタンがとれた段階でその服の「命が終わる」くらいに新しいものへ乗り換える人も多いのだろう。襟が破れても縫って、またかぎ裂きができても糸で補強したりして使うなんていうのは貧乏人の証かもしれないが、ごく当たり前だと思っていた行為が、今や奇異な世界になってしまっている。ちまたでは「もったいない」なんていう言葉が流行ったり、「ものを大切に」あるいは「環境」なんていう言葉を話題にしたりしているいっぽうで、おおかたの人たちの意識は相変わらず「使い捨て」の感覚が強く、その矛盾はどこから生まれているのだろうと思うばかりだ。
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四阿山

2007-03-18 09:06:24 | 自然から学ぶ


 「菅平牧場」から正面に見える根子岳の奥に四阿山(2354m)がある。その山を含めた菅平が善光寺平はもちろん、けっこう山間地域からもよく見える。それだけにこの山はこの地域では象徴的な山なのかもしれない。長野には社会人になったころにも少しの間住んでいたが、そのころはこの山の存在などほとんど意識しなかった。なぜかといえば、意識して見ないとはっきりとは視界に残らないからだ。比較的遠方がかすんで見えることが多く、山を見ていなかったということもあるかもしれないが、記憶に残らなかったのだ。どうしても育った地域の山と比較してしまうが、それまでの自分の印象にある山はかすんでいるということはなく、曇っているか晴れているかという二者択一的に山の稜線が記憶に残っていたわけだ。だから曖昧に見えているか見えていないかという選択肢はなかったのだ。ようは、山というものはもっとはっきりと視界に入るものだというのが、自分の経験だったわけだ。

 さて、そんな四阿山のことを『長野県史』民俗編から拾ってみようと思ったのだが、意外にもそこから拾い出すことはできない。唯一「菅平に4回雪が降ると初雪が降る。(長野市稲里町境)」というものを見つけた。結局この平の人たちもこの山をあまり意識していないということがわかる。以前年配の同僚に「あの山はなんという山ですか」と聞いたことがあるが、地元の人だったがあまり認識していなかった。むしろ西から北に見える北信五岳といわれる山々や虫倉山、そしてさらに向こうに見える北アルプスの方が印象として強いようだ。わたしがかつて印象に残らなかったように、この地の人たちの心からも菅平方面はかすんで見えるのかもしれない(実際は太陽の昇る時間帯にはよく見える山ではあるが)。それでも四阿山は日本100名山のひとつである。きっと意識的に見ている人は見ているのだろう。

 写真は上水内郡中条村の峯奈良井という集落の村道脇から撮ったものである。小川村境の薬師沢の谷を西に見て、尾根伝いに村道が南北に走っている。尾根伝いの道だから、左右に谷を見ながら虫倉山の麓まで道が続く。その道から長野市方面を望むと、遥かかなたに群馬県境との山並みがうっすらと望める。四阿山から菅平の一帯である。道沿いに建つお地蔵さんの奥にかすんでいるのがその山々である。ちなみにこの写真、本当はお地蔵さんの向こう側に、お地蔵さんの立て看板と、電柱の控え線が写っているのだが、ちょっと目障りだったので、遊びで消してしまった。だから実際とは少し異なる。あしからず。
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社会人歴別退社時間

2007-03-17 00:40:46 | ひとから学ぶ


 検索ページのランダムなCMをたまたまクリックしたら、イーキャリアというソフトパンクグループが運営する転職応援サイトの「残業ナシで年収370万円って、おとく?」というアンケート結果が開いた。「社会人歴別停車時間」という見出しに興味が湧いた。そこでそのページを見入ってしまったのだが、ページに載っているグラフが画像ではなかったので、わたしが作り直したグラフを紹介するが、データはそのページからもらったものだ。①1―3年目、②4―9年目、③10―19年目、④20年以上、という4歴別に退社時間を聞き取ったデータである。社会人歴だから年齢が固定しないが、おおまかにいえば25歳前後、30最前後、35歳前後、45歳前後といったところだろうか。わが身をそこに置いてみると、④世代である。意外なのは、どの世代もまんべんなく、40%余の人たちが午後7時以前に退社していることだ。もっと残業しているのだろうと思っていたから意外なのだ。しかし、調査そのものが社会人歴という明確な環境はわかるが、それ以外ははっきりしないのだから、まあ印象程度におさえておけばよいのかもしれない。

 自社の空間しか見ていないと、よその会社はどうなんだ・・・と思うことはよくある。そればかりか自社であって他の部署はどれほど会社に留まっているのか、なんていうことは気にはなるが調べたこともない。とくに忙しさが慢性化すると、正直「よそはどうなんだ」と思うのは当たり前かもしれない。それがはっきりしなければ、自らの空間の問題を認識することもできない。

 グラフから想像するに、若い世代が二極化するのは理解できることだ。早く帰りたい人もいれば、より先を見据えて人より遅くまで仕事をする人もいるだろう。また、若い世代に多いのは、上司が帰らないから〝帰れない〟という意識もある。昔から若い人たちが残業もせずに帰ることを、思いのほか気に入らない人がいる。そういう人たちがいる以上、いわゆる〝帰りにくい〟という意識が生まれる。まさにわが社にもそんな雰囲気がかつては強くあったし、いまだにそういうことを口にする人はいる。そんなことほ意識すると、そこそこわたしくらい高年齢層に近い者は、早くに帰る必要があるのだろうが、それがなかなかできない。だから、せめても帰りにくい雰囲気は作りたくないと常に思っている。③の10―19年目という世代が、全体的に退社時間が遅くなるのは想像がつく。会社でも中堅ベテランと言われる人たちにとっては、自らが会社を支えているというほどの意識があるかもしれないし、またそうした意識を持ってよい世代ともいえるのだろう。反面、その上の④世代になると、前世代への手前もあって早く帰るようになる。これが自然な流れである。

 同ページには、「退社時間別 年収割合」というグラフも紹介されている。そのコメントにもあるが、退社時間と年収の関係は、全世代にわたって退社時間が遅いほど年収が高くなることが示されている。当たり前と言えば当たり前で、残業すれば年収があがるのは成り行きである。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****