山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武居城

2017-07-22 21:08:40 | 山城ー信州
武居城は長野県諏訪市南町にあります。

武居城地図

地方道16号線の信号高部から市道を南に進み、500mくらい四つ角を右折します(遺跡案内の看板有)。下馬沢川を渡って墓地に突きあたり、左に進みます。

周辺マップが掲げてあります。マップの現在地から南に壕道を進みますと

大きな曲輪があり



三段の曲輪を確認できます。

俯瞰図は「信濃の山城と館6」より、手前の武井平から左手上に描かれている山伏塚とある三段の曲輪が上の写真です。

山伏塚から登ってゆくと、遊歩道になります。

山道を登るのですが、道の右手上は曲輪群でした。ただ草が覆っており、冬場でないと確認できません。

草深い曲輪群を上りつめると、本丸城壁が現れます。本丸は害獣防止網で覆われていて、唯一南側から入れます


南入り口にある説明板
本丸

本丸だけは整備されています。

本丸の南側にある土橋、守屋山へ通じています。

武居城の歴史
『信濃国昔姿』の「神宮寺村武井城」の項を見ると、  「……後醍醐帝御代元徳二年(1330) 諏方五郎時重鎌倉の執権北條相模守高時の聟と成、信濃国を一円に得て、当所武居に居城を構在住す、東の方西沢口大手、西は女沢の要害嶮岨を用て搦手とし、南は削りたることきニ平有、是を本丸とし、都而片山の端より平の内は外曲輪、又西沢の堀切をは、から堀に准、天狗山、山伏塚は高遠口物見の出丸と見へ、馬出しの跡等残れり、時重は正慶二年(1333)北條一家滅亡之節鎌倉二而高時入道を介錯し其身も自害す、其後城主知れす、天文年中諏訪頼重家臣篠原禰三郎城代す、武田信玄に被責降参落城す、故に武田領と成、勝頼の代に至諏訪越中守頼量(豊か)領知す、天正十年勝頼滅亡の後、家康公御領と成、諏訪頼水公領主と成……。」  これによると五郎時重が居城を構えたとあって、片山の台地上に居館が造られたのが鎌倉時代の終わり頃になる。  その後、文明十五年正月の大祝継満の惣領家の謀殺事件で、継満は高遠へ逃れ、翌文明十六年に伊那勢の助力を得て諏訪へ侵入し、片山古城を取り立てて陣城として、郡内勢の立籠る干沢城に相対したことがあった。 その後、文明十五年正月の大祝継満の惣領家の謀殺事件で、継満は高遠へ逃れ、翌文明十六年に伊那勢の助力を得て諏訪へ侵入し、片山古城を取り立てて陣城として、郡内勢の立胆る干沢城に相対したことがあった。  「(文明十六年五月三日)トツ上官下位殿、伊那郡勢数小笠原左京大夫政貞、知久笠原諏方信濃守継宗、彼仁々初メ三百騎引攣、自峠下磯並前山に陣を張り、諸勢下處下位殿被食落馬、……同六日壬辰開片山古城被取立、然間郡内勢数向敵陣干沢城馳龍、……。」と、その時の様子を『神長守矢満実書留』に詳しく書かれている。  片山と干沢城の間は、前官を挟んで1kmばかりの距離であり、相方緊張した対陣となったと思われるが、府中の小笠原が背後に迫ったために継満や伊那勢は退陣したのであろう。  武居城は上社本宮の隣接する場所で、台地上は要害堅固で、館城を構えるには格好の場所であるから、古くから諏訪氏一族が本拠を置いたことは考えられるところである。  しかし、文明十六年の下位殿(大祝を退位した意)継満の軍勢があっさり陣城を構築しているところをみると、干沢城や大熊城のように守備兵が置かれる状態でなく、放置されていたように思われる。  天文十一年の武田勢が侵入した時も、当然、高遠勢と甲州勢の一隊は大熊城へ向かうに当ってはここを通過したであろうから、篠原弥三郎が城代として居ったとすれば、多少の抵抗はあったはずである。以後の様子は分らないが武田氏統治時代には、杖突峠ロを抑える任務はあったにしても、それほど重視されたようすはなく、改修もほとんどされなかったのではないかと思われる。  城跡の遺構であるが、前述したように、武居平と呼ばれる広い台地上が居館跡や諸士居館と比定されていて、保科畑の北下の一帯は空堀があったのではないかといわれている。  背後の小山は、武居平より比高100mばかりで、城の峯と呼ばれ砦のあった所である。 諏訪の魅どころガイドより




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