山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(西上州 高田氏)⑧

2015-11-22 12:31:34 | 氏族の追跡
高田氏の系譜

吾妻鑑に関する一説が「北甘楽郡史」に述べられている。「東鑑を見しに文治四年(1188)三月十五日、梶原景時の宿願にて、鶴岡道場に大般若経の供養を行わる。頼朝、結縁のためにこれを詣ず。路地随兵三十人の中に、高田源次あり、建久元年(1190)十一月七日、頼朝上洛、六波羅着到の際、後陣の随兵第十六番に、高田九郎あり、仁治二年(1241)二月十五日、高田武者所盛員、長掃部左衛門尉秀連と、上野国菅根庄内、堺の争論ありてこの日対決せらる。・・・略 ということあれば、疑いもなくこの辺は高田氏の所領也。系譜は次のごとし」

源頼政ー頼兼ー頼茂
              -高園ー盛員

              (兄弟)

源頼政の四男蔵人頼兼の孫、武者所高田太郎盛員は、美濃国から甘楽郡一宮野庄に下向し、後に妙義菅根庄の地に移り、この地を領有するようになり、後裔に高田小次郎が出た。菅根庄の名は、「北甘楽郡史」にあるように菅原村の菅原神社とゆかりがあろう。盛員は美濃国から一宮野庄を経て、甘楽郡菅野庄高田の郷(現在、妙義町高田に移ってから、この地の高田を家号として高田を名乗ったと思われる。)

 妙義町高田城地図
 「北甘楽郡史」では菅根の庄になっているが、「寛政譜」は菅野庄とあり、高田小次郎憲頼を菅野大膳亮とも称されていることから、おそらく菅野庄の菅野をとったものと思われるので、菅野庄と言う方が正しいと思われる。
 高田氏は現妙義町上高田・下高田一帯を本拠地としたと推定され、当庄境争論を起しているので当庄に接した地が庄内に所領を有していたと思われる。高田武者所盛員は高田一帯に勢力を有していた御家人(鎌倉幕府の将軍の家臣)であろう。
 文中に「上野国菅根庄内の境界争論」とあるが、盛員は菅野庄の境の事につき長秀連と争い敗訴の結果、上野国守護安達能兼から仁治二年(1241)二月二十五日所領の一部を削り取られたようである。この時には執権北条泰時の御前で対決させられたとあり、この敗訴により所領一所を没収させ、「菅原の城に移りたるはあらざるか」に信がありそうで、当然憲頼の時代には菅原城が本城であったと思われる。
 かつては高田城(現在も下高田に高田城址があります。)が本城であったが、いつの頃かおそらく盛員の時代菅原城に移ってからは、菅原城が本城になったものであろう。 盛員から十代の高田小次郎憲頼の頃に、高田氏の城は本城高田城ほか郷土谷津・筑前上・菅原・桐の木坂・奴居出・春日田・御屋敷・匿久保・西牧などの属城があった。

高田城

妙義町下高田の高田城を本城にしていた高田氏が菅原村の菅原城に移った時期、経緯はもっと研究が必要と思います。

次回 長野 戸隠 大昌寺の砦


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